本の整理中で、残留する本に 彰義隊 吉村昭著がある。
吉村昭の戊辰戦争の小説で、上野寛永寺の裏ともいうべき、日暮里の生まれの作家であったため、どちらかというと幕府方の重きを置いている感じがある。
福神漬の文献調査で一番不思議だったのが、アジア歴史資料センタ-で(福神漬)で検索した時、大倉組の陸軍第四師団宛だった文書が出た。なぜ大阪の陸軍第四師団へ福神漬300樽を献納する文献が明治28年の日清戦争の終わり頃に出てくるのだろうか。ずっと謎だった。東京名産と在り、それが大阪で献納することは何を意味しているのか長い間、理由が不明だった。
太陽暦の今の暦では上野の戦争は、東京の梅雨時で慶応4年5月15日〈1868年7月4日〉 、仮に火災になっても少なくとも大火災にはならないと新政府軍の参謀大村益次郎は考えていたようだ。巧みな戦略と戦術で一日で上野寛永寺に立てこもる武士(彰義隊)を敗退させた。その後の残党狩りで江戸から不満幕臣を退けた。上野の山は戦闘で荒廃し、公園と復活することとなった。それには十年近くの年月が流れ、多くの寛永寺でにぎわっていた寛永寺門前の商店を衰弱させた。幕府の時は、上野に香煎茶屋が3軒あったが、明治まで生き残ったのは、酒悦だけだった。その酒悦が上野が観光地化する時に商品開発で観光客用の持ち運びできる容器(缶詰)に漬物を入れたことから、福神漬の歴史と言い伝えが始まる。
多くの幕末史系の小説はペり―来航から始まり江戸城明け渡しとか箱館戦争の終結で終わる。上野の彰義隊に担がれた輪王寺宮能久親王(後の北白川宮)は朝敵となった。
北白川宮は朝敵の過去から、日清戦争時に汚名をそそごうと嘆願書を出して出陣を願っても前線に派遣されなかった。日本と清国(中国)との戦争勃発時に大阪第四師団長は北白川宮だった。これで福神漬がわざわざ東京名産と記述してあるのに、この小説で大阪で献納された謎が解明できた。明治27年の暮に日清戦争の大本営の参謀総長が有栖川熾仁親王が病に倒れ、翌年その代行に北白川宮の兄にあたる小松宮彰人仁親王が明治28年1月26日に小松宮が死去した有栖川宮の後任の陸軍参謀総長となった。
上野戦争時に官軍と彰義隊の双方に武器を売ろうとした死の商人の大倉喜八郎を思い出した。大倉は復活した北白川宮へ福神漬で陸軍へ取り入れようと画策したのではないのだろうか。上野公園内の動物園前に騎馬の銅像があるが小松宮彰人仁親王で本来ならば北白川宮となるが戦前の歴史観では無理だったと思われる。北白川宮の銅像は北の丸の旧近衛師団司令部の庁舎前 にある。
北白川宮家は悲劇の家と言われ靖国神社の「遊就館」 の中では皇族として多く面積を占める展示がある。福神漬の歴史を調べている身としては何かゾットするものがある。
『能久親王事蹟』 棠陰会(とういんかい)編 東京偕行社内棠陰会 春陽堂 1908 鴎外歴史文学全集1 岩波書店
明治10年2月15日 偕行社開社式を挙行
明治12年2月22日 地学協会長
4月8日 東叡山の変に随従しまつりし人々集め、宴を給う。
明治13年2月12日偕行社に入る
このような関係から靖国神社では北白川宮家の人々は重要な人物だったと思われる。さらに左派と米軍等の圧力を避ける人物とされたかもしれない。
靖国神社境内の食堂は戦前のカレ―ライスの味がするという。一度実食しないといけないと感じる。
作家 吉村昭の彰義隊は彼の最後の歴史時代小説となった。