TULIP DIARY

届くといいな やさしい風に乗って

牧歌の里その1

2022年05月15日 | 旅日記

5月6日、牧歌の里にやってきました。牧歌の里にはだいぶん前に来たことがあったので、久しぶりでした。

入口

この日は平日でしたが、ゴールデンウィーク中だったためか、多くの方々で賑わっていました。

園内を回るロードトレインが走っていました。

教会の前のチューリップ畑と近くを走っていたロードトレイン

白山連峰

教会前の芝桜がきれいでしたよ。

教会の中

素敵な景色に癒されてきました。

チューリップが咲いていた教会付近は坂道の上のほうだったので、ロードトレインが走っていた通路を後追いして、緩やかな勾配だった遠回りの通路を父を載せた車椅子を押しながら下りて行きました。

途中、水芭蕉がまだ咲き残っていた場所を通りました。

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

丘の上の賢人

2022年05月15日 | 読書日記

丘の上の賢人 原田マハ 著 集英社文庫

だいぶん前に読んでいた「旅屋おかえり」の続編です。だいぶん前に読んでいたので前作の内容は忘れてしまっていたのですが、少し前にNHKでドラマ化されていたのを見て、前作のことを思い出し、続編を読んでみたいと図書館で予約して読んだ小説でした。文庫なので字が小さくて読みずらいので拡大鏡を片手に後4日で返却しないといけないこともあり、1時間くらいで集中して読めました。原田マハさんの小説を読むと最初は読めるかなといつも思っていてもなぜか一気に読めてしまうので不思議でした。読者を一気に引き付ける書き方は作者の持ち味だったのかもしれません。

この本は、依頼人に代わり旅の代行をする主人公「おかえり」こと丘えりかが北海道の札幌と小樽を旅する物語。今回の依頼人は、東京に住む札幌出身の古澤めぐみというアクセサリーの制作や販売をしている会社の社長でもあった40歳の女性でした。札幌の丘の上で待ち続けるある男性の動画を偶然見ためぐみがその男性が元恋人の浜田純也ではないかと気になり出したことが今回の依頼のそもそものきっかけでした。めぐみの依頼は、浜田純也、小樽でお店をしている純也のお母さん、めぐみのお姉さんの3人の人たちに会ってきてほしいということでした。3人に会った丘えりかがが旅の成果物として持ち帰ったものが感動を呼ぶ結末になっていました。

登場人物すべてがみんなお互いを思い合う優しい人として描かれていたことやおかえり自身も実に心優しい人だったということが自然に伝わってきたお話になってました。こんな優しい人柄の人々を設定できる原田マハさんも優しいお人柄の方なんだろうなと思いました。めぐみと純也を繋いでいた赤いリボン、ビートルズの歌、イサム・ノグチ、フーコーなどのこの小説の背景に漂っている印象的な色や独特の景色やメロディーを身近に感じながら読み手も小説の中でおかえりと同じように旅をしているかのような気分で想像しながら読めました。旅好きの原田マハさんが実際に訪れて感じられたそのままのイメージが文章と溶け合いながら生き生きと具現化されていたからだったのでしょうとも思いました。

挿入されていた言葉のそれぞれの意味も感慨深かったです。たとえば、純也のお母さんの「自分の子どもが人生で一番やりたいことを実行しているのを親は嬉しいものよ。」とおかえりに言っていた言葉、「ふるさととはおかえりと言ってくれる人がいるところ。」とおかえりがのぞみに言っていた言葉です。ふるさととは場所だけでなく、その人との繋がりの中にある温かい心の中だったりするという言葉などがとても印象に残り、心に響きました。

人生で一番やりたいこと、自分の場合もできてなかったから親孝行ではなかったですし、このまま過ごしてこの世から去って行く時間も後残り少なくなってしまったなあなどと思いましたし、おかえりと言ってくれる人がだんだんいなくなってきたので心のふるさとがなくなってしまうのはホントに寂しいなあとも思いました。でも、この世からいなくなる日までの時間が少々残されている間はまだこれからできることもあったりするかもしれないでしょうと思っておくのが一番希望が持てる過ごし方だったですね。

