コメント
本人曰く「運命の日」だった
(
吉法師
)
2011-07-31 01:17:10
この所多忙ですっかりこちらにはご無沙汰してしまいました。
数年前、とあるボクシング好きの集いで、小林弘さんご本人を囲んでお話を伺う機会があり、私も参加していろいろとお話をお伺いしました。小林さん曰く、あのマルカノとの試合は、あの日、あの地で負ける、という運命だった、そうとしか思えなかった、との事でした。
夏の盛りの防衛戦、北国・青森ならば少しは涼しかろう、と考えて場所を選んだら、試合当日は当地では記録的な猛暑となり、会場の体育館には雪国ゆえに窓が少なく、控え室は蒸し風呂状態。直前まで調整に滞在した八甲田山麓・雲谷高原が涼しく快適だっただけにギャップが大きく「早く勝負を決めないと、自分の体力が持たない」と勝負に出たら、めったにスタンディングカウントなど取らない吉田勇作レフェリーが、グロッギー状態のマルカノからスタンディングカウントを取って(試合後、吉田レフェリーが「ごめん、カウント入れるのが早すぎた」と詫びを入れてきたそうです)、結果的に一息付かせる事になり、詰めに掛かってガードが甘くなった所に、逆転の右アッパーを喰ってしまった、あの後はもう夢の中でしたねえ。と語って下さいました。
そもそも、この試合元々は、小林さんの限界を感じ取っていた中村会長の意向としては、当時J・ライト級のホープとして注目されていた岩田健二選手との日本人対決を組み、たとえ負けても同国人に王座を譲りたかったらしいのですが、交渉がまとまらず、代役として挑戦者に選ばれたのが、アルフレッド・マルカノで、それも小林さんの防衛戦の相手では初めてランキング3位以下の選手だった、と言うあたりも、なにやら因縁めいて聞こえてきます。
最後のデュランとの試合は、新婚旅行の機会が無かった小林夫妻に対し、中村会長が二人で行って来い、とセコンドは現地で付けさせる契約で送り出したのだそうで「中南米で技術を磨いて、世界ランキングを手に入れたのだから、向こうにランキングを返しに行ったようなものですよ」とは小林さんの談。当地での歓迎振りはほとんど国賓待遇だったそうで、街中でも現地の人々から「コバヤチー!」と歓待され、世界チャンピオンって、これほどのステータスだったんだなあ、と改めて感慨深かったそうです。デュランもそのあたりは充分に感じ取っていたのでしょうね。
上記の内容は、この春に出版された小林さんの評伝「1967クロスカウンター(太田出版・菅淳一 著)」にも、詳しく書かれています。未読でしたら是非ご一読されることをお勧めします。
Unknown
(
屯田兵
)
2011-07-31 02:14:38
世界チャンピオンって、これほどのステータスだったんだなあ、と改めて感慨深かったそうです。デュランもそのあたりは充分に感じ取っていたのでしょうね。
そうなんですよ 世界残念ながら獲れなかった矢尾板さんよりボンクラ兄弟や●●●司の方が上なんて納得いかないすよ●●なんて誰も知らないでしょマニアじゃないと
書き込み御礼&レス
(
こーじ
)
2011-07-31 23:47:09
>吉法師様
なるほど、そういう事情があったのですね。
1967クロスカウンターは読んで見たいと思っていたのですけど、これで いよいよ読みたくなりましたよ。
もう少しマスコミも小林弘の事を重要視して欲しいものです。
>屯田兵様
当時は本当に世界王者のステイタスが高かったというのが分かります。
だから某兄弟など当時の東洋王者以下でしょう。
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数年前、とあるボクシング好きの集いで、小林弘さんご本人を囲んでお話を伺う機会があり、私も参加していろいろとお話をお伺いしました。小林さん曰く、あのマルカノとの試合は、あの日、あの地で負ける、という運命だった、そうとしか思えなかった、との事でした。
夏の盛りの防衛戦、北国・青森ならば少しは涼しかろう、と考えて場所を選んだら、試合当日は当地では記録的な猛暑となり、会場の体育館には雪国ゆえに窓が少なく、控え室は蒸し風呂状態。直前まで調整に滞在した八甲田山麓・雲谷高原が涼しく快適だっただけにギャップが大きく「早く勝負を決めないと、自分の体力が持たない」と勝負に出たら、めったにスタンディングカウントなど取らない吉田勇作レフェリーが、グロッギー状態のマルカノからスタンディングカウントを取って(試合後、吉田レフェリーが「ごめん、カウント入れるのが早すぎた」と詫びを入れてきたそうです)、結果的に一息付かせる事になり、詰めに掛かってガードが甘くなった所に、逆転の右アッパーを喰ってしまった、あの後はもう夢の中でしたねえ。と語って下さいました。
そもそも、この試合元々は、小林さんの限界を感じ取っていた中村会長の意向としては、当時J・ライト級のホープとして注目されていた岩田健二選手との日本人対決を組み、たとえ負けても同国人に王座を譲りたかったらしいのですが、交渉がまとまらず、代役として挑戦者に選ばれたのが、アルフレッド・マルカノで、それも小林さんの防衛戦の相手では初めてランキング3位以下の選手だった、と言うあたりも、なにやら因縁めいて聞こえてきます。
最後のデュランとの試合は、新婚旅行の機会が無かった小林夫妻に対し、中村会長が二人で行って来い、とセコンドは現地で付けさせる契約で送り出したのだそうで「中南米で技術を磨いて、世界ランキングを手に入れたのだから、向こうにランキングを返しに行ったようなものですよ」とは小林さんの談。当地での歓迎振りはほとんど国賓待遇だったそうで、街中でも現地の人々から「コバヤチー!」と歓待され、世界チャンピオンって、これほどのステータスだったんだなあ、と改めて感慨深かったそうです。デュランもそのあたりは充分に感じ取っていたのでしょうね。
上記の内容は、この春に出版された小林さんの評伝「1967クロスカウンター(太田出版・菅淳一 著)」にも、詳しく書かれています。未読でしたら是非ご一読されることをお勧めします。
そうなんですよ 世界残念ながら獲れなかった矢尾板さんよりボンクラ兄弟や●●●司の方が上なんて納得いかないすよ●●なんて誰も知らないでしょマニアじゃないと
なるほど、そういう事情があったのですね。
1967クロスカウンターは読んで見たいと思っていたのですけど、これで いよいよ読みたくなりましたよ。
もう少しマスコミも小林弘の事を重要視して欲しいものです。
>屯田兵様
当時は本当に世界王者のステイタスが高かったというのが分かります。
だから某兄弟など当時の東洋王者以下でしょう。