浅田正文は東京市下谷区茅町2—16に住み、明治43年の日本紳士禄によると所得税139円納めている、茅町は現在の池之端一丁目
財界物故傑物伝下巻より
浅田正文(わが海運界の功労者)
初め岩崎弥太郎の三菱会社に入り、東京本社の会計役を任され,重用され、日本郵船会社の発足とともにその重役の一員に加わって海運界のために働きました。
三菱会社で岩崎弥太郎や川田小一郎の背後で経営を助け、信頼を受け、三菱会社の発展を助けた。三菱会社は事業の発展と共に海運を独占したため横暴の態度があるといわれて、これを利用して海運界に参入して数々の会社が競争を挑んできた。
三菱でこれに応戦したのは川田小一郎で、彼を事務総監とし協力して東京本社の采配を振るっていたのは荘田平五郎(日本で初めて複式簿記を採用)で浅田正文が補佐していた。
明治18年10月1日
明治政府は共倒れを恐れ、日本郵船会社を創立した。浅田は会計支配人となり郵船に参加した。
明治22年4月 理事、明治26年12月専務取締役。日清戦役直前に第一線を退いたが、明治41年まで在職、日本郵船の重役であった期間は満22年7ヶ月であった。この間明治29年10月東武鉄道創業、明治精糖、神戸電気鉄道の創業に参加した。
明治45年4月18日 病没 享年59歳
落語家の三遊亭円朝と交流があったと思われる。円朝の貴紳士交友を落語にした『七福神詣で』に出てくる。
森鴎外 小説「雁」明治44年
この小説は、明治13年に設定されていて、明治11年に三菱の岩崎弥太郎が購入していた茅町本邸の周囲の様子が描かれている。池の端御前と言われた福地源一郎(桜痴)の様子も描かれている。上野山下に在った料亭松源も明治44年の段階では消えていた。
小説「雁」は高利貸に妾となった女性と東大生の話であるが、池の端という場所が重要な位置を占めている。福地の隣の邸宅にはまだ日本郵船の浅田は住んでいなかったので小説には名前は出てこない。しかし小説の内容から明治13年頃には売りに出されていたかもしれない。浅田は明治45年に死去したので小説が出た時は存命中だった。
「福地さんと云う、えらい学者の家だと聞いた、隣の方は、広いことは広いが、建物も古く、こっちの家に比べると、けばけばしい所と厳(いか)めしげな所とがない。暫く立ち留まって、昼も厳重に締め切ってある、白木造の裏門の扉を見ていたが、あの内へ這入って見たいと思う心は起らなかった。」
池之端御前の末路
池之端御前とか吾曹先生といわれていた福地桜痴(福地源一郎)の芸者遊びはずいぶん古いもので彼の末期がさびしかった原因の一つでもある。福地の女好きは数を自慢とする粋人でもあった。70近き晩年まで一日として女から離れられない生活であった。
こんな道楽で花柳界に捨てた金も多く、その末は東京府会の勢力を利用して賄賂を取ったかどで裁判所に引きだされた。(無罪)これが公人としての失脚のはじめで、晩年の桜痴を見ると今昔の感にたえないものがある。(伊藤痴遊全集第13巻)
池之端の家は散々に金を撒いた結果、隣人の浅田正文の手に渡り、一時は住む家もなかった。明治20年代初めの池之端で開かれた茶会では福地の交友関係の広さがわかる。彼の茶室後が今の横山大観記念館の一部となっている。
明治という時代は女性の自立した生き方が困難な時代で、妾になるということも生活のための方便だった。しかしこのような行為が欧米の感覚を得た人達から批判されてゆくこととなる。
三菱には三綱領というのがあります。その中の『処事光明(しょじこうめい)
公明正大で品格のある行動を旨とし、活動の公開性、透明性を堅持する。』という見地から『蓄妾』は次第に語られることが文献がなくなり消えて行った。
財界物故傑物伝下巻より
浅田正文(わが海運界の功労者)
初め岩崎弥太郎の三菱会社に入り、東京本社の会計役を任され,重用され、日本郵船会社の発足とともにその重役の一員に加わって海運界のために働きました。
三菱会社で岩崎弥太郎や川田小一郎の背後で経営を助け、信頼を受け、三菱会社の発展を助けた。三菱会社は事業の発展と共に海運を独占したため横暴の態度があるといわれて、これを利用して海運界に参入して数々の会社が競争を挑んできた。
三菱でこれに応戦したのは川田小一郎で、彼を事務総監とし協力して東京本社の采配を振るっていたのは荘田平五郎(日本で初めて複式簿記を採用)で浅田正文が補佐していた。
明治18年10月1日
明治政府は共倒れを恐れ、日本郵船会社を創立した。浅田は会計支配人となり郵船に参加した。
明治22年4月 理事、明治26年12月専務取締役。日清戦役直前に第一線を退いたが、明治41年まで在職、日本郵船の重役であった期間は満22年7ヶ月であった。この間明治29年10月東武鉄道創業、明治精糖、神戸電気鉄道の創業に参加した。
明治45年4月18日 病没 享年59歳
落語家の三遊亭円朝と交流があったと思われる。円朝の貴紳士交友を落語にした『七福神詣で』に出てくる。
森鴎外 小説「雁」明治44年
この小説は、明治13年に設定されていて、明治11年に三菱の岩崎弥太郎が購入していた茅町本邸の周囲の様子が描かれている。池の端御前と言われた福地源一郎(桜痴)の様子も描かれている。上野山下に在った料亭松源も明治44年の段階では消えていた。
小説「雁」は高利貸に妾となった女性と東大生の話であるが、池の端という場所が重要な位置を占めている。福地の隣の邸宅にはまだ日本郵船の浅田は住んでいなかったので小説には名前は出てこない。しかし小説の内容から明治13年頃には売りに出されていたかもしれない。浅田は明治45年に死去したので小説が出た時は存命中だった。
「福地さんと云う、えらい学者の家だと聞いた、隣の方は、広いことは広いが、建物も古く、こっちの家に比べると、けばけばしい所と厳(いか)めしげな所とがない。暫く立ち留まって、昼も厳重に締め切ってある、白木造の裏門の扉を見ていたが、あの内へ這入って見たいと思う心は起らなかった。」
池之端御前の末路
池之端御前とか吾曹先生といわれていた福地桜痴(福地源一郎)の芸者遊びはずいぶん古いもので彼の末期がさびしかった原因の一つでもある。福地の女好きは数を自慢とする粋人でもあった。70近き晩年まで一日として女から離れられない生活であった。
こんな道楽で花柳界に捨てた金も多く、その末は東京府会の勢力を利用して賄賂を取ったかどで裁判所に引きだされた。(無罪)これが公人としての失脚のはじめで、晩年の桜痴を見ると今昔の感にたえないものがある。(伊藤痴遊全集第13巻)
池之端の家は散々に金を撒いた結果、隣人の浅田正文の手に渡り、一時は住む家もなかった。明治20年代初めの池之端で開かれた茶会では福地の交友関係の広さがわかる。彼の茶室後が今の横山大観記念館の一部となっている。
明治という時代は女性の自立した生き方が困難な時代で、妾になるということも生活のための方便だった。しかしこのような行為が欧米の感覚を得た人達から批判されてゆくこととなる。
三菱には三綱領というのがあります。その中の『処事光明(しょじこうめい)
公明正大で品格のある行動を旨とし、活動の公開性、透明性を堅持する。』という見地から『蓄妾』は次第に語られることが文献がなくなり消えて行った。