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 年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

築地の盆休みは

2012年08月16日 | 築地市場にて

築地市場の盆休みは工事現場となる。日頃破損した道路等を修復する期間となる。豊洲移転まであと少しの時間だが市場内安全を確保するためには必要な工事である。ターレーの走行には穴は危険な存在で多くの暴走事故は穴に入ったために起きている。
 例年なら平穏な時期だが今年は北海道のO157食中毒事故とか領土問題で世間が騒がしい。前回の寄生虫キムチのときは韓国からの輸入が激減した。今回も同じことが起きるのだろうか。すでに兆候は表れている。多くの韓国と日本の漬物業者に影響がありそうだ。
 いよいよ明日は築地市場で一年の中で一番電気の消費量の多い日である。ここを乗り切れば今年の節電体制は終わる。
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危機管理報告

2012年08月15日 | 築地市場にて

北海道で発生した大腸菌O157による食中毒で白菜漬から菌が発見されたようだ。東京には商品の性質上入荷はしていない。最近の製造技術では白菜を塩素で殺菌してから、加工に入る。
 しかしどうして白菜に大腸菌が付着していたのだろうか。10年ほど前にあった事件では埼玉保険所の検査体の管理ミスで漬物が犯人とされた。漬物の大腸菌O157による食中毒の事例は少ない。
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明治15年

2012年08月14日 | 福神漬

17歳の石井民司(研堂)は福島県郡山市郡山小学校の代用教員だったのが明治15年頃である。この頃福島県では県令となった三島通庸と自由民権運動が衝突していた時期だった。福島県の中では郡山付近は自由民権運動に参加している人は皆無といってよかった。その理由は郡山を含む、安積地方の指導者は明治政府の大規模な土木工事で恩恵を受けていて、明治15年10月に安積疎水の工事の完成式を挙行した。福島に於ける反自由民権運動の拠点の郡山に石井は居た。後の石井研堂の著書『明治事物起源』には福島事件の記述がなく、加波山事件から始まるのはこのような理由からと思われる。また石井の友人であった高橋太華は二本松藩士族の子孫であり、やはり奥羽列藩同盟を裏切った三春藩に対して遺恨があり、福島自由民権運動の指導者河野広中(三春藩)には憎悪の感情があったと思われる。明治9年東京銀座の新聞社(公益問答新聞)に勤めていた花香恭次郎がなぜ東北に地に向かったか不明であるが新聞社主の服部撫松(立憲改進党)は二本松藩公用人だった。服部と西南戦争の記事方針で対立した花香は自由党へ向かった。
 明治18年高橋太華は上京し、東京大学に入るが病気のため退学し、明治20年日本に於ける最初の少年雑誌を創刊し編集に従事した。この頃高橋の少年雑誌の関係から東京根岸に住んでいた文化人グループと付き合い始め、高橋も根岸党の一員とみなされるようになった。根岸党は酒を飲み交友して居た。その酒席で福神漬の缶詰が出てきていた。石井は奈良漬でも酔うタイプで根岸党との付き合いは深くなかったようである。
高橋太華は太華山人という筆名で少年のために『河村瑞賢』の伝記を書いた。河村瑞賢は福神漬の元祖という漬物を造ったと言う人もある。
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環状2号線工事現場が近づく

2012年08月13日 | 築地市場にて

ようやくロンドン大会が終わって、季節は秋となる。今年の築地市場のツバメは2回も孵化して、7羽が孵ったが結局5羽は旅立ったようだ。朝日新聞のところのセミ時雨はうるさいほどで真夏の暑さを増すこととなる。築地の話題も少なく、周辺の工事は順調に進んでいるようだ。最近の建築工事は工事予定の案内とほぼ同じ時期に終わる。
 旧三井造船別館前の広場、汐先橋のところにある下水の建物、浜離宮パークサイドプレイス前の広場に工事フェンス、築地市場の青果門前から工事現場が始まる。来年には場内で環状2号線の工事が始まるのだろうか。今の暇さ加減では十分可能である。

