ある牧師から

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コヘレトの言葉12章1~5節

2021年06月30日 | 聖書

教会の聖書日課に基づいて、コヘレトの言葉12章を読みます。


12:1 青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。「年を重ねることに喜びはない」と、言う年齢にならないうちに。2 太陽が闇に変わらないうちに。月や星の光がうせないうちに。雨の後にまた雲が戻って来ないうちに。3 その日には、家を守る男も震え、力ある男も身を屈める。粉ひく女の数は減って行き、失われ、窓から眺める女の目はかすむ。4 通りでは門が閉ざされ、粉ひく音はやむ。鳥の声に起き上がっても、歌の節は低くなる。5 人は高いところを恐れ、道にはおののきがある。アーモンドの花は咲き、いなごは重荷を負い、アビヨナは実をつける。人は永遠の家へ去り、泣き手は町を巡る。


人生はいつまでも若き日であるわけではありません。「身をかがめ、目がかすむ」(12:3)老年の日が来るのです。「通りでは門が閉ざされ、粉ひく音はやむ。鳥の声に起き上がっても、歌の節は低くなる。人は高いところを恐れ、道にはおののきがある。アーモンドの花は咲き、いなごは重荷を負い、アビヨナは実をつける」(4~5ab節)。これらはすべて老年の日を表現したのです。

そしてついには「人は永遠の家に去る」(5c節)のです。永遠の家とは墓のことであり、これは死を意味しています。3章2節に「生まれる時、死ぬ時」とあり、人生という「時間(ゼマーン )」が示されていましたが、その終焉(しゅうえん)が訪れたわけです。

12章5節にはさらに、「泣き手は町を巡る」とあります。泣き手とは、葬儀の時に職業として泣く者といわれますが、彼らは町を巡るとあります。この「巡る」は、1章6節に「風は南に向かい北へ巡り、めぐり巡って吹き、風はただ巡りつつ、吹き続ける」とありました「巡る」と同じ言葉です。両者がインクルージオによる対の語であるとすると、町を巡る泣き手たちとは、「巡り続ける残された人たち」と取ることができます。一人の人生が死で終っても、生命(いのち)は無限に巡り続いていくわけです。

わたしたちを造られた神よ、
若い季節(とき)に知った。
あなたのみ名は すばらしい。

わたしたちを担われるイェスよ、
巡る季節(とき)に知った。
あなたの愛は かわらない。

(『讃美歌21』549番より)

コヘレトから作られた讃美歌です。ここに「巡る季節(とき)に知った」とあります。人の一生は、太陽の下の無限の中での、「巡る季節(とき)」なのです。

そして、このように「無限」の中で与えられた「人生」という「時間」において、「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ」(12:1)と、「無限」より高次元の「永遠」の神とつながることが説かれているように思えます(冒頭の讃美歌も参照してください)。「神を畏れ、その戒めを守れ」(13節)と、この書が結論付けられていることも同じであろうと思います。コヘレトは冷笑家です。そのコヘレトにとって、「太陽の下」と表される「無限」は、空しいものなのです。しかし、その空しい「無限」の中で、「永遠なる神」とつながって生きていくことは、空しいことではないのです。

*クリスチャントゥデイの拙コラム「コヘレト書を読む」をお読みいただければ幸いです。

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