年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

中島三郎助と水戸藩

2014年02月04日 | 福神漬

『水戸藩の軍艦建造にかかわった三郎助は、
その礼として目立った産業のなかった浦賀のために、
水戸藩の塩の専売権を譲り受け、
そこから得られた利益は、浦賀の発展に大いに貢献したといわれます。
一方、自身は、お上より充分禄をいただいているのでと丁重に断り
決して礼を受け取ることはありませんでした。』
 このように言い伝えがあるが水戸藩と中島三郎助の関係の具体的な文献がまだ見当たらない、中島の経歴から石川島の水戸藩造船所だと思うが中島自身が石川島へ行った記録がない。ただ安政地震の下田で大破したロシア軍艦の再建造で戸田へ行った記録があるようだが、中島が戸田に着いたときには既に完成していたという。どのような中島の行為が水戸藩の軍艦製造に関わったのか今調べている。
 西浦賀の干鰯問屋は上方に送る肥料の集積地として繁盛していたが、天保の改革で東浦賀の塩問屋は疲弊していた。この塩問屋と行徳漬物商人との関係があって、戊辰戦争の最後の戦闘で中島親子と浦賀奉行衆の戦死者の中に漬物商人が混じっていたと想像できる。
コメント
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