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食べ物と政治の関係

2012年08月12日 | 築地市場にて

およそ食べ物と政治の関係はないように思っていた。しかし長く漬物のことを調べてゆくうちに、すぐには政治の影響は見られないがある程度時間が経ってしまうと結構政治の影響があったことに気がつく。日本酒の発達も戦国時代から江戸時代にかけて米の収量が増えて酒造りに回ったことに気がつく。1600年代、平和となった江戸幕府は外様大名の財力を削ぐため大規模な河川改修の土木工事を行った。その結果米の収量が増え、江戸時代の日本の人口は3000万人ほどで安定した。
 開国した日本は明治になって再び人口が増え始め、明治10年代は毎年20万~30万人ほど人口が増えた。この原因として出生が増えたことと、医学の進歩によって病死者が減ったこともある。この結果米不足となった日本は大陸から外米を輸入するようになった。主に韓半島から来た米は逆に韓半島の人たちの物価高騰を招き社会不安となった。

任期切れの近い政治家がドサクサの行動で漬物に影響を与える。数年前、韓国の政治家とマスコミが安価なキムチが中国から来ているのに気づき、寄生虫キムチと騒いだ。結果、韓国から日本へ来るキムチの量が減って、国内産原料を使ったキムチが増えた。日本には在日の人もいるので本場物の味も困らなかった。このような状況が続けばキムチの本場は大阪か新大久保となるだろう。
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東京湾の花火

2012年08月11日 | 築地市場にて

築地市場で残業をしている人のみ築地市場で見ることが出来る東京湾花火。市場周辺の環状2号線工事のための準備工事が急に増えてきた。すでに三井造船の改築が終わり、これから周辺のビルの空き地が整備されるようだ。このままの勢いで移転工事が急速に進みそうだ。豊洲の水産仲卸棟の屋上からは良く見えるだろう。
 今日を含めてあと3回しか築地市場内で花火を見ることは出来ない。昨年は警備の都合では花火はなかったと思う。一年前はずいぶん遠い過去になった気がする。築地は14日から16日まで旧盆休みに入る。
 
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ロンドンも終わりに近く

2012年08月10日 | 築地市場にて

気がつけばもう10日となった。旧盆前の仕入れがほぼ終わりささやかな築地の夏休みとなる。オリンピックの影で報道されないが野菜には近来まれな好天候で少し安めの展開となる。国内産原料は今漬け込みの真っ最中となる。このまま台風が日本に上陸しなければ良い原料が手に入るだろう。
 盆明けの17日が築地では一年で最大電力消費の日となる。日の出が午前5時を過ぎる。暦の上でも着実に秋がやってきて秋の果物が築地に入荷し、スイカが放置される時期となる。
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野田さんが大変なとき野田市へ

2012年08月09日 | 福神漬

日本経済新聞7月の私の履歴書『茂木友三郎』を読んでいて確認のためキッコーマン国際食の文化センターに5年ぶりに行ってきました。5年も経っているのに野田市の中心部はあまり変化があったとは思えない。野田市郷土資料館に先によって見学する。
 キッコーマン野田本社の後ろにある文化センターで『野田醤油20年史』を読む。
キッコーマン第16工場
千葉県行徳にあった酒造工場を譲り受け、醤油工場として明治29年頃から茂木啓三郎が経営を任されていた。明治33年から正式に『亀甲誉』ブランドとなる。明治31年頃から機械化を図り、保守的な醤油業界での先端的な工場となっていた。ちょうどこの頃行徳押切の山田福神漬缶詰工場が創立されている。明治の時の醤油販売の取引は新規拡大が難しく、新たな需要が現れない限り無理な投資は出来ないと思われる。この点近所にあった福神漬缶詰に醤油を納品することは事業拡大にとって必要不可欠の要素であった。
 当時の缶詰工場の最大の需要先は軍隊で日露戦争前の朝鮮半島がそろそろきな臭くなっていたかもしれない。茂木啓三郎がどこでこの情報を仕入れていたのだろう。想像できるのは柳橋か葭町の芸者あたりかもしれない。この辺の史料は殆ど期待は出来ない。
センター長の話だと、大正年間に野田の醤油業者数社が統合しキッコーマンが出来たのだが統合以前の記録はまだ公開されていないので資料があるかどうか判らないという。
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福神漬に春本が

2012年08月08日 | 福神漬

真情春雨衣 梅亭金鵞著
福神漬の命名をした梅亭金鵞は江戸末期には春本の作者であった。彼の代表作は今では近代デジタルライブラリーからネットで読むことができる。しかし、古文とかの知識がなければ発情することはないだろう。挿絵もおとなしく、とても現代文約を読まなければ無理だろう。
 なぜこの本を読もうと思ったかは梅亭の検閲逃れのテクニックを知りたかったためである。

