年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

白旗論争の続き

2012年08月02日 | 福神漬

孝明天皇(明治天皇の父)が即位したのが弘化3年である。明治時代に編纂された維新史は弘化3年から記述が始まる。なぜこんなことが気になるのかというと浦賀奉行であった戸田伊豆守氏栄の経歴が殆どといってよいくらい日光奉行から浦賀奉行になったと書いてある。しかし良く調べると日光奉行の在任期間は1ヶ月ほどしかない。その前は駿府町奉行だった。しかし駿府町奉行になったときは天保年間である。従って戸田の経歴は他の史料から調べているとは思えない。
 ウィキペディアでも戸田の42歳までの経歴が書いていない。つまり誰も戸田氏栄の42歳以前の過去の経歴は重視しているとは思えない。浦賀奉行だった戸田氏栄はペリー来航時に浦賀に在任中で現場の指揮者で責任者であった。結果としてアメリカ国書を無言で受け取っただけで日本史歴史家から無視されたと思われる。
 戸田氏栄がいつから幕府の歴史編纂に参加したか不明だが20年以上文献と戦っていた。
『朝野旧聞【ホウ】藁』は文政2年(1819年)に儒学者の林 述斎(1768-1841)の指導監修のもとに戸田氏栄以下のべ20名以上の幕臣により幕府の歴史編纂が始まり、天保13年(1842)に完成した。
 ペリー来航時の対応に当たった浦賀奉行所支配下の与力や通詞等の上申書類は戸田の検閲を経て、老中に提出されたと思う。戸田の意識の中に歴史の文献になるということから「アメリカ国書を受け取った」ことは幕府の方針に反する行動と論理の整合性を図る意識があったと思われる。それは何か。『浦賀ではペリー来航情報が否定されていて、幕府財政難で軍備が不足していて、突然やってきたので攻撃することも出来ず、彼らの脅しから国書を受け取りことにしました。』ということになる。そこでこの論理に反する見解および行動等は可能な限り修正し、脅迫されたとか、オランダからの情報が幕府によって否定されたとかを強調しているように思える。
 吉田松陰はペリーの黒船を東浦賀で見て幕府の準備不足を嘆いていた。
コメント
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