年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

都立築地産院

2012年05月15日 | 築地市場にて

今は消えてしまった都立築地産院が福神漬を最後の確認のための調査に出てきた。高島易断の創始者である高島 嘉右衛門が一時投獄されていたとき、石川島 人足寄場(江戸時代の軽犯罪者や政治犯等を収容していた) 三瀬諸淵(周三) と獄中で知り合った。のちに三瀬周三は楠本イネの子高子の最初の夫となる。築地周辺には蘭学関係の記念碑が多く建って入るがシーボルトの銅像があるのはどうやらイネが明治3年に築地で産院を開業したことからという。このイネの産院は間もなく無くなる(明治6年)のだが丁度このころは原胤昭、戸田欽堂などが築地で英語を学んでいたころに重なる。イネの産院と築地産院は関係ないと思われるが物語としては面白い。横浜の高島学校が閉鎖され、築地に戻って英語を学び始めたころである。

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