透明タペストリー

本や建築、火の見櫓、マンホール蓋など様々なものを素材に織り上げるタペストリー

和洋融合

2024-12-08 | A あれこれ

 浅間温泉に残る松門文庫? 知らないなぁ・・・。

今月(12月)3日に開催された講座に参加し、「松門文庫から紐解く松本の近代建築史」を聴いた。講師は信州大学准教授・梅干野成央氏、会場は松本市立博物館。


配布されたリーフレット(写真)に松門文庫のことが紹介されている。**浅間温泉の蚕種製造家、たまりやの二木 洵が、実父窪田畔夫の蒐集した書画等を広く公開するために、大正8年に建てた私設図書館(浅間温泉2丁目)**

松本には国宝の旧開智学校を始め、何件もの近代建築が現存している。近代建築に関する説明資料にはふたつの言葉「擬洋風」と「和洋折衷」がよく出てくる。このふたつの言葉はどう違うのだろう・・・。

手元にある旧開智学校のリーフレットには次のような説明文が載っている。なお、引用文の太文字化は私。
**地元松本の大工棟梁立石清重が設計・施工しました。和風と洋風が混ざりあった擬洋風の校舎は、(中略)当時の擬洋風建築の特徴をよく取り込んでいます。(後略)**

上記講座で資料として配布された講師・梅干野氏による松門文庫の解説文には次のような記述がある。
**建物は、木造二階建て、張間7272mm(24尺)、桁行10908mm(36尺)の規模である。和洋折衷の意匠で、建設年は大正8年と伝えられている。**
**和洋折衷の意匠における初期の形式として擬洋風があるが、とりわけ明治9年に大工棟梁の立石清重によってたてられた開智学校はその代表例といえよう。**


トラスのようでトラスではない火の見櫓の脚をぼくは「トラスもどき」と名付けた。もどきの漢字表記は擬き。擬洋風建築は洋風に倣ってつくろうとしたものの、入手困難な建築材料があったり、工法上の制約があったりで、洋風のようで洋風ではない擬洋風としてしか実現できなかったという事情があるのでは。このような建築事情を踏まえ、積極的に、意図的に和風と洋風を融合させた建築をつくろうとしたということではないか。


あくまでも西洋風の建築をつくる、という意志を貫こうとしたのであれば、西洋のエンジェルと東洋の竜などという組合せをするはずがないではないか。

ぼくは擬洋風建築の擬にはネガティブなイメージもあるのであまり好きではない。和洋折衷ということばも好きではない。折衷は妥協というイメージを伴っているし、折衷案といことばがあるが、良いとこどりには新たなデザインとしてこなれていないというイメージが私にはあるので。

旧開智学校校舎はあんパンと同じように和と洋の融合だ。写真を見る限り、松門文庫然り。和の技術と材料を用いて実現した、そう、和洋融合建築だ。