本の断捨離で下記の本が出てきた。
ビジネスの生成―清涼飲料の日本化 河野昭三著から
72頁に嘉永6年のペり―来航時に、ラムネが日本に入って来たと河野氏は考察している。さらに河野氏はもっと前に日本へ渡来していて、浦賀の人たちはコルク栓のはじける音に驚いていないと考察している。どうも文献上のラムネが日本に入った時代が不明だ。それは文字文献と飲料のラムネが一致していないことから来ていて、江戸時代に日本と中国の動植物を調べる本草学で、貝原益軒が大和本草を著したとき、はじめて日本にあって中国にないものが知られたと似ている。
173頁
明治12年と19年のコレラ大流行。渋沢栄一の妻、千代も1882(明治15)年に流行したコレラによって、42歳の若さで急逝した。当時はまだ医学が進歩していなく多くの迷信的治療が行われていました。
明治19年夏にラムネがコレラに効くということで急に売れるようになり、ラムネ製造が間に合わないという記事が『東京横浜毎日新聞』に報道されたとあり、横浜開港資料館の地下の図書室で記事の出どころを探したが見つからなかった。
明治19年7月20日付けの東京日日新聞にコレラにラムネが効能在りそうな記事があった。このころはすでにラムネの瓶がキュウリのような形の瓶から今も使われいるガラス玉入りの瓶に代わっていた。
多くの日本の食品業界は売れ行き好調の情報を得ると、新規参入の業者が増える。いわゆるxxxブームという。栄枯盛衰は激しく、今は漬物業界を席巻した麹ブ-ムも静かになった。ある漬物メ-カ-の営業は当然自社商品の販売促進を図ることのほかに他者商品とか漬物に関連しそうな商品情報収集が営業マンの仕事であると言っていた。
粗製乱造の明治20年代のラムネは異物混入が多く、ラムネ瓶の洗浄が不十分だった。当時の衛生を管理していた警察の記録では、鉛、ガラス破片、ミミズ等が入っていたことが解かる。ムシ等を引き寄せる砂糖を使用しないで、アメリカで発見されドイツ経由で日本に入った人工甘味料サッカリンを密かにラムネに使用した理由だった。サッカリンを使用したラムネにはアリが寄り付かず、瓶の洗浄が簡単になり、警察の取り締まりを回避することが出来た。
サッカリンという人工甘味料の普及は甘みの追求と、警察の取り締まりを避ける工夫だったかもしれない。人の甘みの感触を忘れさせることは出来たが昆虫の感覚は騙せなかったようだ。
戦前の公衆衛生の管轄は警察だった。従って飲料のジュ-ス等の混濁は腐敗と見なされ取締りの対象となったようだ。前科数十犯という飲食業者がいたという都市伝説が残る。
砂糖の少なかった時代の漬物にサッカリン使用は時代の要請であった。戦後に中国や外地から引き揚げた人たちが、山間部の荒れ地開発で野菜栽培を始めた。東京・大阪等の都市から遠く、取れたダイコンを加工し、沢庵漬にし、サッカリン使用で安価で大いに売れた。サッカリンは有害と言われ、規制が入ったが戦後の混乱期のサッカリン入りの食物を食べた日本人はまだ生きている。