疱瘡の民俗
疱瘡(ほうそう)とは天然痘のことで、感染性が強く、人々に最も恐れられてきた疫病である。幕末から明治時代にかけて宇和島藩領内では種痘が広く普及し、次第に天然痘の発生が少なくなり、現在では撲滅されたとされているが、疱瘡に対する人々の恐怖心は消滅わけではなく、八幡浜各地の民俗にその痕跡を垣間見ることができる。
例えば、中津川のダイミョウジ山に疱瘡神が祀られた祠がある。かつて疱瘡が流行して、それを鎮めるために祀られたといわれるものである。ご神体は現在は田中山大元神社に合祀されているが、かつて、神社の脇にある小山に普段は祀られていた。そして春祭りになると、神社総代と地区の子供(家の長男)が、疱瘡神のご神体を移した神輿を担いで、ダイミョウジ山の祠に持っていって供物を奉納したという。これは戦後間もなくまで行われていた。
この行事は、疱瘡自体を、疫病をもたらす神に見立てて、毎年、村内から村境の山へ神送りの形式で送り出すという儀礼といえる。恐ろしい疱瘡を神として祀り上げることによって、鎮めようとする心意が働いたもので、これは、祟りをなす者を神に祀り上げることにも共通する事例である。
そもそも、八幡浜地方にて疱瘡(天然痘)が発生・流行したのは、『八幡浜市誌』に引用されている「二宮庄屋記」によると、安永二(一七七三)年に「疱瘡、麻疹流行に付、死者夥(おびただし)く有之」、また、弘化二(一八四五)年に「正月より十二月迄、疱疹流行、真網代に死者四十三人」とあり、二回の流行が確認されている。また、『大成郡録』によると、宝暦年間(一七五〇年頃)に八幡浜浦(現八幡浜市中心部)で祀られていた神に「疱瘡神」が含まれており、これ以前にも八幡浜において疱瘡の流行があったと思われる。
なお、現在でも疱瘡神を祀っている神社が谷にある。谷の氏神である宮鷺神社である。創立年代は不詳だが、明治四十二(一九〇九)年に一宮神社と青鷺神社が合祀されたもので、この青鷺神社が疱瘡神として祀り上げられたものである。疱瘡などの流行病に効験があるとされ、『双岩村誌』にも「大峠(谷)に有名なる疱瘡の神、青鷺神社の鎮座し、疱瘡の神として崇敬が厚い」とある。
疱瘡が流行した際に、それを鎮めるために人々は祀り上げて病を神へと転換させているが、一度祀り上げられると、それが逆に病除けの効験を持つという人々に福をもたらす神になっているのが興味深い。このような神の生成過程は、医療の未発達な時代に、人々が恐ろしきものから自らの生活を防御するための方策であり、民俗の知恵であったといえるのでないだろうか。
2001/05/17 南海日日新聞掲載
疱瘡(ほうそう)とは天然痘のことで、感染性が強く、人々に最も恐れられてきた疫病である。幕末から明治時代にかけて宇和島藩領内では種痘が広く普及し、次第に天然痘の発生が少なくなり、現在では撲滅されたとされているが、疱瘡に対する人々の恐怖心は消滅わけではなく、八幡浜各地の民俗にその痕跡を垣間見ることができる。
例えば、中津川のダイミョウジ山に疱瘡神が祀られた祠がある。かつて疱瘡が流行して、それを鎮めるために祀られたといわれるものである。ご神体は現在は田中山大元神社に合祀されているが、かつて、神社の脇にある小山に普段は祀られていた。そして春祭りになると、神社総代と地区の子供(家の長男)が、疱瘡神のご神体を移した神輿を担いで、ダイミョウジ山の祠に持っていって供物を奉納したという。これは戦後間もなくまで行われていた。
この行事は、疱瘡自体を、疫病をもたらす神に見立てて、毎年、村内から村境の山へ神送りの形式で送り出すという儀礼といえる。恐ろしい疱瘡を神として祀り上げることによって、鎮めようとする心意が働いたもので、これは、祟りをなす者を神に祀り上げることにも共通する事例である。
そもそも、八幡浜地方にて疱瘡(天然痘)が発生・流行したのは、『八幡浜市誌』に引用されている「二宮庄屋記」によると、安永二(一七七三)年に「疱瘡、麻疹流行に付、死者夥(おびただし)く有之」、また、弘化二(一八四五)年に「正月より十二月迄、疱疹流行、真網代に死者四十三人」とあり、二回の流行が確認されている。また、『大成郡録』によると、宝暦年間(一七五〇年頃)に八幡浜浦(現八幡浜市中心部)で祀られていた神に「疱瘡神」が含まれており、これ以前にも八幡浜において疱瘡の流行があったと思われる。
なお、現在でも疱瘡神を祀っている神社が谷にある。谷の氏神である宮鷺神社である。創立年代は不詳だが、明治四十二(一九〇九)年に一宮神社と青鷺神社が合祀されたもので、この青鷺神社が疱瘡神として祀り上げられたものである。疱瘡などの流行病に効験があるとされ、『双岩村誌』にも「大峠(谷)に有名なる疱瘡の神、青鷺神社の鎮座し、疱瘡の神として崇敬が厚い」とある。
疱瘡が流行した際に、それを鎮めるために人々は祀り上げて病を神へと転換させているが、一度祀り上げられると、それが逆に病除けの効験を持つという人々に福をもたらす神になっているのが興味深い。このような神の生成過程は、医療の未発達な時代に、人々が恐ろしきものから自らの生活を防御するための方策であり、民俗の知恵であったといえるのでないだろうか。
2001/05/17 南海日日新聞掲載