年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

時計の回りが早くて

2025年02月26日 | 福神漬
自分が自己の当日の行動を決めて、予定しても家族の日程と宅配の様子でしばしば予定が未定となる。さらに天候の様子も変わる。
 一応今日の予定は昨日のうちに決めているが、今日家から出て、空の様子から決めるだろう。2月26日は226事件の記念日で先の戦争に向かう促進事件と今では思われている。この評価はまだ自分としては納得がいかない。どこかでためらいがあったはずだが、議論のできない日本では空気を醸成した勢力が勝つ事例が目立っている。
昨日の自宅蟄居で押し入れから取り出したファイルを眺め、整理を始めた。
 能久親王御事蹟と言う森鴎外の関係する資料で、鴎外記念館図書室でコピ-したものだった。福神漬の資料調査で森鴎外は福神漬の記述のあるものが見つかっていない。
 九段下の昭和館図書室で、能久親王御事蹟と言う本を検索すると、2冊出て来る。1冊は台湾教育委員会の編纂で、内容は能久親王御事蹟と台湾の神社にどう能久親王が祀られているかの本で、戦前の台湾でどのような皇民化教育をしているかわかる本だった。もう1冊が日本陸軍の親睦団体の東京偕行社堂陰会が編纂している。この仕組みの解読が多くの森鴎外の研究者でなされている様子があって、自分も福神漬のバックグランドから眺め、分析してみたいと思っている。
 結論から言うと、大方の記述が鴎外と共に台湾で過ごした陸軍幹部の気持ちと、実際の台湾南部の戦場で日々弱っていく北白川宮能久親王の病気治療を忌避する意志の様子が書かれている。この解釈が今の時代と明治期の解釈が異なっていて、評価の揺れが見える。
 そもそも福神漬は上野戦争で荒廃した上野寛永寺の公園化し、文明開化の象徴地域とし、観光地化となり復興が出来つつあった。その観光客用の持ち帰ることの出来る缶詰入りの漬物の商品名が福神漬と言う名称だった。当時のまだ親幕府感でブランド名を弾圧されないよう、谷中の七福神巡りを思わせる引き札を創った。中の7種の野菜に武士の象徴である刀を意味する刀豆がその暗示の一つである。しかしこの込み入った暗示は普通の東京人には理解できず、今では福神漬の中身の研究はない。漬物業界の人でも今では江戸時代に切り口が徳川の葵の紋に似いていて、下品の野菜としていたキュウリが今では福神漬の原料に加わってしまった。悲しい。

 資料参考 研究誌 鴎外88号 村上裕紀
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする