年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

株式相場1万5千円越え

2013年05月16日 | 築地市場にて
長い間気分を暗くしていた株式相場が普通になった。これからはバブルとなるから一時の高揚した気分を味わうことが出来る。そろそろ福神漬のまとめた本を出そうと企画しているが株式投信での損失を長い間抱えていたので漸く印刷企画しても損した気分が消えるだろう。
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テレビの演出

2013年05月15日 | 築地市場にて

親子で同業をしている得意先がテレビ番組となった。築地場外市場の中で親子が別々の店舗で食品を販売している得意先が小売商、飲食店需要が減少しているのに現行の方法を変えない親と増えている観光客、消費者のための築地場外市場ならでの商品を販売企画の考えている息子と対立という演出となったようだ。具体的には今後がどうなるかわからないが豊洲への移転から変化してゆくことは間違いのない方向かもしれない。
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Yasuji東京3

2013年05月14日 | 築地市場にて

色刷り明治東京名所絵 井上安治著 木下龍也
井上安治の画題は大川(隅田川)及びこれに繋がる枝川や運河が多い。江戸明治前期はまだ水運が交通物流網の中心で東京下町の生活者の大半は川に関わる仕事に従事していた。安治の師である小林清親も大川の傍で生まれ育った。師の影響もあり、川と水が季節や気候の微妙な光の変化を安治が描いていたという。(木下龍也)
 明治5年に鉄道開業から次第に鉄道網が整備され、次第に内陸水運が衰え始めた。江戸ではない明治東京の初期が安治の版画に現れているという。江戸は水運、明治は鉄道から陸運。安治と小林清親の明治10年代は過渡期であった言える。
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ネガの明治

2013年05月13日 | 宅老のグチ

2013年5月12日 読売新聞日曜版
山田風太郎が50歳を過ぎてからの明治小説の中に「地の果ての獄」という小説がある。原胤昭の「囚人といっても、やはり人間なのですから」という言葉を取り上げている。石川島人足寄場を管理していた町奉行与力の子として生まれ、明治の自由民権運動筆禍事件で石川島に投獄され、そこで劣悪な囚人の生活の改善を図るため、監獄改良、出獄人保護事業に生涯をささげた。
 福神漬の資料調査をしなければこの人とは縁のなかった人物だった。今気になっているのは原が神田須田町で配布した小林清親の絵になる浮世絵が福島事件被告人花香恭次郎と明治5年前後南茅場町でどんな関係があったのだろうか。この時にはすでに三菱関係の東京支店のようなものが南茅場町のところにあった(明治3年)。南茅場町は原の住まいがあった。日本郵船(南茅場町)のカレーライスと福神漬の関係はどこから繋がっていたのだろうか。
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1ドル100円超え

2013年05月12日 | 築地市場にて
長い円高がやっと終わって漬物の原料は海外からの輸入が多く、決済通貨はドルが全てといってよい。銀行から薦められた為替のデリバティブの損失(1ドル100円が多い)もようやく終わりそうである。
 海外漬物産地も現地の好景気で物価高で安い価格では農家の作付け意欲もままならず消えてゆく安い漬物が増えるだろう。国内の農家の高齢化は進んでいて道の駅などの直接販売以外では見かけなくなる漬物が増える気がする。海外製造の漬物の直接販売が一時的に増えると思うが販売コントロールが出来ないところは消えるしかないだろう。日本でキムチがブームだった時、韓国からの日本市場に参入した業者は販売先がないため、冷蔵庫保管料がかさみ、買い叩かれ損失を出し撤退した過去がある。日本の国内の小口配送はかなりコスト高である。漬物は安くしても消費量は価格の下落ほど増えない気がする。
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やっと雨が

2013年05月11日 | 梅干

この時期として乾燥注意報が東京には出ていたがようやく雨が降った。この雨で紀州の梅の実のなりも良くなる気がする。長い間円高で中国産の梅が日本市場で安い梅干需要をリードしていたがようやく低価格競争も終わりが見えてきた気がする。
 鳥インフルエンザがどこまで進むかわからないが梅は何でも対応する保存食である。
梅干は胃腸系疾患の万能の健康食品である。
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明治のおもかげ 5

