年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

明治15年

2012年08月14日 | 福神漬

17歳の石井民司(研堂)は福島県郡山市郡山小学校の代用教員だったのが明治15年頃である。この頃福島県では県令となった三島通庸と自由民権運動が衝突していた時期だった。福島県の中では郡山付近は自由民権運動に参加している人は皆無といってよかった。その理由は郡山を含む、安積地方の指導者は明治政府の大規模な土木工事で恩恵を受けていて、明治15年10月に安積疎水の工事の完成式を挙行した。福島に於ける反自由民権運動の拠点の郡山に石井は居た。後の石井研堂の著書『明治事物起源』には福島事件の記述がなく、加波山事件から始まるのはこのような理由からと思われる。また石井の友人であった高橋太華は二本松藩士族の子孫であり、やはり奥羽列藩同盟を裏切った三春藩に対して遺恨があり、福島自由民権運動の指導者河野広中(三春藩)には憎悪の感情があったと思われる。明治9年東京銀座の新聞社(公益問答新聞)に勤めていた花香恭次郎がなぜ東北に地に向かったか不明であるが新聞社主の服部撫松(立憲改進党)は二本松藩公用人だった。服部と西南戦争の記事方針で対立した花香は自由党へ向かった。
 明治18年高橋太華は上京し、東京大学に入るが病気のため退学し、明治20年日本に於ける最初の少年雑誌を創刊し編集に従事した。この頃高橋の少年雑誌の関係から東京根岸に住んでいた文化人グループと付き合い始め、高橋も根岸党の一員とみなされるようになった。根岸党は酒を飲み交友して居た。その酒席で福神漬の缶詰が出てきていた。石井は奈良漬でも酔うタイプで根岸党との付き合いは深くなかったようである。
高橋太華は太華山人という筆名で少年のために『河村瑞賢』の伝記を書いた。河村瑞賢は福神漬の元祖という漬物を造ったと言う人もある。
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