この小説ではめぐみと純也の純愛の赤いリボンがちぎれそうになりながらも時を超えて繋がっていたというロマンティックな関係性がドラマティックに描かれていました。お互いがお互いを待ち続けることやお互いを思い合う切なさは二人だけにしかわからないような尊くて誰も入り込むことができない世界でもあって、待つという受動的な行為の中に潜む能動的な希望や夢を感じたほっこりできた小説でした。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ふるさととは

2022年05月15日 | ひとりごと

「丘の上の賢人」を読んで「ふるさと」の意味が掘り下げられていた下りがありました。

そのくだりは、130ページに、主に掲載されていました。このページには、

のぞみとおかえりの会話の中で「ふるさとって、おかえりさんにとってなんですか?生まれた場所のこと?」何気なくのぞみさんが訊いた。(中略)「『おかえり』と言ってくれる人がいるところ、かな」そう答えてから、自分の言ったことに、自分でどきっとしてしまった。そうだ。生まれた場所、実家があるところ、それもふるさとに違いない。けれど、おかえり、のひと言を言ってくれる誰かが待っている場所。それこそが、ほんとうのふるさとと言えるんじゃないか。だとしたら、私のふるさとは、礼文島だけじゃない。

と書かれています。

「ふるさと」は生まれ育った場所をイメージされるのが普遍的なのでしょうが、その場所でなくても、おかえりと温かく迎えてくれる誰かが待ってくれている場所がその人にとったら「ふるさと」であることもあるのだろうなあと思いました。「いってらっしゃい。」「おかえりなさい。」仕事に行き戻ってきた時、旅に出かけて帰ってきたときなど、この言葉はよく耳にします。それは、家族でなくてもいいし、その人にとっての大切な人であってもいいけれど、愛がこもった温かくて優しい言葉だったことに気が付きました。その人にとってこの言葉を投げ掛けてくれる人がいる場所が心の拠り所であり、生まれ育った場所である「ふるさと」と同じくらい大切な「ふるさと」でもあるということをこの小説の中のめぐみと純也の繋がり方から理解できました。

あとがきに瀧井朝世さんが書かれていた「旅をしてお気に入りの場所を見つければ見つけるほど、人はふるさとを増やして行く」と書かれていたのを読むとなるほどそうだよねと思いました。「深く馴染みのある場所だけがふるさとではないのだ。何度も訪れたい場所。懐かしい場所。恋しい場所。それらは、みんな、ある種のふるさとだ。」とも書かれていたのを読むとさらに納得できました。

おかえりは生まれ育った礼文島にひと肌上げてからしか帰れないとずっと思ってきたけれど、「丘の上の賢人」の中でクライアントの依頼を遂行して、生まれ故郷に帰れる日は近いのかなと思いました。礼文島に帰るときの続編がもし刊行されたらまた読んでみたいなあと思いました。

自分の場合、生まれた場所は今はもうない天王寺区上本町にあった病院だったそうで、当時住んでいた天王寺区にあった住まいや公園、商店街、神社、お風呂屋さん、駅、坂道の風景が今も思い出に残る第一の「ふるさと」なのかもしれません。子供の頃、日生球場の側に一時あった祖父宅や何度も連れて行ってもらった大阪城公園や母方の故郷の滋賀県日野町で駆け回っていた頃の景色も第二の「ふるさと」のひとつだったような気がします。私が何回も足を運ぶ場所、もう一度行きたいと思う場所は、家族や誰かと繋がっていたときの思い出がたくさん詰まった大切な場所でもありました。いつもおかえりと言って待ってくれていた大切な人々がいたからこその心の拠り所でもあった「ふるさと」がもっと輝いて見えていたということなのかもしれません。旅を重ねて行くと、いつのまにか何度も訪れていた場所が自分にとって、家族や大切な人々との繋がりがあったふるさとは違った意味での心の拠り所のひとつであるふるさとが増えていたのかあと思いました。

おかえりと迎えてくれる誰かがいるということはその人にとってなんとなくしあわせというのを通り超えたこの上ないしあわせな心の拠り所でもあるのでしょう。私自身はそのようなこの上ないしあわせを感じることはもうないかと想像しますが、なんとなくあわせという小さなしあわせが自分には似合っていたと思ってこれから穏やかに過ごして行けたらいいなあと思っています。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする