年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

福神漬物語 65

2010年01月16日 | 福神漬
浅田正文は東京市下谷区茅町2—16に住み、明治43年の日本紳士禄によると所得税139円納めている、茅町は現在の池之端一丁目
財界物故傑物伝下巻より
浅田正文(わが海運界の功労者)
初め岩崎弥太郎の三菱会社に入り、東京本社の会計役を任され,重用され、日本郵船会社の発足とともにその重役の一員に加わって海運界のために働きました。
 三菱会社で岩崎弥太郎や川田小一郎の背後で経営を助け、信頼を受け、三菱会社の発展を助けた。三菱会社は事業の発展と共に海運を独占したため横暴の態度があるといわれて、これを利用して海運界に参入して数々の会社が競争を挑んできた。
 三菱でこれに応戦したのは川田小一郎で、彼を事務総監とし協力して東京本社の采配を振るっていたのは荘田平五郎(日本で初めて複式簿記を採用)で浅田正文が補佐していた。
明治18年10月1日
明治政府は共倒れを恐れ、日本郵船会社を創立した。浅田は会計支配人となり郵船に参加した。
明治22年4月 理事、明治26年12月専務取締役。日清戦役直前に第一線を退いたが、明治41年まで在職、日本郵船の重役であった期間は満22年7ヶ月であった。この間明治29年10月東武鉄道創業、明治精糖、神戸電気鉄道の創業に参加した。
明治45年4月18日 病没 享年59歳
落語家の三遊亭円朝と交流があったと思われる。円朝の貴紳士交友を落語にした『七福神詣で』に出てくる。

森鴎外 小説「雁」明治44年
この小説は、明治13年に設定されていて、明治11年に三菱の岩崎弥太郎が購入していた茅町本邸の周囲の様子が描かれている。池の端御前と言われた福地源一郎(桜痴)の様子も描かれている。上野山下に在った料亭松源も明治44年の段階では消えていた。
 小説「雁」は高利貸に妾となった女性と東大生の話であるが、池の端という場所が重要な位置を占めている。福地の隣の邸宅にはまだ日本郵船の浅田は住んでいなかったので小説には名前は出てこない。しかし小説の内容から明治13年頃には売りに出されていたかもしれない。浅田は明治45年に死去したので小説が出た時は存命中だった。

「福地さんと云う、えらい学者の家だと聞いた、隣の方は、広いことは広いが、建物も古く、こっちの家に比べると、けばけばしい所と厳(いか)めしげな所とがない。暫く立ち留まって、昼も厳重に締め切ってある、白木造の裏門の扉を見ていたが、あの内へ這入って見たいと思う心は起らなかった。」

池之端御前の末路
池之端御前とか吾曹先生といわれていた福地桜痴(福地源一郎)の芸者遊びはずいぶん古いもので彼の末期がさびしかった原因の一つでもある。福地の女好きは数を自慢とする粋人でもあった。70近き晩年まで一日として女から離れられない生活であった。
 こんな道楽で花柳界に捨てた金も多く、その末は東京府会の勢力を利用して賄賂を取ったかどで裁判所に引きだされた。(無罪)これが公人としての失脚のはじめで、晩年の桜痴を見ると今昔の感にたえないものがある。(伊藤痴遊全集第13巻)
 池之端の家は散々に金を撒いた結果、隣人の浅田正文の手に渡り、一時は住む家もなかった。明治20年代初めの池之端で開かれた茶会では福地の交友関係の広さがわかる。彼の茶室後が今の横山大観記念館の一部となっている。

 明治という時代は女性の自立した生き方が困難な時代で、妾になるということも生活のための方便だった。しかしこのような行為が欧米の感覚を得た人達から批判されてゆくこととなる。

三菱には三綱領というのがあります。その中の『処事光明(しょじこうめい)

公明正大で品格のある行動を旨とし、活動の公開性、透明性を堅持する。』という見地から『蓄妾』は次第に語られることが文献がなくなり消えて行った。





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福神漬物語 64

2010年01月15日 | 福神漬
日本の実業家―近代日本を創った経済人伝記目録
日本工業倶楽部編集より

浅田正文の履歴は戦前発行された伝記本を圧縮し、まとめたように思える。明治18年日本郵船発足とともに会計支配人となり、22年理事。会計課長、函館支店長を勤め、26年郵船専務、29年川崎八右衛門(川崎金融財閥)創始者と共に東武鉄道を創立し、相馬半治・小川鋪吉(日本郵船取締役)と森村市左衛門(森村財閥の創設者)共に明治製糖を創立に参画して取締役に就任、他に帝国商業銀行・東京建物に創立や経営に関わった。相馬半治は後に明治製菓株式会社の創業者となる。
 慶応義塾出身等のことは記述されていない。浅田の経歴はどう見ても経営者と見るより会計支配人として見たほうが良いのだろうか。
 三遊亭円朝の落語「七福神めぐり」に出てくる財界人になぜ浅田が入っていたのだろうか。

 明治時代の役員・取締役は今の経営者と違って無限の責任を負っていたようで責任をとると言うことは財産を失うことになることを求められていた。後に帝国商業銀行での失敗により、浅田の文献が少ない理由かもしれない。
東武鉄道の創業時の本社は最近再建された三菱1号館に事務所があった。浅田正文は創立者12人の中で浅田は取締役にもならず、さらに一番出資金も少なくどうして検索すると東武鉄道創立者の上位に出るのでしょうか。
 第三代日本銀行総裁の川田小一郎が産業振興のため国家的事業のため株券を担保として資金を融通する金融機関の設立を企画し、横浜正金銀行で手腕を発揮していた原六郎を帝国商業銀行の頭取として迎えるようにしました。また川田は元日本郵船におり、浅田は郵船の経理を担当する部下であった。従って東武鉄道が創業時丸の内三菱ビルの一画の中に事務所を置いた理由は理解できる。
 浅田正文は明治22年4月日本郵船理事、明治26年12月専務取締役、翌明治27年3月取締役に退いた。明治29年6月東武鉄道の創立願いの書類の署名した12名のうち一人。そこには浅田正文の住所として下谷区茅町2-16となっている。
 明治31年7月の萬朝報のスキャンダル報道のとき浅田は帝国商業銀行取締役兼支配人だった。浅田は郵船の取締役期間は22年の長きにわたるという。
明治45年4月19日東京朝日新聞の記事より
浅田正文氏逝去
日本郵船元取締役浅田正文(せいぶん)氏は薬石効無く神田区鈴木町一の別邸において逝去せり。享年59.
 氏は遠州横須賀西尾家の臣にて明治7年三菱会社会計課に入りしか将来計数に明らかなる人ならば簿記法を応用してよく出納を整理せるは日本において西洋簿記を活用せるは氏をもって嚆矢とする。云々
 前年の10月に病気が発見して治療中であったが10日にすべての役職を辞職し葬儀の手配をして亡くなったという。
死亡記事は次に彼の関係した会社が列記している。日本郵船・明治製糖・加富登ビール・東京建物・神戸電鉄・東洋移民会社等が書いてある。彼の晩年を悩ました帝国商業銀行は記載されていない。明治の5大ビール銘柄で今でも復活していない銘柄はカブトビールだけである。(他はキリン、エビス、サッポロ、アサヒ)
 葬儀は鶴見・総持寺にて執り行われ喪主浅田正吉氏・葬儀参加者は千名にのぼったという。葬儀の記事では正文(まさぶみ)となっている。
 福神漬が郵船に積まれたのはどのような理由であろうか。浅田の紹介で船に積載されたかもしれない。

