※本稿は、『一遍会報』440号、2022年3月発行に掲載した原稿である。
『梁塵秘抄』に見る「四国辺地(辺道)」
大本敬久
一、『梁塵秘抄』の伝本の過程
『梁塵秘抄』は一二世紀末に後白河上皇が撰集した歌謡集である。当時の流行歌である「今様」が五六六首も集成され、全二〇巻で構成されている。しかし、現存するのは巻一の巻頭部分と、巻二の全体などごく一部しかない。
この『梁塵秘抄』の原本は失われているが、それだけではなく鎌倉から室町時代にかけての写本や刊本も確認することができない。平安時代成立の同じ歌集でも『古今和歌集』や『和漢朗詠集』などとは異なり、平安時代以降の歌人、文人(例えば藤原定家や三条西実隆など)によって書写されて、それが広まることで多くの者が目にするという機会に恵まれなかった作品である。このような伝本状況であったため、江戸時代の国学、歌学(例えば賀茂真淵や本居宣長など)の世界でも『梁塵秘抄』が取り上げられることはなかった。
『梁塵秘抄』が世間で注目されるようになるのは明治時代末期以降。文学史上で見れば、ごく最近のことである。皇典講究所で『古事類苑』の編集にたずさわり、東京帝国大学文学部史料編纂掛に奉職して『大日本史料』の編纂などを行った和田英松が、明治四四年(一九一一)に、『梁塵秘抄』巻二を発見したのである。これは、中世以降、世に知られる唯一の伝本とされ、大きな発見となった。この和田が発見した巻二は、江戸時代後期の書写であり、時代としては比較的新しい。『梁塵秘抄』の伝本は全く存在しなかったのではなく、多くの歌人、文人に注目される形ではなく、細々と書写され続けていたのだろう。和田発見の巻二の蔵書印によれば、越後国(現新潟県)高田の室直助、そして邨岡良弼が旧蔵していたものであったことがわかる。京都や奈良等の学者、公卿や神職たちが形成した古典籍のコレクションから見つけられたものではなかった。
邨岡良弼は、下総国(現千葉県)の出身で、安政5年(1858)から江戸で昌平坂学問所に学び、明治2年(1869)には大学校明法科で律令を学び、明治政府の法制官僚として活躍した人物である。明治25年には官職を退き、旧水戸藩主徳川篤敬に徳川光圀『大日本史』の纂訂を依頼されるなど、古代の史料に精通していた。巻二には「越後国頸城郡高田室直助平千寿所蔵」とあり、越後高田藩の旧家に伝わったものを邨岡良弼が入手したものであろう。高田の室直助について詳細は不明であり、越後高田藩は酒井家、久松松平家、稲葉家など、藩主が頻繁に交替していることから、伝本の過程を推定することも難しい。どのように書写され、伝わったのかを明らかにすることは困難である。
しかし、この和田による巻二の発見から間もなく、大正元年(1912)に佐佐木信綱がこれを「天下の孤本」として刊行し、広く知られるようになった。大正年間に巻二は、和田から佐佐木(竹柏園文庫)に譲られ、そして戦後まもなく天理図書館に移って保管されることになり、現在に到っている。
巻二は、袋綴の二冊で、仏教語などには漢字を多用するものの、大部分の表記は平仮名で表記されている。あて字や誤字もありで、意味のとりにくい箇所も多く、その後の翻刻、刊行でも執筆者、注釈者によって、解釈が異なっていることも各所に見られる。現在、主な活字本に『新編日本古典文学全集』(小学館)、『新日本古典文学大系』(岩波書店)があり、それらが用いられることが多いが、それぞれ、校訂本文が異なるという問題点があり、『梁塵秘抄』を用いて研究を行うのであれば、和田発見の巻二(現在、天理図書館蔵)を影印本などで原典確認する必要があるだろう。幸い、昭和23年(1948)に佐佐木信綱が『原本複製 梁塵秘抄』を好学社から刊行しており、影印を実際に見ることができる(ただし、愛媛県内の公共図書館では本書の蔵書は無い。筆者はかつて神田の古書店にて二、三千円で購入し、持参している)。
二、『梁塵秘抄』と「しこくのへち」
さて、『梁塵秘抄』が頻繁に取り上げられるテーマの一つに「四国遍路の成立」がある。四国遍路の明確な起源は不詳であるが、すでに平安時代末期にはその素地ができていたいわれ、『今昔物語集』巻三十一の「四国の辺地と云は、伊予讃岐阿波土佐の海辺の廻也」の記述や『梁塵秘抄』の今様が紹介されることが多い。『愛媛県史』民俗編下によると、『今昔物語集』には、仏道修行する僧たちが歩いた伊予、讃岐、阿波、土佐の海辺の道を「四国の辺地」と称していたことが知られると紹介した上で「その様子をさらに具体的に示しているのが後白河上皇が集成した俗謡集『梁塵秘抄』である。我等が修行せしやうは、忍辱袈裟を肩に掛け、又笈を負ひ、衣はいつとなくしほたれて、四国の辺地をぞ常にふむ、とある。忍辱袈裟を肩に掛け、又笈を負うて、四国の辺地を踏む修行僧たちがいたのである」と紹介される。
現代語訳してみると、私が修行をした有様を申そうならば、まずは忍辱(侮辱や迫害を受けても耐え忍ぶ意を袈裟に例える)の意思を示す袈裟を肩に掛け、笈を背負い、衣はいつとなく潮の香が染みつくという、そんな風体で四国の海辺をいつも踏み歩いている、という意味になろう。
それでは、先項で指摘したように、本文が刊行物によって異なり、原典(影印本)を確認する必要があることから、この今様についても、確認してみたい。
所蔵は天理図書館であり、この旧竹柏園文庫本が掲載されている『梁塵秘抄 原本複製』で書影から翻刻すると、次のようになる。
〇われらか修行せしやうは、にんにくけさをはかたにかけ、またおいをゝひ、ころもは
いつとなくしほたれて、しこくのへちをそつねにふん、
そして、ここに登場する「しこく」に「四国」と漢字ルビが付されている。『県史』で紹介されたような漢字交じりの文章ではなく、基本はかな表記である。『県史』では「忍辱袈裟」、「辺地」とあるが、「にんにくけさ」、「へち」としか記されていない。
そもそも小学館全集、岩波大系も本文は監修者によって校訂されて、漢字交じりに変換された上で、掲載されている。この校訂本文があたかも原本に記されたものとして引用し、研究、解釈に用いられることも多く見られるが、校訂の過程を確認しておくことは必須であろう。
それでは、小学館全集(265頁)ではどのような本文となっているか、見てみたい。
われらが修行せし様は 忍辱袈裟をば肩に掛け また笈を負ひ 衣はいつとなくしほたれて 四国の辺地をぞ常に踏む
このような表記となっており、「しこくのへち」を「四国の辺地」と表記しているが、次に岩波大系(86頁)では、
我等が修行せし様は、忍辱袈裟をば肩に掛け、又笈を負ひ、衣は何時となく潮垂れて、四国の辺道をぞ常に踏ん、
となっており、小学館全集では「四国の辺地」であるところを、岩波大系では「四国の辺道」となっている。「しほたれて」も岩波全集では「潮垂れて」と漢字表記としている。このような本文を校訂した上で掲載する事は一般的ではあるのだが、「しこくのへち」について現代の注釈者によって「四国の辺地」とするのか「四国の辺道」とするのかは、四国遍路の歴史、起源にも関わってくる。「辺地」であれば、辺境の広いエリアを指し、四国の海辺を巡る修行僧がいた、という解釈になるが、「辺道」となるとエリアではなく「道」というラインになってくる。平安時代末期には四国の周縁に、修行僧が歩く特定の「道」、いわば後世の遍路道のようなものが形成されていたと捉えられかねない。
