年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

江戸趣味漫話

2012年05月27日 | 福神漬
食道楽 昭和6年2月号
江戸趣味漫話という座談会の中の記事から
鶯亭金升は語った。
新聞広告に福神漬元祖と称して店があるのを見ましたが福神漬元祖というのは私が生きている限り、そんなごまかしは通らないのです。福神漬と言うのは私の師匠梅亭金鵞が現に私の目の前で命名したものなんですから、これは確かな証拠なんだが、あれは確か明治18年と記憶している。その時師匠は小石川指ヶ谷町に住んでいました。私は赤本(安価な低俗な本)の手伝いに根岸から毎日通っていた。ある日、下谷仲町の酒悦から師匠の家に使いが来た。酒悦というのは江戸時代からの屠蘇を売るのが商売で、その外にカラスミとかウニとか酒の肴を売っていて、そのため酒悦という名をつけたかどうか故事来歴を調べたこともないけれど、その酒悦から使いが来て、実はこの度新しい漬物を作ったからどうぞこれに名前を付け、引き札を書いてもらいたいというので試みに食べてみると、なた豆とか大根とかシソ等が入って居り、醤油で煮てあった。それを師匠が食べながらこの材料は七色にできるなら、お前の所は仲町で弁天様の側だし、七色の材料と見立てることもできるから、名前を福神漬にするがよろしかろうというので酒悦でも大変喜んで七色の材料でこれを作って福神漬として売り出した。
 その師匠の書いた引き札の文句に『この漬物を食べると外の物が要らないので贅沢しなくなる。従って知らず知らずの間に金が貯まって福が舞い込む。よって福の神の漬物であるという意味のことが書いてあったと思う。

大正12年7月の缶詰時報の記事と似ているが少し違う部分もある。世間ではこれが福神漬の由来として通っていて、明治屋食品事典の語源の根拠となっている。
この昭和6年2月号の雑誌には福神漬缶詰の広告(小網商店・現三井食品)が載っている。 
 なぜ『七福神漬』にしなかったか疑問はまだ残る。鶯亭金升(長井総太郎)はまだ18歳で政府の言論弾圧の変遷は十分に知ってはいなかったと思われる。
コメント
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