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福神漬物語 63

2010年01月14日 | 福神漬
下谷茅町の三菱
明治22年頃の池之端茅町2-18の様子
鶯亭金升日記より
根岸入谷はまだ町の中の村里なり。然るに不忍は下谷の町中にて、一見しても根岸入谷より都なるを知れども、茅町辺りはこれに相違して、大晦日というのに人力車さえも余り通らず、折々通るのは働く人や肥えを運搬する車である。根岸より田舎にてことに前には池あり山ありと書いてある。
 池之端茅町はいまの台東区池之端一丁目にあたる。明治22年頃の閑静な様子がわかる。
 下谷茅町には三菱の岩崎本邸(明治11年購入)がある。日本郵船社員となった浅田正文は直ぐそばに屋敷を構えた。しかし森鴎外の小説『雁』に出てくる無縁坂に突き当たる路地に接していて、寂しい土地であった。三遊亭円朝の落語『七福神詣で』は明治31年の設定となっているが浅田正文は落語の落ちになるくらいの貴紳士と知られていたようである。

 明治22年9月27日の鶯亭金升日記
隣他は福地源一郎氏の所有だったが借財のため公売となり、当日に至って郵船会社朝田(浅田正文の間違い)といえる者が購入したが火災を恐れるため左右の土地を買って火除けにしようとするためであった。
 つまり鶯亭金升の借家は浅田正文のために家を取り壊され移転するようになってしまった。このとき何か世俗的交流があったと思われる。東京市下谷区池之端茅町に福神漬の関係者が同時代に揃っていたことになる。また後に日本銀行総裁になった日本郵船の川田小一郎もこの地に関係ある妾を得ている

明治のスキャンダル報道
萬朝報 明治 31 年7月14日
浅田正文 帝国商業銀行取締役兼支配人たる同人はもと柳橋の千代こと小平まん(30)を妾として下谷池之端2―18の自宅に置く。この小平まんは築地料理店野田屋の娘なるが、野田屋はこれがため大いに融通を得たり。

下谷池之端2―18 には福神漬の関係者鶯亭金升 も同じ場所に住んでいた。
この地は今の横山大観記念館のところの南隣に当たる。

弊風一斑 蓄妾の実例 
明治31年(1898)年7月7日から9月27日『萬朝報』に連載された。各著名人の女性関係を実名報道していた。
浅田は帝国商業銀行となっているが日本郵船出身であるのだが今では余り知られていない

 明治30年代の萬朝報のスキャンダルジャーナリズムによって、『妾』を持つことが次第に批判されるようになっていった。日本郵船は日本の会社であるが欧米諸国と付き合いがあるので浅田正文の報道はこたえただろう。後に第三代日本銀行総裁となった川田小一郎も芸者を妾にするため、富貴楼のお倉に頼んでいる。お倉は日本郵船の設立には陰の役割を果たした女性である。
 日本郵船に酒悦の福神漬が納入されたいきさつはどう考えても池之端グループの口ぞえがあったと想像される。
 
 萬朝報は明治のノゾキ趣味が満ち満ちて読者を増やして行った。いわゆる売り上げを増やすために行き過ぎた報道があったため『まむしの周六』恐れられた。明治の時代は金銭のやり取りで新聞記事の差し止めがあった時代だった。
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福神漬物語 62

2010年01月13日 | 福神漬
日本郵船に福神漬が積まれたことの謎
どうして福神漬が外国航路、特に欧州航路に積載されていたかが問題である。
 漬物は今でも昔でも消費者、つまり食べる人からお金を原則として受け取っていない。そのような食べ物を新しく導入するにはかなり世間に評判が経ってからになる。または試食提供とか宣伝して強引に販売させるしかない。または地道な営業努力でもなければならない。ただ良い食品だからから売れることは昔からない。おいしいものはすぐに同業他社が真似してより良いものを出してくるかより安い物をだして競争することとなる。
 福神漬が郵船に積まれたのはどのような理由であろうか。人間関係で船に積載されたかもしれない。明治時代に始まった食の洋風化は肉食・牛乳飲用などの記事を読むと消費拡大には苦労していて天皇の権威を利用していた。

別冊サライ 大特集「カレー」平成12年(2000年4月)
松浦裕子文
明治時代の酒悦においての福神漬の缶詰の作り方
『明治の頃の缶詰、茶筒のような形の缶に詰め、熱して空気を逃し、あいている穴にハンダで止める。』
なぜ酒悦が福神漬を缶詰にしたかというと酒悦店頭で対面販売したところで発売当時は人力車の時代で販売数量はたかが知れているので、持ち運びの移動に便利、荷積みが容易であること、長期の保存が出来ることで福神漬を缶詰としたと言う。
このことによって船舶に積むことが出来たし、戦争時の携帯食として軍隊に普及した。日本缶詰協会の専務理事さんの話で『福神漬』は『水分活性』の問題で加熱殺菌を酷くしなくても良かったという。塩分のおかげで粗末な技術でも缶詰『福神漬』が出来た。


漬物のおけいこ 井上秋江著 国会図書館デジタルライブラリーより
明治38年2月出版

本に載っている福神漬の宣伝文
陸海軍御用
登録商標 マークがある
福神漬
弊店製品の福神漬は当神田市場に各地の特産を材料として製法を改良を加えたれば在来の旧製品とは違い風味滋養に富むのみならず四季の変動に逢うも決して変質腐敗のなきにより日常の御食料には勿論御旅行の副食にまたは御進物等に適し、至極軽便なればなにとぞ御使用の上ご愛用あらんことを希望する。
葡萄酒缶詰製造
西村小市商店
東京市神田須田町