筆者は『梁塵秘抄』とほぼ同時代成立の『今昔物語集』に「四国の辺地」と表記されていることから、「辺地」が適当であり、修行僧が通る特定の道が成立していたとは考えにくく、「辺道」は採用しない立場をとりたい。
なお、この「しこくのへち」について、川岡勉氏は「もともと四国は、早くから遍歴や巡礼を重ねる僧侶の仏道修行地であった。(中略)十二世紀に流行った今様という歌謡を集めた『梁塵秘抄』には(中略)という歌が収録されており、ここでも「四国の辺地」を踏む修行者たちの存在が読み取れる。衣が潮垂れるという表現からは、やはり海辺を巡り歩いていた様子がうかがえる」(『四国遍路の世界』筑摩書房、14~15頁)とあり、また、西耕生氏は「『今昔物語集』(平安後期の説話集)や『梁塵秘抄』(平安末期の歌謡集)と、先の中世資料(註:『醍醐寺文書』、『南无阿弥陀仏作善集』)の記述とを合わせれば「四国辺路/四国辺地/四国ノ辺」はいずれも、「しこくのへち」と呼ばれる霊地をさまざまに記した表現と考えてよい。「しこくのへち」は主として「四国の海岸」をさす語である(小西甚一『梁塵秘抄考』三省堂、一九四一)。ただし、大峰・葛城「両山」との並称によって固有の地名とまで考えることには、なお慎重でなければならない。なぜなら「へち」は、四国だけに限定して用いられる語ではないからである。」(『四国遍路の世界』筑摩書房、32~33頁)と述べており、漢字表記するなら「辺地」が適当であり、しかも「へち(辺地)」が四国のどこかの特定の場所を示すのではなく、一般語彙としてとらえるべきであろう。
古代の歴史や文学に関する文献を引用、活用する上では、辞書や全集本などの現代で「権威」的に扱われる基本書も、実は校訂作業を経て、本文を掲載しているのが一般的であり、我々は、その校訂作業を無視して、そのまま活字本文のみを使い続けることになると、相互の研究の過程で齟齬や誤解が生まれかねない。テキストの扱いに関する基本的姿勢を今一度、再認識すべきであろう。
【参考】「しこくのへち」(四国辺地)に関する先行研究
西耕生「『四国辺地』覚書―和語『へち』. の周辺―」『愛媛国文研究』五二号、二〇〇二年
寺内浩「平安時代の四国遍路-辺路修行をめぐって‐」『愛媛大学法文学部愛媛大学法文学部論集』一七号、二〇〇四年
寺内浩「古代の四国遍路」四国遍路と世界の巡礼研究会編『四国遍路と世界の巡礼』法蔵館、二〇〇七年
武田和昭『四国辺路の形成過程』岩田書院、二〇一二年
川岡勉「中世の四国遍路と高野参詣」愛媛大学「四国遍路と世界の巡礼」研究会編『巡礼の歴史と現在-四国遍路と世界の巡礼-』岩田書院、二〇一三年
胡光「山岳信仰と四国遍路」四国地域史研究連絡協議会編『四国遍路と山岳信仰』岩田書院、二〇一四年
武田和昭『四国へんろの歴史』美巧社、二〇一六年
長谷川賢二「四国遍路の形成と修験道・山伏」愛媛大学法文学部附属四国遍路・世界の巡礼研究センター『四国遍路と世界の巡礼』三号、二〇一八年
「四国八十八箇所霊場と遍路道」 世界遺産登録推進協議会「【参考】四国遍路関連史料」、二〇一九年
川岡勉「四国八十八ヶ所の成立」愛媛大学四国遍路・世界の巡礼研究センター『四国遍路の世界』筑摩書房、二〇二〇年
西耕生「四国遍路と古典文学」愛媛大学四国遍路・世界の巡礼研究センター『四国遍路の世界』筑摩書房、二〇二〇年
