77さんのブログを読んでいて気になった本を読みに行く。
大名華族 蜂須賀年子著を読む。戦前の華族の女性は自己の意思と関係なく縁談が進められ、さらに男子を産まなければ側室を求められる、男子製造装置だったようだ。
1階の法制史のところで関東取締役出役の資料を読む。1820年代に出来た役職だが、最近になって地方史を研究している人が増えて充実した気がする。今気になるのが浪曲となった『天保水滸伝』の背景である。舞台となった千葉県銚子付近は水産業(干鰯=関西で肥料の需要=西浦賀問屋との関係有)、醤油醸造業、利根川水運業で繁栄していて、他の関東の疲弊した農村の乱れと異なる背景がある。特に弘化年間から嘉永年間にかけて様々な事件が重なる。逃亡者高野長英が万歳村の花香恭法のところを尋ねたのも嘉永3年である。この年、大原幽学が巨大な道場『改心楼』を建てた時期でもある。博徒の残党でもあった下総・万歳村無宿;勢力富五郎の取締りの合った時期であった。嘉永2年4月自決
わざわざ江戸より高野長英が千葉万歳まで行った理由か不明であるが長期滞在を考えていたのではなかったのだろうか。しかし万歳の花香家は改革組合の寄場村の親村でさらに村の代表の一人だった(二人代表)。関東取締役出役から出る情報通達が比較的早く手に入ることが出来て、高野が早めに万歳村を去ったと思われる。
情報をどうやって高野長英が知りえたのだろうか。