年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

13日朝のFAX

2009年03月16日 | 築地市場にて
13日朝のFAX
市場情報会社より築地水産のシャッターが閉まったままであるというFAXが13日昼前届いた。かねて懸念していた金融機関の締め付けの厳しさが表れてきた。今度の不況は半端ではない。
 15日は春本番と言う陽気で築地市場の中ではライン引きなどをしていた。でも築地は3月末危機を越えねばならない。
 移転の工事が始まるまで水産仲卸800弱が300軒位に減ると言う情報会社の説が真実味を帯びてきた。300なら今の築地市場再開発も可能の数字。
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鶯亭金升日記より

2009年03月15日 | 福神漬
鶯亭金升日記より
一年ぶりで都立中央図書館で借りる。詳しく読めばよいのだがいつものようにあっさりと関係ないところは省く。
明治22年2月21日下谷区茅町2-18に引っ越す。9月18日に転居。この借家は持ち主が福地桜痴で債務を払うため売却した。買収したのは隣人の日本郵船取締役だった浅田正文であった。彼は火事の類焼を避けるため火よけ地として買ったという。今の横山大観記念館の隣となる。

 大正12年7月20日 午後丸の内三菱新館5階の缶詰品評会へ出席。福神漬の名称について先師梅亭翁の談を演説する。
 この年9月1日に関東大震災になり鶯亭の勤務していた毎日新聞は燃えた。鶯亭金升と缶詰業界とはどんな縁があったのだろうか。
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日本文壇史 2 伊藤整著

2009年03月14日 | 福神漬
日本文壇史 2 伊藤整著
明治の20年頃からの江戸の戯作者から新文学創始者の苦闘の歴史が書いてある本。明治19年坪内逍遥が『内地雑居の夢』という政治・社会小説を書いた。大隈重信の政治活動をモデルにして条約改正したら横浜や築地の居留地が廃止され、外国人と日本人が共に住むようになれば将来の日本が変るだろうという空想を書いた小説であった。この小説は大隈の周辺からのクレームで連載が中断された。大隈重信の遭難前のことである。
 明治20年代の反欧風化は反内地雑居を意味していて坪内が小説を書いていたとき頃から始まっていたのだろうか。明治20年代の条約改正反対運動が外国製の食品のニセモノ食品の取締を躊躇させ、食品不正をはびこらせたのはこの影響があったとは今では誰も考えないだろう。

 明治20年頃から根岸に集まった人たちがその生活の糧を新聞に置きつつ小説を発表していった過程が描かれている。戦後まで生きていた鶯亭金升も明治23年の番付に(亭)のところに二葉亭四迷と同じところに作家として番付に掲載されている。
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築地小劇場の縁

2009年03月13日 | 福神漬
みずほ銀行築地支店
みずほ銀行築地支店は築地小劇場の跡地にあります。市川左団次と小山内薫 (雑俳仲間)で大正十三年、築地小劇場を創設しました。
 現在、わが国にはいろいろな新劇の劇団がありますが、もとをたどっていくと、ひとつの劇団にぷち当たります。それが築地小劇場です。築地小劇場は日本の新劇のルーツともいえる劇団です。

小山内と左團次は同年代(左團次が1年上)で10代半ばでともに鶯亭金升の門に入り、雑俳を学んだ仲であったのです。鶯亭金升は福神漬の命名者の弟子で最後の戯作者とも言われた人でした。福神漬の歴史に築地が再び参加してきました。
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ニセブランドが日本で蔓延した頃

2009年03月12日 | べったら市
ニセブランドが日本で蔓延した頃
明治20年代に日本で外国の商品の真似をしたものの取締が緩くなった事があった。中公新書『 徳富蘇峰』のなかでその理由がわかった。
 不平等条約改正問題で幕末に締結した日米和親条約等が日本国内に外国人の居住・旅行・営業などを居留地内に制限していたが、条約が対等の関係になると外国人が日本国内で自由に日本国内に流入する恐れがあった。しかし明治20年代の中頃から日本の産業保護・国粋保存・さらに安価な中国人労働者の国内流入の恐れが『内地雑居』 の問題を強調されてきた。この問題の複雑な展開で外国の商品のニセモノの取り締りが控えられた。外国商品をまねした物が日本で販売していれば後で参入するのが難しくなる。つまり早く条約改正したほうが日本市場を確保できると考えさせようとした。これは平成の今の中国で日本の地名の商標登録がはびこっている状況と似ている。
 このため食品の不正もはびこり、食品事故が多発し明治34年頃に種々の食品衛生の法規が成立した。

