福神漬関連の資料を集めているうちに、戊辰戦争の影響がかなりあるということに気がつく。井関隆子日記が発見されるまでの経過もそのうちに入る。この日記は初代琳琅閣主人斎藤兼蔵が販売したものである。この琳琅閣という古書店は今でも本郷東大前にあるが明治のころは池之端にあって、江戸時代繁昌していた妙薬「「錦袋円」」を売る勧学屋の店を守田宝丹から譲ってもらったという。
斎藤兼蔵は戊辰戦争のとき、函館五稜郭にいたという。五稜郭で戦死した土方歳三、中島三郎助と福神漬の喜兵衛、さらに浦賀でペリーから国書を受け取った戸田伊豆守氏栄の子孫鶯亭金升(長井総太郎)の墓がある東京五反田本立寺の住職の先祖は新撰組の人でやはり五稜郭にいたという。
井関隆子日記に戸田氏栄は天保の印旛沼工事のころにたびたび日記に出てくる。中島三郎助はぺりーが最初に日本来たとき浦賀で応対した人物である。土方歳三、中島三郎助の最後の絵を書いたのが中島登で本立寺住職の先祖に当たる。喜兵衛は千葉行徳の漬物商人で石井研堂の明治事物起源に出てくる缶詰の始まり『喜兵衛』で中島三郎助と同じ日、同じ場所で戦死している。勧学屋は了応禅師の店で秋田では了応が福神漬の元祖であるという。横手焼きそばには紅しょうがでなく福神漬が付いて出る。
斎藤兼蔵は戊辰戦争のとき、函館五稜郭にいたという。五稜郭で戦死した土方歳三、中島三郎助と福神漬の喜兵衛、さらに浦賀でペリーから国書を受け取った戸田伊豆守氏栄の子孫鶯亭金升(長井総太郎)の墓がある東京五反田本立寺の住職の先祖は新撰組の人でやはり五稜郭にいたという。
井関隆子日記に戸田氏栄は天保の印旛沼工事のころにたびたび日記に出てくる。中島三郎助はぺりーが最初に日本来たとき浦賀で応対した人物である。土方歳三、中島三郎助の最後の絵を書いたのが中島登で本立寺住職の先祖に当たる。喜兵衛は千葉行徳の漬物商人で石井研堂の明治事物起源に出てくる缶詰の始まり『喜兵衛』で中島三郎助と同じ日、同じ場所で戦死している。勧学屋は了応禅師の店で秋田では了応が福神漬の元祖であるという。横手焼きそばには紅しょうがでなく福神漬が付いて出る。