福神漬は缶詰で販売していた。

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福神漬物語 61

2010年01月12日 | 福神漬
日本郵船博物館図書室にはカレーライスと福神漬の書いてある本が多数ある。他の本は海事関係や三菱関係・船舶・港湾・交通輸送関係等の書籍の中にあるので異質の本となる。

日本郵船株式会社百年史. 昭和63年刊行であるが、昭和57から58年頃百年史のためのエピソード募集が社報『ゆうせん』に載っており、カレーと福神漬の話が昭和60年の社報に出ている。いわゆるカレー本の福神漬とカレーの関係の記述はここから始まったのではないのだろうか。昭和60年は何かと日本郵船の創立100年ということで注目されていて誰にも無難な話題として、社報『ゆうせん』の記事を引用したのではないのだろうか。
 瑣末の事柄は歴史の中では記述されず、福神漬もこの一例で郵船社員関係者の中では周知の事実であったが記述はされてないので郵船歴史博物館の雑学紹介のエピソードもあいまいな表現となっている。
 日本郵船百年の歴史の中で福神漬はどうして記録にはないか記憶に残っているのだろうか。
日本郵船の始まりと発展は明治日本の御用船徴用の歴史であった。従って社員の意識には他と違う意識があったと思う。百年以上の社史の中で第二次大戦で徴用された商船が攻撃をうけ、犠牲となった船員の数が多数あることを一般人にはあまり知られていなかった。日本郵船歴史博物館の中央に北村西望の大きな彫刻がある。戦争での海難事故犠牲者の慰霊のためにこしらえられたという。その戦没商船の歴史の中で第一次大戦末期インド洋において行方不明となった常陸丸の歴史もあった。日本の商船は軍の護衛も少なく任務についていた。常陸丸の日本から欧州に向かうときの出港の様子は悲壮感が漂っていて、残された家族はただ無事を祈るだけであった。
 常陸丸を捜索に行った船が日本に帰り『酒悦』『池之端』『福神漬』の焼印のある木箱が見つかったとき初めて常陸丸が捕らわれたれたのではなく遭難に遭ったことを感じたのではないのだろうか。木箱の新聞報道があって20日位たって常陸丸の乗員・船員の生存の望みのある知らせが届き、船長の自決の知らせも届いた。この当時の郵船社員とその家族の記憶に強く残っており百年史の思い出募集に福神漬が出てきたのではないのだろうか。

日本郵船株式会社百年史. 昭和63年刊行であるが、多くの社史を読んでいくとそこには共通の事情が出てくる。それは都合の悪いことはあまり記述されないか、またはあっさりと触れている。時代や時期によって法規範に反する行為となって記述されないこともある。
 郵船の福神漬もこれから記録に残らない理由を探すことになる。

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福神漬物語 60

2010年01月11日 | 福神漬
日本郵船70年史 128頁
日本郵船100年史には記述がない。
大正の常陸丸遭難事件の記述は3行しかない。
『常陸丸は大正6年9月26日欧州航路・往航の途次、インド洋にてドイツ仮装巡洋艦ウォルフの砲撃を受け拿捕されて、その後爆沈され、船長は自決した。』たったこれだけである。第一次世界大戦といってもこれだけとは富永常陸丸船長の悔しさが感じる。

1917年(大正6年)第一次大戦下、ドイツ海軍が無制限潜水艦作戦を開始した。しかしインド洋では危機が迫っているとは思われなかった。インド洋で行方不明となったのはこのような危機意識だったので油断していたのである。長谷川伸著『印度洋の常陸丸』によると、日本から欧州に向かった寄港地にドイツのスパイがおり、通報されていたのだろうと記している。
 常陸丸の行方不明が日本で新聞紙上において騒がれ始めたのは、10月22日頃からである(東京朝日新聞)。平成の現在の新聞記事と同じように関係者のコメントが載っている。この時点では情報が少なく戸惑っていた。

無制限潜水艦作戦とは、戦争状態において、潜水艦が、敵国に関係すると思われる艦艇・船舶に対して目標を限定せずに攻撃するという作戦である。ドイツのこの作戦によりアメリカが参戦し、1918年《大正7年》11月第一次大戦が終わる。

 漬物のような食品は文献も少なく調査に苦労します。しかし、単なる食品のため歴史事実の歪曲の対象から離れて、かえって実像が現れている気がします。福神漬がなぜ日本郵船に積載されカレーライスに付いていったか判明していません。しかし第一次大戦でインド洋での常陸丸事件と日本郵船百年史の思い出募集には何らかの関連があると思います。カレーライスと福神漬の記事は博物館の学芸員の話によると『日本郵船には記録がないが多くの日本郵船の関係者に記憶がある。』と言っていました。
 第一次大戦は日本が参戦したにもかかわらず印象が薄く忘れ去られています。その中にも殉職した商船員がおります。神奈川県横須賀市の観音崎に第二次大戦で亡くなった商船員を慰霊する場所があります。慰霊する殉難商船員の範囲ももう少し広げていただけませんか?

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福神漬物語 59

2010年01月10日 | 福神漬
大正7年3月3日読売新聞
○ 常陸丸は奮戦の後 富永船長自殺
■ 乗組員船客も多数落命 積荷全部ウォルフ号に収容
遂に撃沈  ドイツ公報、外務省発表
印度太平洋等を荒らして此の頃ドイツに帰来したる同国補助巡洋艦ウォルフ号に関する同国広報中に曰く,日本郵船常陸丸等は砲火を交えたり、数個の砲弾を同船運転部に落とせリ、同船は勝手にボートを降ろしたる為多数の人命を損ぜり、同船は暫くの間随行船として伴いたるがその積荷全部をウォルフに積み替えた後撃沈せり、同船船長は自殺せりと(スペイン発3月1日外務省着伝)
◆ 邦人船員14名は戦死
◆ 上陸せる乗員よりの電報 日本給仕女他12名無事
船越英国大使館付き武官発3月2日海軍省着電に曰く
ウォルフに捕獲せられし後、デンマーク海岸に頓挫したるスペイン船イグノッディより上陸せる常陸丸乗員がロンドン郵船支店宛電報せるところによれば常陸丸は9月26日ドイツ略奪船の砲撃を受け遂に拿捕せらる、当時敵弾のため船員14名、インド人2名の死者を出だせり、乗客12名(内日本人なし)及び日本給仕女1名はスペイン船に移されて全部無事上陸せり、なお常陸丸はその後11月末日(?)に撃沈せられたり。
◆ 敵手に入りし船長の遺書(おきがき)
◆ 巨額の貨物鹵獲(ろかく・敵の軍用品・兵器などを奪い取ること)
◆ 捕虜の一部は上陸 三浦公使ベルン発
瑞西(スイス)ベルン三浦公使発3月1日外務省着電に曰く2月28日ウォルフ電報中常陸丸に関する部分次の如し。
 常陸丸とは短時間戦闘を交ふるのも止む得ざるに至り、数発砲撃の後彼の抵抗は止み、甲板には大混雑起これリ勝手にボートを降ろしたため多数の人命を失い、我が巡洋艦は数百万マルクの値のある同船貨物を鹵獲し、なお暫く同船を連れ歩きし後、スペイン船イグノッメンディを捕獲したるを以って、これを随伴することとし、常陸丸の客室設備を移し、60人の上等船客中女8名小児多人数の準備のをなせり、この後格別のことなくして,欧州の海面に達した時日本船長は自殺したり。遺書によれば、常陸丸の運命及び多人数の人命を失ったことがその原因なり。南欧州の海面にて天候不順ためスペイン船を見失ったものの同船は単独航海して来たり。
 風浪のためスカーゲンにて浅瀬に乗り上げ,捕虜は同地に上陸したものあり、捕虜はほとんど1年間ウォルフ号に伴われるもの如し,電文不明なるもスペイン船を捕獲したる後常陸丸は撃沈されたるにあらずやと想像す。

スカーゲンとはデンマークのユトランド半島のスカーゲン岬灯台付近。当時デンマークは中立国で捕虜は保護された。日本給仕女とは今のウエートレスで唯一の日本女性でコペンハーゲン・ロンドン経由で大正7年6月日本に帰国し、日本郵船横浜支店にて6月12日に常陸丸の遺族に遭難時の実況を説明した。船員の壮烈な最期を聞き皆もらい泣きしたという。


欧州各地から急に常陸丸の情報が届き、富永船長の死去に関して推測している。
枝原海軍省副官談
○ 責任を尽くして立派な最後
外務省及び海軍省の発表事実について語る「ドイツ公報中の文言について何等の入電もないがそれはありうべきこと認められる。初め常陸丸は砲火を交えたというがその時無線電信機を破壊されたのではあるまいか、かかる危険の際は船長は必ず無線電信を打つものであるし、その暇もないわけでもないのに今日まで全く消息が絶えていた所を見るとどうしてもそう推測される。それからボートを降ろしたということであるが、これは降伏したという意味である。それになお攻撃したということは実に非人道的な処置と言わねばならぬ。
▲ 憎むべき敵の遁辞
武者小路第二課長談
ドイツが自国の政策上常陸丸が勝手にボートを降ろした結果、多数の人命を失うにといって至ったといって、いかにも常陸丸船長の失態であるように公表しているが、常陸丸船長の遺書に記しているように人事を尽くしてなお自己の立場を明らかにして死去したことは実に堂々たる態度である。結局ドイツが自分側で十分の人命救助等を尽くさない責任を回避して、勝手にボートを降ろした云々といったと思われる。

常陸丸の捜索をした郵船本社の山脇武夫氏談
ドイツの電文中「常陸丸が勝手にボートを降ろしたため多数の人命を損ぜリ」とあるがこれは敵艦の言い訳で勝手にボートを降ろすことはあり得ることではない。ボートに乗せておいて攻撃したと思われる。富永船長は「欧州航路が如何に危険だからといっても会社の方から止められるまで決して自分から航海をしないと言うことはない。あくまでも出港するつもりである。」

第一次大戦が終わり,常陸丸の戦死者の状況がわかるまで、当時郵船の人々は新聞記事のように考えていたのではあるまいか。捕虜として帰還した時の記事は少なく、また、昭和に入ると日本とドイツは同盟国となったため、ますます忘れさられた。郵船の社員の記録はないが印度洋に漂った福神漬の木箱が記憶に残っていて欧州航路のカレーに福神漬が提供していたのを知っていたのだろう。なお常陸丸の死者のうち船客二名ともインド人であった。

新聞に掲載された福神漬の木箱ははっきりと文字もわかり,郵船社員なら状況が理解していた。写真が掲載されてから約2週間後ドイツから公報が入り、捕虜となっていること知り、喜んだり、戦死者が出ていたのを知り悲しんだり、郵船社員の心の動揺は今でも容易に想像できる。

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福神漬物語 58

2010年01月09日 | 福神漬
大正7年3月2日東京朝日新聞
○ 常陸丸船員は捕虜
ウォルフ号に乗船してドイツに現れた形跡 海軍省発表
常陸丸乗員はウォルフに乗船し捕虜としてドイツ国に伴われていること、事実らしくその人命等は英国捕虜係りの手を経て不日判明しうることを期待しつつあり(在英国大使館付武官来電28日海軍省)
▲ 二隻の船に収容さる △撃沈後の常陸丸乗員 
28日上海経由路透社発(ロイター?)
コペンハーゲン来電 スペイン汽船イゴツメンデ乗組員の談に曰く該汽船は7千トンの石炭を搭載し豪州に向かう途中拿捕されしものなり。該船についで敵手の罹りしは英国汽船マタンガにしてその貴重船荷及び船員はドイツ艦ウォルフに移されて艦内にて優遇されたり。こうして独艦一隻汽船二隻は一オランダ諸島に無人島にいたり。マタンガ号の船荷の一部を同島に仕舞置き、最も貴重なる貨物のみウォルフに積込み後マタンガ号を撃沈せり。その後少時にして米船ベルガを撃沈せり。又ついでアジア人を満載せる6千トンの日本郵船常陸丸を撃沈せり。常陸丸内のアジア人等はウォルフ及びイゴツメンデにそれぞれ移乗せしめたり。濠州海岸よりイゴツメンデは北を指し、独艦ウォルフは南を指して航行し居りしと
▲ ドイツ公報に現る
坂田公使報告
ドイツ公報によると常陸丸は過去15ヶ月間印度洋並びに太平洋において行動せるドイツ仮装巡洋艦ウォルフのために撃沈せられたる趣並びに同仮装巡洋艦に捕虜をも搭載し居る由、2月27日当地新聞電報に現われたるベルリンより当国外務省へはまだ回報なき趣につき前記の事項並びに乗組員の情報等電報を持って問い合わせ方皿に西国外務省へ依頼している。(在スペイン坂田公使発3月1日外務省着電)


海の墓標 三輪祐児著
戦時下に喪われた日本の商船
第二次大戦において日本の戦没商船2,568隻、六万数千人の船員が海の藻屑と消えた。武器、弾薬、食糧が届かず、最前線の数十万の将兵が南の島々で飢え死にしました。
日本の商船は明治初期の台湾派兵の輸送と,西南の役に軍と船会社の関係が出来た。その関係は平和な時代は旅客や物資を輸送し、外国と通商し、戦争になった時,軍の「御用船」となる日本商船の運命の始まりであった。
 二代常陸丸は厳密に言うと「御用船」ではなかったかもしれないが初代常陸丸と同じ運命をたどった。
 近代の戦争は物資を大量に輸送する船舶を攻撃し、その軍隊の攻撃力を削ぐことだった。日露戦争の常陸丸の撃沈もロシアの大陸へ兵員物資を輸送する日本商船を攻撃した。第一次大戦の常陸丸の撃沈も第二次大戦の日本商船への攻撃も同様な通商破壊戦争であった。撃沈された商船の物資が届かず、軍艦で物資の輸送をせざるを得ず、ますます商船隊の警備が不足となり攻撃撃沈され、更に物資不足となっていった。戦後の統計によると日本軍人の餓死・戦病死した者が非常に多い。
 印度洋の常陸丸は軍の護衛もなく、後に捜索をした筑前丸は護衛があった。しかし、第一次大戦で210名の死者を出した平野丸は護衛があったにもかかわらず撃沈された。実に第一次大戦で日本の商船は33隻失った。特にイギリスは商船4000隻を失い覇権をアメリカに譲った。常陸丸の出航は会社にとっても家族にとっても悲壮感がでる談話となっている。

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福神漬物語 57

2010年01月08日 | 福神漬
常陸丸遭難報道の始まり
万朝報 大正6年10月21日
常陸丸の運命
9月24日以来消息がない
コロンボ・デラゴア間で遭難か
日本郵船会社の欧州航路定期船常陸丸(6556トン)は9月25日コロンボを出汎して以来約一ヶ月経過せる今日、杳としてその消息なし,郵船会社は各方面に向かって電照し、海軍、逓信省は各方面へ捜索願いを出していたが行方不明なり。
 軍関係者のコメント
 中部アフリカなるので危険区域でない、敵艇出没のウワサも聞かないがこうなったら憂慮に堪えない 

 印度洋で行方不明となった常陸丸を捜索するため、筑前丸を使うこととなり、日本郵船の航海副監督であった山脇武夫が乗り込んだ。また、この筑前丸に特攻の発案者として知られる若き日の大西滝治郎中尉(終戦時中将)捜索飛行機の操縦士官として乗船していた。
 常陸丸捜索のため、筑前丸は大正6年11月27日神戸を出港し、印度洋で16日間捜索の後、翌7年2月9日神戸に帰港した。山脇は会社を代表して捜索状況を新聞記者に説明した。

大正6年10月22日東京朝日新聞
常陸丸船長夫人談
不安の面貌で「昨日東京の日本郵船の本社から常陸丸の到着の予定より遅れている旨の通知を受けて初めて承知いたしました。主人より9月14日シンガポール発信で無事この地に着いたという便りで、多分コロンボからデラゴアまで直航したものと思われますが、潜航艇が出没したことも聞かず何か機関に故障が起こったものでしょうか、それらのことも一切想像できません」
 機関長夫人談
「宅は船乗りのことですから不時の出来事は覚悟の上ですが御船客は心配でありましょう」云々とただひたすら船客の安否を気遣っていた。
 
 明治・大正時代の商船に乗組んだ人々の家族はみんな同じ気持ちであったのでしょうか?常陸丸が行方不明になって後日本の商船が次々とドイツ軍艦に狙われていて後に撃沈された。平野丸の出航報道は船員・乗客に悲壮感があります。欧州航路はとにかく危険であった。しかし、日本の商船の活躍で明治以来の貿易収支が赤字から黒字となった。ちなみにイギリスは第一次大戦で4000隻の商船を失ったという。

大正7年2月14日東京朝日新聞
なぞの品々(筑前丸がもたらし帰った)
常陸丸の遺留品の写真が掲載されている。
下駄の大きさと比較して写真にある醤油樽の大きさは一斗樽(約18リットル)だろう。写真では縦に立っているが巾着印の中に酒悦の焼印があり、東京・池之端・福神漬の文字が見える。木箱から推定すると缶詰入りの福神漬だろう。大きさから6個入りか?4号缶だろう。
山脇武夫日本郵船監督は「沈没・拿捕いづれともまだ断定できない、常陸丸の備品は確実である。」
日本郵船にて新聞記者に捜索の持ち帰った品々を説明していたのは山脇武夫であった。写真のある新聞記事は東京・大阪の朝日新聞に掲載されていて、読売や毎日・万朝報などは記事のみであった。
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福神漬物語 56

2010年01月07日 | 福神漬
神戸大学電子図書館で新聞記事文庫を検索する。『日本郵船』『福神漬』と入れて検索する。直ぐに常陸丸の事件が出てくる。さらに『常陸丸』『日本郵船』と入れるとか海上保険の記事として出てくる。
 常陸丸事件の記事分類は海上保険の問題の切抜きであった。当然のことながら当時は日本郵船・東京海上保険・日本政府間の保険請求の問題でもあった。
 第一次大戦が始まると海上保険の引受人が少なくなり保険料率も高騰の兆しが見えた。日本政府は大正3年に地中海地域を想定し輸出貨物に戦時海上保険保障法を制定した。戦局の拡大に伴い大正6年7月に戦時海上再保険法を制定した。日本郵船の常陸丸が出航したのはこの法律が制定された後であった。
 第一次大戦でイギリスの商船隊は打撃を受け、比較的戦場から遠かった日本の海運業者は政府保証による保険で海運業が発展した。

