日本で太陽暦採用から143年となる。暦の計算をした内田弥太郎の名前も今では忘れられている。土地の計算を坪単位で今でも使っているがこのもとの枡とか尺の実物は上野の博物館にある。内田弥太郎が収集したものを基準としているようだ。
高野長英が嘉永3年10月末に南町奉行の配下の者によって惨殺されたが当時の町のうわさ話を収集していた『藤岡屋日記』でもどうして長英を匿った内田弥太郎が咎めを受けなかったか不思議に思われていた。
長い間福神漬の資料を収集していると関流和算家の同時の第一人者であって浦賀で下曽根金三郎の配下として嘉永3年頃働いていた内田を処分することを阻止する動きがあったと想像できる。
日本独自の和算の発達が黒船来航以後西洋の文明に驚くほど早く対応できた原因の一つである。それには内田の処分がなかったこともあるだろう。