『梁塵秘抄』に見る「四国辺地(辺道)」
大本敬久
一、『梁塵秘抄』の伝本の過程
『梁塵秘抄』は一二世紀末に後白河上皇が撰集した歌謡集である。当時の流行歌である「今様」が五六六首も集成され、全二〇巻で構成されている。しかし、現存するのは巻一の巻頭部分と、巻二の全体などごく一部しかない。
この『梁塵秘抄』の原本は失われているが、それだけではなく鎌倉から室町時代にかけての写本や刊本も確認することができない。平安時代成立の同じ歌集でも『古今和歌集』や『和漢朗詠集』などとは異なり、平安時代以降の歌人、文人(例えば藤原定家や三条西実隆など)によって書写されて、それが広まることで多くの者が目にするという機会に恵まれなかった作品である。このような伝本状況であったため、江戸時代の国学、歌学(例えば賀茂真淵や本居宣長など)の世界でも『梁塵秘抄』が取り上げられることはなかった。
『梁塵秘抄』が世間で注目されるようになるのは明治時代末期以降。文学史上で見れば、ごく最近のことである。皇典講究所で『古事類苑』の編集にたずさわり、東京帝国大学文学部史料編纂掛に奉職して『大日本史料』の編纂などを行った和田英松が、明治四四年(一九一一)に、『梁塵秘抄』巻二を発見したのである。これは、中世以降、世に知られる唯一の伝本とされ、大きな発見となった。この和田が発見した巻二は、江戸時代後期の書写であり、時代としては比較的新しい。『梁塵秘抄』の伝本は全く存在しなかったのではなく、多くの歌人、文人に注目される形ではなく、細々と書写され続けていたのだろう。和田発見の巻二の蔵書印によれば、越後国(現新潟県)高田の室直助、そして邨岡良弼が旧蔵していたものであったことがわかる。京都や奈良等の学者、公卿や神職たちが形成した古典籍のコレクションから見つけられたものではなかった。
邨岡良弼は、下総国(現千葉県)の出身で、安政5年(1858)から江戸で昌平坂学問所に学び、明治2年(1869)には大学校明法科で律令を学び、明治政府の法制官僚として活躍した人物である。明治25年には官職を退き、旧水戸藩主徳川篤敬に徳川光圀『大日本史』の纂訂を依頼されるなど、古代の史料に精通していた。巻二には「越後国頸城郡高田室直助平千寿所蔵」とあり、越後高田藩の旧家に伝わったものを邨岡良弼が入手したものであろう。高田の室直助について詳細は不明であり、越後高田藩は酒井家、久松松平家、稲葉家など、藩主が頻繁に交替していることから、伝本の過程を推定することも難しい。どのように書写され、伝わったのかを明らかにすることは困難である。
しかし、この和田による巻二の発見から間もなく、大正元年(1912)に佐佐木信綱がこれを「天下の孤本」として刊行し、広く知られるようになった。大正年間に巻二は、和田から佐佐木(竹柏園文庫)に譲られ、そして戦後まもなく天理図書館に移って保管されることになり、現在に到っている。
巻二は、袋綴の二冊で、仏教語などには漢字を多用するものの、大部分の表記は平仮名で表記されている。あて字や誤字もありで、意味のとりにくい箇所も多く、その後の翻刻、刊行でも執筆者、注釈者によって、解釈が異なっていることも各所に見られる。現在、主な活字本に『新編日本古典文学全集』(小学館)、『新日本古典文学大系』(岩波書店)があり、それらが用いられることが多いが、それぞれ、校訂本文が異なるという問題点があり、『梁塵秘抄』を用いて研究を行うのであれば、和田発見の巻二(現在、天理図書館蔵)を影印本などで原典確認する必要があるだろう。幸い、昭和23年(1948)に佐佐木信綱が『原本複製 梁塵秘抄』を好学社から刊行しており、影印を実際に見ることができる(ただし、愛媛県内の公共図書館では本書の蔵書は無い。筆者はかつて神田の古書店にて二、三千円で購入し、持参している)。