 結果として第一次大戦の政府保証による海上保険制度は保険金収入が損害した船や貨物に支払った保険金を上回った。このことから大正6年に日本にあった海上保険会社は20社であったのが第一次大戦終結後の大正9年には39社となり保険料率が下がり保険会社各社の収益が減ったと言う。その新規の保険会社で有力な会社は三井の大正海上と三菱の三菱海上であった。
 大正7年9月の三菱海上保険の発起認可申請書によると、三菱合資が持ち株会社に移行することによって自保険を取り扱うことは保険業法上疑問があったということと東京海上保険が三菱に対しての保険料率の値引きが無く、三菱グループ各社の不満がたまっていた。さらに三井が大正海上保険を発足したことが原因であると言う。明治から大正の初め東京海上は三菱系と見られていて海上保険業のリーディンッグカンパニーだったが三菱合資から独立した各企業には保険料率に不満があったという。東京海上火災保険株式会社60年史より

東京海上火災保険株式会社60年史は先の大戦直前に発刊された本で戦後の100年史や125年史より戦時海上保険の状況が詳しく記述してある。それほど社史の中では重要であったと言うことでもある。戦争で亡くなるのは軍人だけでなく物資を運搬する商船も近代戦争では攻撃の対象となった。常陸丸の船長もその一人である。
大正の戦時海上再保険
第一次大戦が始まると保険業者の自己負担率20%も保険金額の増加によって日本の業者の資力の不足によって、ロンドンに再保険することとなるのだがイギリスはドイツと戦争状態なのにかかわらず保険料率はロンドン市場に左右されるので非常に不便であった。
 日本政府は大正6年7月20日・9月20日に戦時海上再保険法を制定し日本船籍および日本から輸出する貨物を再保険することとし、日本代理店は船舶95%貨物90%、外国代理店は85%として再保険を引き受けることとした。第一次大戦の日本政府が引き受けた海上再保険総額の60%が東京海上保険だったという。
 損害額の中で最大の損害金の発生は日本郵船の常陸丸で損害額834万円、保険金664万円となっている。宮崎丸保険金557万円・八坂丸376万円となっている。なお日本郵船の第一次大戦の戦時海上再保険総額2772万円(損害保険金)だったので日本郵船三隻の保険金で全体の63%を占めることとなる。従って日本郵船にとっては常陸丸が損害保険金をもらえるかどうかが経営上の大問題となっていたのである。
 日本郵船の海上保険担当関係者は福神漬を食べるたびインド洋の常陸丸事件の思い出が語られたのだろうか。
 東京海上保険株式会社60年史

神戸大学新聞記事文庫 海上保険より 
『行方不明となった常陸丸は戦時保険を付けているがもしこのままに行方不明の原因判明しない場合保険関係は如何になるべきかに研究を要すべき問題である。従来行方不明となった場合には三ヶ月を経過した後に普通保険を支払い同時に戦時危険に由ること判明したる場合には之により保険金を支払うべき契約をするのが普通である。もし行方不明の原因判明しない時はかりに戦時危険によって沈没或は撃沈されたとする。その証明或は証拠のない限り之を認定する材料なきを以て政府は勿論戦時保険法を適用せず保験会社もまた普通海難として取り扱うほかないといえる。こうして若しかりに行方不明の原因永久に判明せず周囲の事情より推測して政府もこれを戦時保険と認められないとすれば保険会社は普通海難として保険金を支払うべきこととなる。荷主は大部分戦時普通両者の保険をつけているので何れにしても大なる相違なけれど保険会社より補償さるべき8割を得ることができないため其の損害はかえって大きい損害を免れず又船主たる日本郵船は海難等の普通保険は自社保険に付けてあるため全損に終るだろう。されば同社は此の際極力行方不明の原因を捜索して戦時危険によるものであることを証明するしかないと言える。右につき片山戦時保険局長は次のように語った。
 我が船舶にて地中海其の他において行方不明となったものは松昌洋行の千寿丸を始めとし実例乏しからずといえども保険関係に於て戦時補償法の問題を起こしたものは今回の常陸丸を以て初めてとする。戦争に基因せる故障により沈没せること明瞭とならば政府は東京海上保険会社外一社が常陸丸船体及び荷物に対して契約せる保険金の八割の補償をすること当然のことだが、今日の行方不明の状態が継続し且つ遭難の原因を知るに方法がないとすればここに保険補償法上の新問題を起こす次第である。遭難の原因が戦争上の事故であるかないかを証明する責任は補助(保険?)請求者(日本郵船)で従って今回の行方不明のものに対して日本政府はこれが補償をするべきでない。 』 大阪朝日新聞 1917.10.27(大正6)
上記の原因を調査するため日本郵船はインド洋に調査隊を派遣したのである。他の新聞記事からも日本政府・東京海上・日本郵船の間に色々な保険上の問題が生じていたのである。この新聞記事はまだ遭難してから間もない時期なので後の展開を想定していなかった。福神漬の木箱の残骸を調査隊がインド洋で発見した状況はこのような事情のもとであった。

途中経過は忘れるもので
結果がわかっている歴史では途中経過の様子が当事者以外は忘れ去るものである。大正の常陸丸も日露戦争の常陸丸の事件で忘れ去られ、第一次大戦後日本はドイツと友好関係になったためさらに事件の悲劇性を忘れさせられた。
 インド洋で常陸丸が行くえ不明になってから3ヵ月後,新聞の記事内容は戦時海上保険金の裁判が必至であると書いていた。そして大正7年2月、インド洋から常陸丸の捜索船が日本に帰ってきた。そこには池之端・登録商標・福神漬と焼印のある木箱と練乳木箱(明治屋の焼印)が見つかった。
 この証拠物件だけでは日本政府は戦時遭難とみなすことはできないと戦時保障法における保証金支払いを拒絶していた。

遭難が認められても
大正7年3月にはいると常陸丸の遭難のくわしい状況がイギリス・ドイツから情報が入ってきた。常陸丸の保険は船体には東京海上保険、積荷は各保険会社だった。英国海軍の公報だけではまだ日本政府は戦時補償金を払わないと言う態度をとっていた。
 最終的には日本郵船は戦時補償金を得たのだが一時は当事者間の行政訴訟も予定していたくらい緊迫していた。
 酒悦福神漬の木箱や明治屋の焼印のある練乳の木箱がインド洋で発見した時、日本郵船の社員はどんな思いであったろうか。当時の新聞紙上では保険金の問題と捉えていて会社の経営問題と見ていたような気がする。

