横浜市民への高島嘉右衛門(1832〜1914)に対するホンの少しの記憶遺産が新高島駅である。横浜高速鉄道(地下鉄の経営会社)によると「新高島駅」の名称は高島嘉右衛門)に因んで命名された。彼は横浜で土木・建築の請負に活躍し、高島町の埋め立てを行いました。
さて何で高島嘉右衛門を再び調べはじめたかというと太田愛人さんの本から岩手県(主に南部藩)のことが気になり、明治初期の動乱で朝敵となった人たちの生き様と高島家との関係が再び気になり始めた。高島嘉右衛門の小説はいくつかあるがどれも易に関する例を出している。しかし多くの高島嘉右衛門小説は嘉永6年のペリー来航以後から小説が始まっていてペリー以前は鉱山の開発問題で良いエピソードがなかったようだ。
高島嘉右衛門の実姉が大垣藩10代戸田氏彬の子(戸田欽堂)を産んだのが嘉永3年のことである。この間の経緯はなかなか出てこない。高島が活躍したのは開港後の横浜からである。世間一般のひとたちは暦の高島易断だろう。