二、『梁塵秘抄』と「しこくのへち」
さて、『梁塵秘抄』が頻繁に取り上げられるテーマの一つに「四国遍路の成立」がある。四国遍路の明確な起源は不詳であるが、すでに平安時代末期にはその素地ができていたいわれ、『今昔物語集』巻三十一の「四国の辺地と云は、伊予讃岐阿波土佐の海辺の廻也」の記述や『梁塵秘抄』の今様が紹介されることが多い。『愛媛県史』民俗編下によると、『今昔物語集』には、仏道修行する僧たちが歩いた伊予、讃岐、阿波、土佐の海辺の道を「四国の辺地」と称していたことが知られると紹介した上で「その様子をさらに具体的に示しているのが後白河上皇が集成した俗謡集『梁塵秘抄』である。我等が修行せしやうは、忍辱袈裟を肩に掛け、又笈を負ひ、衣はいつとなくしほたれて、四国の辺地をぞ常にふむ、とある。忍辱袈裟を肩に掛け、又笈を負うて、四国の辺地を踏む修行僧たちがいたのである」と紹介される。
現代語訳してみると、私が修行をした有様を申そうならば、まずは忍辱(侮辱や迫害を受けても耐え忍ぶ意を袈裟に例える)の意思を示す袈裟を肩に掛け、笈を背負い、衣はいつとなく潮の香が染みつくという、そんな風体で四国の海辺をいつも踏み歩いている、という意味になろう。
それでは、先項で指摘したように、本文が刊行物によって異なり、原典(影印本)を確認する必要があることから、この今様についても、確認してみたい。
所蔵は天理図書館であり、この旧竹柏園文庫本が掲載されている『梁塵秘抄 原本複製』で書影から翻刻すると、次のようになる。
〇われらか修行せしやうは、にんにくけさをはかたにかけ、またおいをゝひ、ころもは
いつとなくしほたれて、しこくのへちをそつねにふん、
そして、ここに登場する「しこく」に「四国」と漢字ルビが付されている。『県史』で紹介されたような漢字交じりの文章ではなく、基本はかな表記である。『県史』では「忍辱袈裟」、「辺地」とあるが、「にんにくけさ」、「へち」としか記されていない。
そもそも小学館全集、岩波大系も本文は監修者によって校訂されて、漢字交じりに変換された上で、掲載されている。この校訂本文があたかも原本に記されたものとして引用し、研究、解釈に用いられることも多く見られるが、校訂の過程を確認しておくことは必須であろう。
それでは、小学館全集(265頁)ではどのような本文となっているか、見てみたい。
われらが修行せし様は 忍辱袈裟をば肩に掛け また笈を負ひ 衣はいつとなくしほたれて 四国の辺地をぞ常に踏む
このような表記となっており、「しこくのへち」を「四国の辺地」と表記しているが、次に岩波大系(86頁)では、
我等が修行せし様は、忍辱袈裟をば肩に掛け、又笈を負ひ、衣は何時となく潮垂れて、四国の辺道をぞ常に踏ん、
となっており、小学館全集では「四国の辺地」であるところを、岩波大系では「四国の辺道」となっている。「しほたれて」も岩波全集では「潮垂れて」と漢字表記としている。このような本文を校訂した上で掲載する事は一般的ではあるのだが、「しこくのへち」について現代の注釈者によって「四国の辺地」とするのか「四国の辺道」とするのかは、四国遍路の歴史、起源にも関わってくる。「辺地」であれば、辺境の広いエリアを指し、四国の海辺を巡る修行僧がいた、という解釈になるが、「辺道」となるとエリアではなく「道」というラインになってくる。平安時代末期には四国の周縁に、修行僧が歩く特定の「道」、いわば後世の遍路道のようなものが形成されていたと捉えられかねない。
