年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

また雪ということで

2014年02月13日 | 築地市場にて

関東地方の畑の雪もまだとけないうちにまた週末にまた雪となって、今年の野菜の高騰が長引きそうだ。為替の問題から例年より高くなった輸入野菜で波乱があるのだろうか。築地には九州から大根が入っているがどのような雪対策をして東京まで運ぶのだろうか。
 先週の雪は築地の人達も用意が良く、車の事故はなかったとようだ。今週は金曜日ということで混乱が増えることが予想される。特に週末ということで電車の混乱は不可避だろう。
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ソチはアッチ、ツキジはコッチ

2014年02月12日 | 築地市場にて
今週から駄洒落の本を集中して借り出す。日本語の中に何があるか。そして比喩として食品名に伝わるものがあるかどうか。気長にやるしかない。予想もしない大雪もツキジには何もなかったようユキ去ってに普通に動いている。街には東京マラソンの交通規制の予告が現れ、マラソンが終わればついに豊洲市場の一部着工が始まる。青果の低温冷蔵庫の緊急点検が始まった。どうやらコンクリ-トの劣化で崩落の恐れがあるらしい。高速道路の崩落と同じことがツキジであるとは恐ろしい。あと2年無事に築地市場の仕事が終わればよいのだが。そんなことはないだろう。
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ふぐを忘れる

2014年02月11日 | 築地市場にて
勝どき橋のそばにある老舗天竹で2月9日が『ふぐの日』ということで1000円でふぐ天丼を提供することを知っていたが雪による忙しさでつい隣の吉野家で暖かい牛すき鍋膳を食べてしまった。天竹の前を通り、忘れたことを知る。築地市場のふぐ除毒場の前を通り帰る。次のふぐの日は何時なのだろうか。
 ふぐは関西の人は『ふく=福』とする感覚があるようだ。中国の春節は『福』だらけである。逆さにつるされた福は天からふくが降りると意味するのだろうか。
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驚きの雪

2014年02月10日 | 築地市場にて

45年ぶりの東京の大雪・築地市場でも吹き溜まりでは50センチはあった。ところが翌日8時過ぎには、半分の高さになっていた。そしてフォ-クリフトが数枚のパレットを引きずって,青果の人達が除雪した。午後には通路が乾燥し、隅を除けば普通の築地市場へ戻った。夕方より大量の入荷があった。雪のため都知事選は棄権となった。今週末また雪になるかもしれないという。今度の天気予報のため週末は忙しいだろう。
 築地で選挙運動した候補者の落選記録が終わった。記録はいつかは破られる。
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記憶にない築地市場の豪雪

2014年02月09日 | 築地市場にて

築地市場に来て40年を越えるが記憶にない豪雪。9日が日曜日なので救われるがもし平日だったら車の手配で震災並みの混乱だっただろう。帰宅が出来ず築地にお泊りもあったかもしれない。予想される混乱はチエ-ンのないフォ-クリフト。どう稼動させるか知恵と工夫の見せ所。
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雪ということで

2014年02月08日 | 築地市場にて

築地市場も雪ということで畑も積雪で出荷できないところもあるだろう。雪のあとの凍結が問題である。今の雪の降り方から午前中の仕事は順調に終わるだろう。問題はそのあとどうなるかだ。

夕方5時築地市場はひっそり。15センチは越えた。休市前の雪の記憶がない。
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月島・勝どきの誕生

2014年02月07日 | 築地市場にて

石川島造船所創業者 平野富二の生涯-下巻 高松昇著から
自由民権運動高田事件被告人赤井が石川島監獄を明治17年3月に隅田川を歩いて脱走した。この17年頃から東京市は隅田川の浚渫工事を行い、干潮下6尺(1.8M)とした。明治20頃からさらに幅ひろく浚渫し、干潮下10尺とした。この浚渫土で月島と勝どきの土地が生まれた。(明治24年23万坪)
環状2号線の工事が進んでいるが、築地市場と勝どきの間に橋が架かるが245Mという。明治の隅田川浚渫計画だと船が通れる深さの川幅を35間(63M)としている。明治17年頃の墨田川幅がどのようだったのだろうか。
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厄介丸

2014年02月06日 | 福神漬

嘉永6年 浦賀に現れた黒船で幕府の大船建造禁止の規則を停止する必要性が生じた。この年の年末に水戸藩が江戸湾再奥の地の隅田川の中洲とも言うべき石川島に造船所を作った。翌年つまり嘉永7年11月にほぼ完成し、11月15日(旧暦)に和船のように女性の黒髪で作ったロ-プ等も使って引き出そうとしたが失敗した。この辺の文献の年月の混乱があるのは嘉永7年11月27日が安政となったためと思われる。
 11月29日の夜、あれほど苦労して動かそうとした水戸藩の旭日丸は夜半に隅田川の中洲に自然と動き座礁し、横倒しとなってしまった。二ヶ月半の苦闘の末、ようやく隅田川本流に引き出されたが、この辺りを見物した江戸市民が厄介丸と嘲笑の対象となったようだ。築地に近いところで塾を開いていた佐久間象山も「厄害丸」といっていたようだ。
 完成した旭日丸の大砲等を取り付けるため、横浜に回航する必要があったが、水深の浅い墨田川本流を脱出して、品川まで20日もかかったという。
  このような厄介丸の回航の文献を見ると、明治17年3月の大潮の夜、石川島監獄を脱走した自由民権運動高田事件の赤井景韶(あかいかげあき)が泳がなくとも渡れたようだった。テロを公言していた赤井を恐れ、政府幹部は広範囲に密偵を放ち、捜索し、9月10日静岡県大井川橋で捕まえた。