春本を愉しむ 出久根達郎著より
出久根さんの見解だと『真情春雨衣』は女性のための人情本だったという。江戸末期の貸本屋は宅配していて、外出の自由のない女性に春本(人情本)をそれとなく他の本と混ぜて配達していたようだ。男性用の本は露骨だが女性用は絵がおとなしい。それゆえ今ではネットで読めるようになったのだろう。
 石川啄木もどうやら梅亭の本を読んでいたようだ。(春の朧夜)明治の貸本屋は今のアマゾンのように読者の興味を引く本を選び配達していたようだ。
 源氏物語が今でも読まれている原因は江戸時代に春本の題材となっていて、そこから本来の源氏物語を読むきっかけとなったという。そして春本源氏物語から大奥の模様を想像していたかもしれない。






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健康寿命

2012年08月07日 | 築地市場にて

最近平均年齢が震災のため2位となってしまったという記事から健康寿命という言葉を知った。健康寿命とは、「介護を受けたり病気で寝たきりにならず、自立して健康に生活できる」という定義だそうだ。
日本人は男性の健康寿命が男性は9年、女性は12年平均寿命より短いという。2010年の統計によると、男性の健康寿命は70.42歳で女性は73.62歳である。これが現在の日本の諸悪の根源である。財政悪化も平均寿命と健康寿命との間の差が長いことが根本問題となる。
 今、日本では毎年105万人ほど生まれている。団塊の世代の人たちは200万人ほどがここ数年で65歳を超える。消費カローリーも減るので急速な食の売り上げ減少があり、介護食の需要が急拡大する気がする。既にオムツの市場で日本は赤ちゃん用より高齢者用が増えているという。ベビー食からから介護食までまだ漬物は対応していない。
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築地市場のセミ

2012年08月06日 | 築地市場にて

日曜日、静かな築地市場でセミの声。どうやら隣の浜離宮の森から聞こえてくるようだ。休日は場内が静かなので浜離宮の岸壁につく遊覧船の案内放送が良く聞こえる。ここは江戸時代と変わりのない風景がある。
 とにかく暑い。熱中症予防とかで塩分摂取を薦められているが梅干を食べれば解決する。ところが梅の不作で過度の販売促進は禁止している。来年の需要期まで在庫が持たないという。
昼前より久しぶりの雨。東京湾の花火大会の規制案内が来る。これが終わると一年の前半が終わった気がする。
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豊洲汚染除去工事

2012年08月05日 | 築地市場にて
テレビで豊洲汚染除去工事の進行状況を報道していた
あれほど騒いでいた豊洲の汚染状況も除去が出来ることがわかり、移転反対の声は今では静かとなってしまった。福島の放射能汚染も安定した需要があるので除染の研究開発が進んでいるようだ。
 今2030年の原発がゼロと希望している人も10年経てば何人が意思を反転させるのだろうか。今自然エネルギー発電が強化されている。この料金が年々高騰してゆくのだが、来年には65歳以上の人口が30%近くとなる。収入の増大の図れない高齢者は消費税の増税もあり、また原発でも電気が安価であればよいとなるのは予想される。先の長くない高齢者は安さを取る可能性は強い。ここに若年層と高齢者の対立となるだろう。こんなことを予想しているので当分安価な漬物しか売れないだろう。
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歴史編纂家の作為はなかったか

2012年08月04日 | 福神漬

ペリーが浦賀に来航したとき、アメリカ国書を無言で受け取った戸田伊豆守氏栄は若き日から20年近く、幕府歴史の編纂に関与していた。そのような人物が浦賀奉行所の代表となり、祖法ともいえる政策を変更せざるを得ないとき、史実となることと自己弁護を意識しないことはあるのだろうか。
 維新史に於いてこの事に関して調べた文献はまだ見つからない。白旗論争でも誰が偽情報を流したかいまだに不明である。書面でなく口頭で偽情報を流しても信頼される人物はそう多くない。嘉永6年6月4日に黒船に乗り込んだ人物は浦賀与力中島三郎助、香山栄左衛門、通詞堀達之助、立石得十郎が知られている。彼ら4人の書いた書類は上司である戸田の手を経て阿部伊勢守や井戸石見守へ提出されたと思われる。阿部や井戸は江戸にいて具体的な情報はないで事実と思うのが当然である。また戸田は自らの立場を守ることを意識していた。江戸での結論が出ないこととなり浦賀奉行所の対応に任せるとなったとき、浦賀衆の弁護を図るべき書類を残すのが当然と思われる。