2013年05月10日 | 宅老のグチ
擂鉢山古墳
上野の山の東京都文化会館の後ろに古墳があるとは知らなかった。根岸に住んでいた長井少年(鶯亭金升)が神田雉子町の団団珍聞に通っていた頃、根岸の里の住民が下谷に用達しに出るのにどうしても上野の山を越えなければならなかった。山下を回れば寂しい貧民街を通らねばならなかった。一番近いのは鶯坂から両大師の傍らを通り擂鉢山という名前のある古墳へ出る道だった。一葉も図書館へ通う道だったかもしれない。

同潤会が昭和4年に造った現存する唯一の同潤会上野下アパートメントが取り壊されるようだ。この建物は関東大震災後の上野貧民街の跡に建てられたと書いてあったのをみた。少し離れているが近くにあった下谷万年町は明治東京の三大貧民街の一つで慣れない人達は避けて通行していたようだ。でも上野山下は福神漬の資料調査でたびたび出てくる地名である。
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明治のおもかげ4

2013年05月09日 | 宅老のグチ
明治の頃の職人は字が読めないことを親方から別にとがめられることもなかった。江戸時代から長々と続いた伝統的な仕事が急にはなくならないと思っていた仕事も文明開化で多くの仕事が消えた。文明開化で消えた仕事をしていた職人は文字が読めないことで転職が出来ず無用の人間となってしまった。鶯亭金升は60年ほど前の話という。戦後まで生きていた鶯亭は字の読めない明治の職人を笑っていたが、戦後世界で鶯亭金升が横文字が読めないことを笑われていると書いていた。平成の今は横文字の変わりにパソコンが出来ないことなのだろうか。
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銅版画「仮装舞踏会」

2013年05月08日 | 福神漬
小林清親作 銅版画「仮装舞踏会」
明治文化研究会と明治憲法-宮武外骨・尾佐竹猛・吉野作造
堅田剛著
43ページ
小林清親の銅版画は、細部に異同はあるもの「時事新報」明治20年4月22日付け記事で20日に伊藤博文の内閣総理大臣官邸で仮装舞踏会(ファンシーボ-ル)なる
奇怪な催しがあった。ファンシーボ-ルは鹿鳴館外交のクライマックスで多くの誤解を生じた。不平等条約改正のため、近代化のための欧風化政策の一つだった。西洋の服を着て西洋の音楽に合わせて踊るのがどうして条約改正に繋がるかが当時から批判があった。
 さてこの本では小林清親が団団珍聞の社員にもかかわらず、団団珍聞には銅版画の絵はないとある。確かに図書館で探したとき伊藤博文の戯画はあったが仮装舞踏会の戯画はなかった。著者の堅田剛氏は弾圧を恐れて掲載しなかったと想像している。明治20年ならば長井総太郎(鶯亭金升)の情報から、ファンシーボ-ルの夜の出来事の詳細を知ることが可能である。長井は大垣戸田家の縁者である。
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ザワークラウト

2013年05月07日 | 趣味としての漬物

キャベツの漬物だが日本では馴染みがない。ドイツなどでは軍隊食として普及したようだ。BBCのテレビ番組でキャプテンクックの航海でザワークラウトとレモンを食べたため、ビタミンC不足による壊血病から一人の死者が出なかったという。ザワークラウトはビタミンCが豊富に含まれている。当時はまだ壊血病がビタミンC不足と知られていなかった。
 日本の軍隊ではタクワンが知られているがビタミンB1不足を補う量はなかった。精米した白米常食による脚気はビタミンB1の不足と知ったのは大正のころで脚気が無くなったのは戦時中の米不足の頃となる。

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築地市場のプラネタリウム

2013年05月06日 | 築地市場にて
昔なら考えられない5月の3日連続の市場の休みで実に静か。それでも観光客で場外市場は結構な人出で混雑とまで行かないがにぎわっている。
休市の昼前、弁当を買いに波除神社前のコンビニ(サンクス)に行く。そのコンビニの入り口の棚に紳士用の帽子が販売されている。不思議。波除神社も七福神詣でをやっているようで目礼参拝する。
 帰りに水産部仲卸の大通路を自転車で走行すると地面に水玉模様がある。まるでプラネタリウムのように見える。よく見ると天井の明り取りに穴が開いていて、太陽の光が通路を照らしているようだ。数が多く築地銀河ともいえる穴がある。あと3年弱の築地市場ではこの穴も事故がない限り、補修されないだろう。
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Yasuji東京の本 2