この明治17年頃は政府の密偵というべき、私服の警察の警察が活躍していた。刑事のことをデカと呼ぶ語源となった角袖の私服刑事が自由民権運動家に混入していたことが今では文献で残っている。当時の政府を皮肉っていた團團珍聞に私服の刑事が往かなかったのだろうか。17歳となっていた長井少年の身元が團團珍聞の人たちに解ってしまったのだろうか。長井少年の待遇が変わり、團團珍聞社主の野村文男の供として関西へ旅行することとなる。
 つまり福神漬の命名の時期は明治19年の関西旅行以前ということになる。
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石川島資料館へ3

2014年02月05日 | 築地市場にて
下記は10年程前のIHIの広報でありますがどうやらIHIは嘉永6年12月5日が創業日のようだ。

2003年度 新たな150年へ。IHIが創業150周年 ~コーポレート・スローガンは“Explore the Engineering Edge”~
-2003年12月4日
(参考資料)
 嘉永6年(1853年)6月、浦賀沖にペリー提督率いる米国東洋艦隊の黒船が来航、同年12月5日に江戸幕府が江戸隅田川河口の御用地石川島を造船所敷地と決定し、水戸藩主徳川斉昭に設立と運営を命じたのがIHIの前身である石川島造船所です。同造船所での船の建造は、翌嘉永7年(1854年)1月2日から開始されました。まさにIHIの歴史は日本の夜明けと共に始まりました。
 もう少し、水戸藩と浦賀奉行衆との関係の資料が石川島資料館にはありそうだ。嘉永年間の隅田川は今より川幅が広く、佃、月島は東京湾に浮かぶ土地だったようだ。ただ水深が浅く、造船所として適切だったか不明である。石川島造船所で一応形になって旭日丸(洋式帆船)をドックから引き出そうとしたが失敗し、もたもたするうちに大潮だろうと思うが人知れずドックから出て隅田川支流部分の浅瀬に横倒しとなり、江戸市民から『厄介丸』と嘲笑された。
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中島三郎助と水戸藩

2014年02月04日 | 福神漬

『水戸藩の軍艦建造にかかわった三郎助は、
その礼として目立った産業のなかった浦賀のために、
水戸藩の塩の専売権を譲り受け、
そこから得られた利益は、浦賀の発展に大いに貢献したといわれます。
一方、自身は、お上より充分禄をいただいているのでと丁重に断り
決して礼を受け取ることはありませんでした。』
 このように言い伝えがあるが水戸藩と中島三郎助の関係の具体的な文献がまだ見当たらない、中島の経歴から石川島の水戸藩造船所だと思うが中島自身が石川島へ行った記録がない。ただ安政地震の下田で大破したロシア軍艦の再建造で戸田へ行った記録があるようだが、中島が戸田に着いたときには既に完成していたという。どのような中島の行為が水戸藩の軍艦製造に関わったのか今調べている。
 西浦賀の干鰯問屋は上方に送る肥料の集積地として繁盛していたが、天保の改革で東浦賀の塩問屋は疲弊していた。この塩問屋と行徳漬物商人との関係があって、戊辰戦争の最後の戦闘で中島親子と浦賀奉行衆の戦死者の中に漬物商人が混じっていたと想像できる。
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節分で

2014年02月03日 | 築地市場にて

昔は冷暖房が十分でなく、季節の分かれ目も肌で感じていた。今では過剰というべく冷暖房で気温の変化も気になることは少ない。
 節分の頃、春から夏にかけての食品の構成が変わる。
節分で豆まきをしていた記憶がある。木樽を洗って干しているところに豆が落ちていた記憶がある。この時期よく雪が降っていたようだった。いつもと一変した雪景色が子供の記憶に残る。雪が音を吸収し、実に静かな都会となる。
 漬物木樽も装飾となり、昔のことを知る人も少なくなった。平成も25年経てば昭和もふた昔となる。
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停電も2回目となると

2014年02月02日 | 築地市場にて
築地市場の電気点検停電が2月2日の点検で終わる。今日の天気予報では比較的あったかい。
真っ暗なところで中島三郎助の本を読む。
停電も2回目となると、どうなっているのか解るので予定が組める。

午後3時50分 電気が点く。やっと文明世界に入る。なにしろ生きる江戸時代なので平気で半日停電がある。
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2月になれば

2014年02月01日 | 築地市場にて

少しは休めるようになって、2月になれば暖かくなり、外に行く気も出て、福神漬のまとめもできるだろう。まだまだ謎が多く、三菱と下谷上野の人々とどのような関係があって、言い伝えが残っていたのが解明できない。もう一度検証する必要がある。
築地の隣とも言うべき石川島に行ったため余分な資料調査がまた始まる。石川島監獄を明治17年3月の大潮のとき、脱獄した状況を調べることが石川島資料館に行く目的だったが、どうやらIHIの創業時の石川島造船所の最初の船(旭日丸 )の建造に関して浦賀奉行衆と何か関係がありそうだ。
 静岡県戸田は安政の津波で破壊されたロシア船の再建造、日本初の洋式帆船の建造地となっている。そこで働いていた7名の船大工と水戸藩の石川島造船所が関係がある。
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