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しし脅し

2009年03月11日 | 宅老のグチ
しし脅し
日本庭園などで竹筒に水を入れてシーソーのように一方の口に水がたまると重みで落下し排水し音を発するものがある。これをしし脅しと言うそうだ。溜まった水が一気に流れ出て空となる。
 最近の新聞紙上で農業の薦めなどを見ていると他の仕事と違う怖さを知られていない。まじめによい仕事をしていて天候にも恵まれても豊作貧乏と言う怖さを知らない。価格がつかない怖さは最近の住宅価格と同様なことで生産者のやる気を失うことになる。需要と供給の関係である程度まで価格は上昇するが一度供給のほうが需要より過剰となると生産費がいくらになるか関係なく下がる。このため政府は価格維持のため主要な作物は一定の価格以下になると損失補てんすることとなる。そこで漬物の出番となるのだが昔と違って品種が生食用で加工に不向きな野菜が増えている。困ったものである。加工にも向く品種の開発が必要となる。
 
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作家人口

2009年03月10日 | 福神漬
作家人口
今の日本において売文で生活できる人はどの位いるのだろうか。幕末の戯作者たちは売文で生活することは出来ず、江戸時代は道具屋か薬屋を兼業しなければならなかった。また後援者を必要としていた。明治中期までまだ不景気で福神漬の命名した戯作者梅亭金鵞も生活のため商品名と引き札広告文を考えたと思われる。酒悦主人と戯作者の関係は池之端周辺で遊んでいた縁とも言える。
 出版不況で雑誌等が休刊し活躍できる場が減っているのが気になる。このような時代は幕末だと退廃的な風潮になっていった。今の時代で退廃的な気分を文章で表す時代ではないので薬物に向かうのが気がかりである。
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年度末のお手続き

2009年03月09日 | 築地市場にて
年度末のお約束
3月の年度末と言うことで色々な継続するための書類を出すことになる。許認可の書類の更新と言うことだがうっかりしていると廃棄した設備も使用料を支払うことになる。これから車の入場許可証の更新とかが始まる。膨大な書類が発生するのだが法律で決まっているのでださないわけにはいかない。さらに年々都の条例が少しづつ変っているので、それに対応する書類を提出しないといけない。今年からは役員就任について暴力団関係者は排除される。さらに警察に照会するという。従業員意ついても市場の出入り禁止となるようである。つまり働けないこととなる。
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根岸派誕生の原因

2009年03月08日 | 福神漬
ツテ
明治の20年代の上野界隈・当時の下谷区には元幕臣やその子孫が多く住んでいたが次第に貧しくなっていったのが幸田露伴の生い立ちの歴史を見るとわかる。同様に夏目漱石も決して恵まれていたわけではない。ただ彼等は東京と言う文明開化の地にいて日々刺激をうけていた。
 上野周辺は幕府の教育機関が多くあった、湯島聖堂は「日本の学校教育発祥の地」といわれ、さらに上野寛永寺において天台宗を学ぶ学僧もいて、教育の地でもあった。明治になって東京大学も出来て学生の町となった。琳浪閣などの古書を扱う本屋も明治の中頃には上野池之端にあった。
 最後の戯作者といわれる鶯亭金升が京都人久保田米僊を根岸党に紹介したというのも彼が池之端に住んでいたころである。(敗者の精神史)新旧の文化が上野池之端と言う地で根岸党・派を生んだ原因でもある。

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古書売買の開基の地

2009年03月07日 | 福神漬
古書売買の開基の地
上野池之端は日本における古書売買の開基に地という。反町茂雄氏の本によると武江年表に『寛永・正保の頃、長崎より唐本の商人泉や半三郎と言うもの江戸に来たり、池之端に住し、初めて古書籍の売買をなし、のち大書肆(ほんや)となりたり。これを古書売買の初めなりぞ』とある。同じ池之端に住して、明治古本屋界雄飛した琳琅閣主人の談に、名を『千載に伝える妙薬は珍書を多く集め、これに蔵書印を捺印しておくに限る。誰でも珍書を粗末にするものがないから本と共に名は残る』
 上野寛永寺の学僧が多かったため古書店が商売として成り立ったと思われる。明治二十年代まで古書はどんどん消えていったと言う。価格がない貴重書が他の文化財とともに海外に流出したという。明治の琳琅閣に集まった文化人・企業人のサロンとだったと言う。
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新聞経営の危機

