年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

野田さんが大変なとき野田市へ

2012年08月09日 | 福神漬

日本経済新聞7月の私の履歴書『茂木友三郎』を読んでいて確認のためキッコーマン国際食の文化センターに5年ぶりに行ってきました。5年も経っているのに野田市の中心部はあまり変化があったとは思えない。野田市郷土資料館に先によって見学する。
 キッコーマン野田本社の後ろにある文化センターで『野田醤油20年史』を読む。
キッコーマン第16工場
千葉県行徳にあった酒造工場を譲り受け、醤油工場として明治29年頃から茂木啓三郎が経営を任されていた。明治33年から正式に『亀甲誉』ブランドとなる。明治31年頃から機械化を図り、保守的な醤油業界での先端的な工場となっていた。ちょうどこの頃行徳押切の山田福神漬缶詰工場が創立されている。明治の時の醤油販売の取引は新規拡大が難しく、新たな需要が現れない限り無理な投資は出来ないと思われる。この点近所にあった福神漬缶詰に醤油を納品することは事業拡大にとって必要不可欠の要素であった。
 当時の缶詰工場の最大の需要先は軍隊で日露戦争前の朝鮮半島がそろそろきな臭くなっていたかもしれない。茂木啓三郎がどこでこの情報を仕入れていたのだろう。想像できるのは柳橋か葭町の芸者あたりかもしれない。この辺の史料は殆ど期待は出来ない。
センター長の話だと、大正年間に野田の醤油業者数社が統合しキッコーマンが出来たのだが統合以前の記録はまだ公開されていないので資料があるかどうか判らないという。
コメント
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