嘉永6年 浦賀に現れた黒船で幕府の大船建造禁止の規則を停止する必要性が生じた。この年の年末に水戸藩が江戸湾再奥の地の隅田川の中洲とも言うべき石川島に造船所を作った。翌年つまり嘉永7年11月にほぼ完成し、11月15日(旧暦)に和船のように女性の黒髪で作ったロ-プ等も使って引き出そうとしたが失敗した。この辺の文献の年月の混乱があるのは嘉永7年11月27日が安政となったためと思われる。
11月29日の夜、あれほど苦労して動かそうとした水戸藩の旭日丸は夜半に隅田川の中洲に自然と動き座礁し、横倒しとなってしまった。二ヶ月半の苦闘の末、ようやく隅田川本流に引き出されたが、この辺りを見物した江戸市民が厄介丸と嘲笑の対象となったようだ。築地に近いところで塾を開いていた佐久間象山も「厄害丸」といっていたようだ。
完成した旭日丸の大砲等を取り付けるため、横浜に回航する必要があったが、水深の浅い墨田川本流を脱出して、品川まで20日もかかったという。
このような厄介丸の回航の文献を見ると、明治17年3月の大潮の夜、石川島監獄を脱走した自由民権運動高田事件の赤井景韶(あかいかげあき)が泳がなくとも渡れたようだった。テロを公言していた赤井を恐れ、政府幹部は広範囲に密偵を放ち、捜索し、9月10日静岡県大井川橋で捕まえた。
この明治17年頃は政府の密偵というべき、私服の警察の警察が活躍していた。刑事のことをデカと呼ぶ語源となった角袖の私服刑事が自由民権運動家に混入していたことが今では文献で残っている。当時の政府を皮肉っていた團團珍聞に私服の刑事が往かなかったのだろうか。17歳となっていた長井少年の身元が團團珍聞の人たちに解ってしまったのだろうか。長井少年の待遇が変わり、團團珍聞社主の野村文男の供として関西へ旅行することとなる。
つまり福神漬の命名の時期は明治19年の関西旅行以前ということになる。