ここ数年春になると鹿児島県知覧から5月3日に開催する慰霊祭の招待状が来ている。先の大戦末期に沖縄戦で特攻した兵士を慰霊するところである。知覧特攻平和会館という。ある理由があってごく最近まで特攻隊員の遺族であったことを公言していなかった。
私の父の弟は昭和20年の5月に沖縄海域に数機で特攻した。隊長だった。戦後、九州を飛び立った特攻機の中で1機が故障となり帰還した兵士から弟の母は当時の話を聞いたという。ただ母は道連れにした隊員の事を思いやり、私には特攻隊員である事は死ぬときまで話さなかった。昭和45年ごろに父の母が亡くなった時、葬儀の席で初めて特攻隊員である事を知った。昭和20年の5月頃の特攻は積み過ぎた爆弾の重さで機敏な操縦が出来ず、米軍の攻撃によって撃墜されるのがほとんどであった。その中で父の弟の隊の攻撃は米艦船に被害を与えていたと記録にある。
記録映画で特攻の場面を見ると胸が痛む。もしかして父の弟の隊の飛行機かもしれない。
私の父の弟は昭和20年の5月に沖縄海域に数機で特攻した。隊長だった。戦後、九州を飛び立った特攻機の中で1機が故障となり帰還した兵士から弟の母は当時の話を聞いたという。ただ母は道連れにした隊員の事を思いやり、私には特攻隊員である事は死ぬときまで話さなかった。昭和45年ごろに父の母が亡くなった時、葬儀の席で初めて特攻隊員である事を知った。昭和20年の5月頃の特攻は積み過ぎた爆弾の重さで機敏な操縦が出来ず、米軍の攻撃によって撃墜されるのがほとんどであった。その中で父の弟の隊の攻撃は米艦船に被害を与えていたと記録にある。
記録映画で特攻の場面を見ると胸が痛む。もしかして父の弟の隊の飛行機かもしれない。