東京海上保険 125年史より
明治12年、国の鉄道払い下げを見込んで集めた華族の資本60万円の転用を渋沢栄一等の発案で日本での海上保険の業務をおこなう本格的な株式会社ができた。この会社の株式の人気がよく三菱は株数を減らされ20%の持ち株となった。東京海上保険は政府の保護を受けて設立初期はリスクの少ない貨物保険であったが保険料率計算に精通している人材がなく、後に経営問題となった時、政府の手厚い援助を受けた。
 設立時東京海上保険は三菱系と見られていたが東京海上の日本代表の保険会社という自負により、三菱の物件と他の物件も同一引き受け条件であった。三菱合資には不満がたまっていて第一次大戦末期三菱海上保険が大正7年に発足した。三菱海上保険は発足後数年で日本郵船関係の保険を奪取した。1920年頃から東京海上の増収率がマイナスとなり、1922年(大正11年)には17年(大正6年)の三分の一まで三菱関係の保険扱高まで減少した。同じ期間に日本全体の保険は40%増えているので東京海上は大打撃となっていた。日本郵船にとって見れば東京海上が安く保険を受け負わなかったので当然の行動でもあった。
この危機を打開するため東京海上の各務謙吉氏は三菱合資の末延道成と談判し、東京海上保険は三菱海上保険を系列化し、東京海上は三菱系から三菱色の強い会社となった。
日本郵船の保険取扱い高が減ったのは、常陸丸の遭難の件のしこりが広く郵船一般社員にも知れ渡っていて、表向きは東京海上保険より安い三菱海上を得意先に薦めたのだが急速に減ったのは福神漬を食べるたびに事件を思い出していたと思われないか。


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福神漬物語 55

2010年01月06日 | 福神漬
郵船の常陸丸
常陸丸は2度も海難に遭って、初代の船長も2代目の船長も自決したという船である。初代は日露戦争のおり、玄界灘においてロシアの攻撃を受け1400名死亡した。九段にある靖国神社の大鳥居のすぐそばに大きな殉難碑がある。
 2代目もインド洋において爆沈している。行方不明になった大正6年秋から大正7年2月までは常陸丸に掛けてあった戦時海上保険制度の不備で、日本郵船・東京海上保険・日本政府での保険金支払いの証明で論争していたようである。大正7年3月に常陸丸の遭難状況がわかると論争が終わってしまったが郵船及び三菱グループの幹部には実に印象の強かった事件であった。大正7年2月の常陸丸捜索隊が見つけた品々の中で壊れたドアと『酒悦の福神漬』の木箱が発見され拿捕でなく沈没したことを確信しただろう。

昭和に入ると日本はドイツと同盟国になったため、常陸丸の悲劇は郵船社員しか記憶に残っておらず一般の人々から忘れ去られた。作家長谷川伸は『インド洋の常陸丸』を著わしたのは第二次大戦後のことである。洋上や外国での楽しみは食事である。日本食の福神漬がインド洋で発見されたとき日本郵船関係者は常陸丸の遭難を確信し、すぐに捕虜となった話が伝わり喜んだと思えば事実が伝わるにつれて悲惨な事実がわかった。このことが郵船社員・家族には長く心に残っていたのだろう。また一般には常陸丸1世が有名で常陸丸二世および第一次大戦において殉難に遭った郵船社員の慰霊碑は神奈川県横浜市にある総持寺の鐘つき堂のそばにある。靖国神社と違って鶴見総持寺には訪問する人も少ないようで山門の左にある鐘つき堂に向かって上ってゆくと大きな殉難碑がある。

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福神漬物語 54

2010年01月05日 | 福神漬
印度洋の常陸丸
著者の長谷川伸は一般に大衆小説や新国劇の劇作家として知られていたが,彼がどうして『印度洋の常陸丸』を書いたのだろうか?
 長谷川伸は横浜市日の出町生まれで、生活のためドック(造船所)で小僧生活を送り、職を転々とし新聞記者(都新聞・今の東京新聞)となったのち、作家となった。
 戦時中、従軍記者となって南方を回る。昭和31年『日本捕虜志』で第4回菊池寛賞を受賞。この本を知り合いに贈ったところ、日本郵船の常陸丸の話が出て取材が始まったという。
 2代目常陸丸遭難の話は忘れられていたのである。戦争前は捕虜の話をすることは好まれない時代であった。生きて虜囚の辱を受けずという言葉の時代であった。
 長谷川の『印度洋の常陸丸』もドイツの仮装巡洋艦の攻撃を受けて、捕虜になってからの話が中心となっている。

 カレーライスと福神漬の話題がなぜ日本郵船の話となるのでしょうか。長谷川伸全集第9巻 朝日新聞刊 村上元三氏の解説によると昭和37年の時点で日本郵船の社員でも常陸丸の悲劇の話は知っていても日露戦争の時の話で第一次大戦の話は知っている人も皆無といって良かった。この『印度洋の常陸丸』が上梓されたとき、日本郵船でまとめて購入し社員に読ませたという。雑誌に連載された時はあまり反応がなかったが、出版され新聞等に紹介されてから評判となったという。

三菱の長崎造船所で1898(明治31)年には国産初の近代的大型貨客船「常陸丸」も竣工しました。「常陸丸」は日本郵船欧州航路開設時に発注された大型船6隻の中の一隻で、他の5隻はイギリスで建造されました。日露戦争の折、陸軍御用船となり兵員輸送中に玄界灘でロシア艦隊に砲撃され沈没してしまいました。九段の靖国神社入り口付近には初代常陸丸の殉難記念碑があります。
 この様な意味では『常陸丸』という名は三菱グループには記念すべき船であった。明治政府の御用を受け戦時に事業を拡大していった三菱には必然的に受ける損害でもあった。


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福神漬物語 53

2010年01月04日 | 福神漬
日本郵船と福神漬 

明治17年(1884年)横浜生まれの作家長谷川伸という人がいた。小学校も2年ほどしか行けず、横浜のドックで働き、後に新聞記者となり、小説を合間に書いているうちに本当に大衆小説家になった。福神漬の証言者である鶯亭金升日記にも序文を載せていて気にはなっていたがこれから日本郵船・横浜から福神漬の物語が始まることとなる。彼は股旅物の作者として知られているが福神漬の話には『日本捕虜志 』 1955 第4回菊池寛賞)から始まる。戦争中から書き溜めていて、戦後自費出版し、菊池寛賞を 受賞してから一般に知られた。そしてインド洋で行方不明となりドイツに捕虜となった日本郵船常陸丸の小説を書くこととなった。
その『日本捕虜志)の中の逸話として、日本兵士が捕虜となった敵兵を見学に行くことになったが、ある兵士が『普段は職人などの仕事をして働いていた人が戦争となって兵士となり、捕虜となった。兵士は昔は武士である。捕虜となった姿を見られるには忍びないから見学したくない。』と言ったら、その部隊は捕虜見学をやめたという。日清・日露の戦役の時代の気風が残っていた。

 佐藤忠雄の『長谷川伸論』によると先の大戦で日本軍は捕虜に対して敵味方の区別なく、非人道的な態度をとっていたが、日露戦争まで捕虜に対して、差別意識がなかったということを克明に蒐集されていて、捕虜の対する差別意識が日露戦争に育成されたという。

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福神漬物語 52

2010年01月04日 | 福神漬
上野戦争23回忌 まとめ
下谷生まれの幕臣の子・内田魯庵によると薩長によって代表される維新の江戸文化破壊が最も遅れて及んだのが浅草であったという。浅草以外に新しい歌舞伎の劇場(新富座)が出来、次第に文明開化の影響が現れた。
 明治23年は彰義隊23回忌と第三回内国博覧会が上野公園で開かれると、その見物客を当て込み竹柴其水と五代目菊五郎は上野戦争を上演することとなった。しかし現存する当事者のためと演劇改良運動の影響で事実に沿っての芝居となって冗長の感があった。しかし当時の状況を知っている下谷の人々には懐旧の情を呼び起こし成功であった。
 下谷の特に上野山下の人々がこの歌舞伎を見に行った時、当然池之端の酒悦主人は見物に行ったと思われる。維新以前には上野山下には香煎を商う店が三軒あったが上野戦争で寛永寺がさびれ、上野公園として人々が戻ってくるまで苦難の年月であった。このような時新しい味の開発を明治10年頃からはじめ、缶詰入りの福神漬となった。
 新富座で上演された皐月晴上野朝風は五代目菊五郎の興行宣伝の活躍で成功したが演劇改良と西洋の芝居に関する合理的な考えが浸透し歌舞伎役者が悩んでいた時期でもあった。この芝居は上野の鐘の音で始まり七幕目の第三回内国博覧会の場で博覧会終了のベル(文明開化の象徴)で終わった。第十二代市川團十郎の本『團十郎の歌舞伎案内』によると歌舞伎とは『その時代その時代のお客様の嗜好によって変化し、左右されて発展してきた庶民の芸能』という。劇聖といわれ明治時代に活躍した九代目市川團十郎の悩みも尽きなかった時だった。
 寛永寺の輪王寺宮の兄や榎本武揚もお忍びで新富座にて見物したようで当時のことを思い出して涙を流したと言う。事実による芝居の筋書きはどこかで省略しなければ時間に収まらず竹柴其水の苦労は大変だっただろう。
 浅草に住んでいた戯作者等の文化人が新富座のある銀座方面に移行していく時期でもあった。特に銀座に集中した新聞会社は庶民の読者を獲得するため定期購読を条件として劇場無料招待などをしていた。
 都新聞(今の東京新聞の前身・遊郭・歌舞伎・芸能情報に強い)は5月22日の初日興行を買い切り読者に提供したと言う。

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福神漬物語 51

2010年01月03日 | 福神漬
南千住の円通寺と一葉記念館
日比谷線三ノ輪駅で降りて円通寺に向かう。晩秋の境内はイチョウの落ち葉が敷き詰められていて黄色くなっていた。中に入ると上野寛永寺にあった黒門がいやでも目に付く。金網で囲まれた墓地に上野戦争の死者が埋葬されている。心ない観光客が墓地の破壊したため金網で覆われているという。運良く入口が開いていたので中に入ると天野八郎と三河屋幸三郎の碑がほぼ同じ大きさであった。荒川区の文化財の文には寛永寺の御用商人三河屋幸三郎のことは書いてあった。何の御用をしていたのだろうか。
 帰りに台東区中央図書館まで歩く。途中一葉記念館による。福神漬の歴史には樋口一葉はまるで関係はない。池之端と浅草は近所で時代も重なるのだが一葉が貧しかったせいか文献は何もない。しかし彼女の人生をたどるとこの明治中頃に女性が自立すると言うことが如何に難しいことがわかる。まともな生き方では髪結いしかなかった時代なのだから。

旧幕府  合本 戸川残花編
第九号 明治30年12月20日発行
沢太郎左衛門演述
三河屋幸三郎の伝
 彰義隊の隊士の死体が放置され、鳥獣の餌となり霊魂の行くところもないのを憂いて官軍に願って、遺骸を円通寺に納めたのはこの人である。東軍のために兵器を貯蔵し義徒を匿い、ついに西軍の知るところになり、危なく家宅に入られようとしたが見事に追い払ったのもこの人である。
 幕府創立以来250年来、録を受けて恩義があるのに関わらず三河武士の面目を失いただ自身の身の上を心配して様子から一市井の商売人でありながらこの有様を見て憤慨し身命財産を掛けて徳川家の犠牲に供しようとしたのが三河屋幸三郎である。
この人の資料も少なく侠客と言う人もあれば義人ともいう人もある。明治以後横浜で『根付』などを扱う美術貿易商みたいなことをしていたようで彫刻家高村光雲の思い出の文に出てきます。

 琳琅閣書店
内田魯庵の『下谷広小路』に了応禅師が造った不忍経堂という図書館があったことと東叡山で学ぶ学僧のためか、池之端周辺には江戸時代から本を扱う店が集まっていた。
明治になって錦袋円という薬を販売していた勧学屋が販売不振となり、仲町11番地に店舗があった守田宝丹が買収した後、初代の琳琅閣書店主人が仲町22番地の勧学屋の店舗を守田から買ったという。
『紙魚の昔がたり 明治大正編 反町茂雄著』140頁
 江戸名所図会にも出ているくらいの家で間口6間奥行き5間のある土蔵つくりの大きな家で書物だけでなく古道具・書画・骨董も置いてあったので、毎日のように来る顧客の情報交換や品定めの会のような雰囲気となって『琳琅閣講中』と言われていたようです。

内田魯庵は了応禅師の造った勧学屋の店舗の跡地を買収した初代琳琅閣書店主人がバイブルの本を販売していたので面白いと書いてありました。琳琅閣書店のホームページによると1891(明治24)年、東京の神田駿河台にニコライ堂が建築され、その関係の書籍を販売していたからという。

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