2009年03月06日 | 福神漬
新聞経営の危機
100年に一度の不景気がアメリカでは150年前に創刊された新聞等が次々と廃刊・休刊に追い込まれている。それはインターネットの普及と不況によって広告が減ったためと言われる。
 明治時代は新聞の創刊・休刊・廃刊・発行禁止がしばしばあって、読者層拡大の大きな流れは大新聞から小新聞に向っていった。大新聞とは政治等を扱い、風俗の事件とか芸能情報とかは少ししか扱わなかった。それに対して読売新聞などの小新聞といわれる新聞は一般庶民の興味を持つ記事を広く載せ販売部数を拡大した。
 最後の大新聞といわれる『 日本新聞 』は陸掲南が社長で根岸に住んでいた。後に正岡子規は日本新聞に入社し、日本新聞社社長の陸の隣に住み、そこで亡くなった。子規も根岸に住んだが根岸派・根岸党とは関係ないようだが交友があったと思われる。明治22年ころ不忍池のほとりに僅かな期間住んだがそこで福神漬は食べたのだろうか。資料はない。お堅い大新聞は最後に部数が減り買収された。正岡子規の墓の墓銘碑に日本新聞社社員となっているという。
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慶應三年生まれ

2009年03月05日 | 福神漬
慶應三年生まれの七人の旋毛(つむじ)まがり 坪内祐三著
漱石・外骨・熊楠・露伴・子規・紅葉・緑雨とその時代
七人の慶應三年生まれの道筋をたどっていった本。明治16年頃から日清戦争が始まるまで明治文壇史だった。まだこの時代は小説家が食べ物を書く時代でなく、新聞読者の要求する小説を作家に求めていた時代であった。新聞に載せる小説は年々変化していく時でもあり、今ではそのようなことは忘れされ誰も知らない。そんな文章の中に福神漬の資料を求めるのはさらに困難なことになっている。
 明治22年2月11日に憲法が発布されその後日本は保守的になった。憲法発布当日に急進的に洋風化を勧めた森有礼が暗殺されたのがその象徴である。旧い戯作者から新しい口語体の小説を創作してゆく時代で明治20年代は慶應三年生まれも20歳代となる。
 最近の作家の味めぐりの本はいつごろから始まったのだろうか。
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パリパリ煎餅

2009年03月04日 | 築地市場にて
パリパリ煎餅
1930年出版の正岡子規全集を借り出したが。紙質が悪くパリパリした紙で恐ろしい。昭和30年以前の本は東京都中央区図書館の規定で館外持ち出し禁止となっていて、さらにパリパリ本はコピー禁止という。
 グーグルの著作権問題の影響は何れやってくるのだが本を買うということは少なくなるだろう。それとも雑誌感覚で本を買い捨てする習慣になるのだろうか。
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幸田露伴と明治の東京 松本哉著

2009年03月03日 | 福神漬
幸田露伴と明治の東京 松本哉著
福神漬と根岸派の関係を調べていくうち、幸田露伴も根岸派の重鎮であった。露伴は生まれが慶應3年で翌年が明治維新なので明治の年代が年齢となる。生まれた地は根岸派の大部分と同じように下谷御徒町でいまのJR上野・御徒町間の線路の下に当たる。今でものこる摩利支天徳大寺のとなりであったという。上野戦争後徐々に落ちぶれていくが住居は今の千代田区神や台東区の中を転々とした。昔の区名で言うと神田区・下谷区を移転した。特に明治24年頃は2年間にわたって谷中7丁目に住んでいた。このことが根岸派の一員となった由来である。
 色々な下谷に関係する文人。特に親が幕府の役人とか武士の子孫は明治維新後、上野戦争を語ることが出来ず、ひそかにその精神(左幕=反薩長)を子孫に伝えた気がする。福神漬は漬物だが甘ショッパイ味がその底にある気がしてくる。そして江戸の濃い口醤油の気風が香る。
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食塩感受性

2009年03月02日 | 築地市場にて
『塩』は体温を温め 石原結實著
いわゆる塩分節減に反論する漬物屋が安心する本。日本人には塩分感受性のある人とない人があって、低塩にしたことによって血圧が下がらない人がいて、かえって無気力となる人がある。
 塩分感受性のテストは時間がかかって健康診断等では判断しにくいという。
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