2013年05月05日 | 宅老のグチ
Yasuji東京の本 2
杉浦日向子著
犬かわ
川端の土手で犬を連れて散歩すると犬はわき目を振らず主人の後をひたすらついてゆく。小林清親の弟子となった井上安治は小林の後をひたすら無言で付いて歩いていたようで、杉浦日向子の『Yasuji東京』では「犬かわ」という言葉で井上安治が小林清親の後ろを歩いていたことを子孫が語っていたことを書いてあった。
 平成の今、戦後の混乱が過ぎ、食糧事情が安定した頃、つまり東京タワーが立った頃、今より貧しかったけれど明日は今日より良さそうと思える時代だった。スカイツリーが建った今、若い世代は将来懐かしい思い出になるのだろうか。

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正岡容

2013年05月04日 | 宅老のグチ

昭和28年2月22日 大田区千鳥町の鶯亭金升宅を訪問
「正岡容このふしぎな人」という本を読んでいたら、このような文があった。鶯亭金升日記にも記述があった。正岡容は昭和の始め浪曲『天保水滸伝』の台本を二代目玉川勝太郎に提供したという文献があってこの人物を知りたいと思って本を借り出した。「利根の川風たもとに入れて、月に棹さす高瀬舟……」の名調子の台本を作ったのが正岡容かも知れません。戦後正岡は笹川や飯岡に旅行に行っています。「明治東京風俗語事典」正岡容著の後書きで川尻清潭(歌舞伎研究家)と鶯亭金升の名前が出てきます。
 福神漬の資料調査からこの頃脱線していて本筋の線が見つからず停滞しています。雑書を読んでいるうちに其のうち本線に出る出会いがあると信じてまた本を借り出すことになる。
 正岡容の妻は花園歌子で吉野作造の明治文化研究会に唯一女性として参加していた人でした。「芸妓通 」花園 歌子著があり一回都立中央図書館で軽く読みましたが記憶に残っていません。

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Yasuji東京の本

2013年05月03日 | 宅老のグチ
Yasuji東京の本
杉浦日向子著
都立中央図書館で借りればすぐ見ることが出来たのだが友人に図書の借り出しを頼んだのが昨年12月上旬のことだった。マンガ本ということで当時の予約人は17人ほどだった。それが忘れた頃やってきた。あっという間に読み、すぐ返却。滞在時間は半日しかなかった。井上安治の本である。
 井上は明治22年26歳の若さで心不全ため亡くなった明治東京の風景を描いた画家だった。明治11年の雪の日、最後の浮世絵師といわれた小林清親が雪の日にスケッチをしていたとき、傍らでじっと小林を見ていた少年がいた。それがきっかけとなり井上は小林の弟子となった。従って井上の絵は小林清親の絵と似ているが小林の絵に漂う幕府御家人だった過去が消えていて、井上には江戸を知らない文明開化の東京風景が感じられる。
 明治17年、井上安治は探景と名前を代えた。その後の明治22年までの画作の評価は低い。団団珍聞に関係していた小林清親との関係で鶯亭金升が井上安治と知り合ったのが探景と名前を変えた後と思われる。明治17年頃、東京で井上の心の中で何があったのだろうか。
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大正天皇のタクワン漬

2013年05月02日 | タクワン
近代数寄者太平記 原田伴彦著
22ページ 明治45年、井上馨の神奈川県興津にある別荘に後の大正天皇が遊びに来た.
井上の自慢の手料理でもてなした。後で大正天皇が宮中の大膳職に『井上の家で出た料理の中で特においしいものがあったがあれをぜひ食べたい』と言い出した。どんな手料理か大膳職が井上家に問い合わせたところなんと『たくわん漬』だった。
 
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