筆者は『梁塵秘抄』とほぼ同時代成立の『今昔物語集』に「四国の辺地」と表記されていることから、「辺地」が適当であり、修行僧が通る特定の道が成立していたとは考えにくく、「辺道」は採用しない立場をとりたい。
なお、この「しこくのへち」について、川岡勉氏は「もともと四国は、早くから遍歴や巡礼を重ねる僧侶の仏道修行地であった。(中略)十二世紀に流行った今様という歌謡を集めた『梁塵秘抄』には(中略)という歌が収録されており、ここでも「四国の辺地」を踏む修行者たちの存在が読み取れる。衣が潮垂れるという表現からは、やはり海辺を巡り歩いていた様子がうかがえる」(『四国遍路の世界』筑摩書房、14~15頁)とあり、また、西耕生氏は「『今昔物語集』(平安後期の説話集)や『梁塵秘抄』(平安末期の歌謡集)と、先の中世資料(註:『醍醐寺文書』、『南无阿弥陀仏作善集』)の記述とを合わせれば「四国辺路/四国辺地/四国ノ辺」はいずれも、「しこくのへち」と呼ばれる霊地をさまざまに記した表現と考えてよい。「しこくのへち」は主として「四国の海岸」をさす語である(小西甚一『梁塵秘抄考』三省堂、一九四一)。ただし、大峰・葛城「両山」との並称によって固有の地名とまで考えることには、なお慎重でなければならない。なぜなら「へち」は、四国だけに限定して用いられる語ではないからである。」(『四国遍路の世界』筑摩書房、32~33頁)と述べており、漢字表記するなら「辺地」が適当であり、しかも「へち(辺地)」が四国のどこかの特定の場所を示すのではなく、一般語彙としてとらえるべきであろう。
古代の歴史や文学に関する文献を引用、活用する上では、辞書や全集本などの現代で「権威」的に扱われる基本書も、実は校訂作業を経て、本文を掲載しているのが一般的であり、我々は、その校訂作業を無視して、そのまま活字本文のみを使い続けることになると、相互の研究の過程で齟齬や誤解が生まれかねない。テキストの扱いに関する基本的姿勢を今一度、再認識すべきであろう。
【参考】「しこくのへち」(四国辺地)に関する先行研究
西耕生「『四国辺地』覚書―和語『へち』. の周辺―」『愛媛国文研究』五二号、二〇〇二年
寺内浩「平安時代の四国遍路-辺路修行をめぐって‐」『愛媛大学法文学部愛媛大学法文学部論集』一七号、二〇〇四年
寺内浩「古代の四国遍路」四国遍路と世界の巡礼研究会編『四国遍路と世界の巡礼』法蔵館、二〇〇七年
武田和昭『四国辺路の形成過程』岩田書院、二〇一二年
川岡勉「中世の四国遍路と高野参詣」愛媛大学「四国遍路と世界の巡礼」研究会編『巡礼の歴史と現在-四国遍路と世界の巡礼-』岩田書院、二〇一三年
胡光「山岳信仰と四国遍路」四国地域史研究連絡協議会編『四国遍路と山岳信仰』岩田書院、二〇一四年
武田和昭『四国へんろの歴史』美巧社、二〇一六年
長谷川賢二「四国遍路の形成と修験道・山伏」愛媛大学法文学部附属四国遍路・世界の巡礼研究センター『四国遍路と世界の巡礼』三号、二〇一八年
「四国八十八箇所霊場と遍路道」 世界遺産登録推進協議会「【参考】四国遍路関連史料」、二〇一九年
川岡勉「四国八十八ヶ所の成立」愛媛大学四国遍路・世界の巡礼研究センター『四国遍路の世界』筑摩書房、二〇二〇年
西耕生「四国遍路と古典文学」愛媛大学四国遍路・世界の巡礼研究センター『四国遍路の世界』筑摩書房、二〇二〇年