ぺりーが嘉永7年正月に再来航したが戸田と香山は応接の仕事から意図的に排除されていた。彼らは開国派と見られていたようだ。このようなことを感じたのは子孫である長井昌言が幕府崩壊後、明治の初め、2~3年芸事をして時間を過ごせば落ち着くだろうとして戸田氏栄の男3兄弟が長唄7代目杵屋六三郎(4代目杵屋長次郎)に入門していたという。(鶯亭金升日記)幕臣の武士が明治に入って芸事を習い時間を過ごす。このことが明治の中頃まで扱いだった新聞記者への道を開いたと思われる。
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吉田松陰の浦賀日記

2012年08月03日 | 福神漬

吉田松陰はペリーが初めて浦賀に来たとき、浦賀に行った。その時の様子を書いた手紙から、浦賀奉行と砲術指南で浦賀に滞在していた下曽根金三郎が切腹する場所として予定していた寺院を掃除するように指示していたということを手紙に書いていた。
フェートン号事件(フェートンごうじけん)は、文化5年8月(1808年)
長崎に侵入したイギリス船の対応でその不手際から長崎奉行が遺言書を残し切腹した。その遺言書の大意は長崎を警備していた肥前藩兵が不足していて対応が間に合わなかった。またそれを奉行所が監督していなかった。人質をとられ、脅迫によって食料を供給し、何も出来ないうちに逃走されてしまった。長崎の警備手薄をさらしたことで、日本の恥と考え長崎奉行松平康秀は切腹した。
 黒船が浦賀に突然やってきて、浦賀奉行戸田氏栄と砲術指南下曽根金三郎はフェートン号事件の前例を知っていて、切腹の可能性があると考えたか、偶然寺院が掃除していたのを見つけ、切腹を命じられると場所として噂が立ったと思われる。浦賀の人たちは頻繁に来る異国船にもかかわらず、対応不備だった奉行所を揶揄していたかもしれない。
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白旗論争の続き

2012年08月02日 | 福神漬

孝明天皇(明治天皇の父)が即位したのが弘化3年である。明治時代に編纂された維新史は弘化3年から記述が始まる。なぜこんなことが気になるのかというと浦賀奉行であった戸田伊豆守氏栄の経歴が殆どといってよいくらい日光奉行から浦賀奉行になったと書いてある。しかし良く調べると日光奉行の在任期間は1ヶ月ほどしかない。その前は駿府町奉行だった。しかし駿府町奉行になったときは天保年間である。従って戸田の経歴は他の史料から調べているとは思えない。
 ウィキペディアでも戸田の42歳までの経歴が書いていない。つまり誰も戸田氏栄の42歳以前の過去の経歴は重視しているとは思えない。浦賀奉行だった戸田氏栄はペリー来航時に浦賀に在任中で現場の指揮者で責任者であった。結果としてアメリカ国書を無言で受け取っただけで日本史歴史家から無視されたと思われる。
 戸田氏栄がいつから幕府の歴史編纂に参加したか不明だが20年以上文献と戦っていた。
『朝野旧聞【ホウ】藁』は文政2年(1819年)に儒学者の林 述斎(1768-1841)の指導監修のもとに戸田氏栄以下のべ20名以上の幕臣により幕府の歴史編纂が始まり、天保13年(1842)に完成した。
 ペリー来航時の対応に当たった浦賀奉行所支配下の与力や通詞等の上申書類は戸田の検閲を経て、老中に提出されたと思う。戸田の意識の中に歴史の文献になるということから「アメリカ国書を受け取った」ことは幕府の方針に反する行動と論理の整合性を図る意識があったと思われる。それは何か。『浦賀ではペリー来航情報が否定されていて、幕府財政難で軍備が不足していて、突然やってきたので攻撃することも出来ず、彼らの脅しから国書を受け取りことにしました。』ということになる。そこでこの論理に反する見解および行動等は可能な限り修正し、脅迫されたとか、オランダからの情報が幕府によって否定されたとかを強調しているように思える。
 吉田松陰はペリーの黒船を東浦賀で見て幕府の準備不足を嘆いていた。
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