千葉県の外れの飯岡町の人達のマスコミ公害からこの本は始まる。史実と異なる浪曲の世界を出来るだけ史実に近づけることを目指した本のような気がする。
戸田伊豆守氏栄が弘化5年から嘉永年間浦賀奉行となっていたがこの時期に幕府外交顧問であった筒井政憲との関係が始まったように思える。
鶯亭金升日記によると南町奉行だった筒井の斡旋で長井家に養子となった。ここに天保水滸伝のことを知る必要性が出てきたようだ。ほぼ同時期、同地域とも言える東千葉の干潟万歳村で起きたことを説明しやすい。
嘉永のはじめ将軍の軍事演習とも言える小金原のしし狩りがあった。このしし狩り警備という名目で勢力富五郎が自決に追い込まれた。と同時に強引に犯罪者として訴訟された大原幽学がいた。嘉永3年逃亡者高野長英が万歳村の花香家を訪れ、金を借りた。嘉永3年10月末江戸で内田弥太郎(五観)の支援の隠れ家で町奉行の手下によって惨殺された。当時の記録(藤岡屋日記)でも内田弥太郎が処罰されなかったことを記述している。
万歳村の花香家の墓地に内田観斎の碑文がある。花香家は和算関流内田弥太郎の弟子だった。嘉永2年から3年頃大原幽学の訴訟の時期と重なる。幕臣長井家の知行地の一つとして飯岡町の外れのところにあった。今の地名で上永井、下永井となっている。飯岡町史によると長井の知行地は太平洋の荒波による侵食で大幅に少なくなっているようだ。
飯岡の話がなぜ浦賀奉行とつながるかは当時の産業の力が大きい。上方へ送る干したイワシを魚肥料として浦賀の干鰯問屋と交流があったようだ。飯岡助五郎も三浦の出身でもある。作家山口瞳の自伝的小説(血族)でも先祖が飯岡助五郎の応援に行っていたようだ。山口瞳の墓所も東浦賀にある。