コメント
沢村忠の愛娘、白羽玲子のCD「ラブレター(ブルーハーツのカバー曲)」を持っていま。しっとりといい曲ですよ☆
(
なにわのヒバゴン
)
2009-05-07 07:43:06
赤井英和は地元ですし、ボクシングを引退後俳優に転向した際、現在のような成功は正直想像がつかなかったですね。彼はファイターのようなイメージですが、どちらかといえばフットワークを生かしたアウトボクシングが持ち味だったらしいのです。こーじさんなら分かってらっしゃると思うので、説明など不要でしょうか(笑)。。。
キックボクシング、確か月曜の夜7時からの中継でしたよね(沢村の時代は見ていません)。放送終了時、私は小学生でした。好きな選手は富山勝治‥とにかくカッコよかった~!リングアナウンサーにコールされる際、両拳を額に当てて瞑想していましたよね。富山は余力を残して引退していったように当時は思いましたが。。。
87年選抜の九州勢4校は夏はすべて予選敗退でしたね。日向学院×伊香は甲子園で観戦していました。大敗した伊香が夏も出場していたという皮肉ですが、敗戦をバネに鍛え直したのでしょうね。かつて滋賀は福井勢にも勝てず甲子園行きを阻まれていました。最後の福滋大会の77年、剛腕藤高の伊香に期待がかかったらしいのですが比叡山(相性が悪かったようです)に県大会の時点で苦敗、滋賀を制したチームも福井商に敗れました。。。翌年春夏の汚名がすでに予兆できる滋賀の冬の時代が垣間見えますよね。先の87年春夏が伊香最後の甲子園になっています。純白ユニに「IKAKO(77年春)」の帽子が久々に戻ってきて欲しいですね
06年夏、帝京と好試合を演じた福工大城東は甲子園の勝ち星では既に東福岡を上回っているようですので、ここ数年で大きな成果(ベスト4以上)が欲しいところです。07年夏に佐賀北が帝京を破って一気に弾みをつけたように、全国区チームへと躍進するキーポイントの試合ってあるものですね。82年春に初陣ながら箕島と死闘を演じた明徳、80年春に北陽を完封した伊東の帝京、87年夏に沖水・尽誠を一夜を挟んで連続完封した島田直也の常総。。。今夏の福岡代表の大ブレイクをお祈りしています☆
そうでしたね
(
こーじ
)
2009-05-08 00:07:15
>なにわのヒバゴン様
たしかに沢村忠の娘は歌手になってました。
ちなみに沢村はライト級でしたが、富山はウエルター級でしたから ある意味コチラの方が凄いのですけどね。
赤井英和はボクサー時代から饒舌でサービス精神旺盛でしたから、タレント向きだとは思ってましたけど
ここまでなるとは思いませんでした。
もう少し下半身と連動するボクシングを覚えていれば世界を取れたのですけどね。
伊香は甲子園未勝利ですね。
藤高のいた77年春は最大のチャンスでしたが、ここで逃したのが痛かったですね。
87年の日向学院の監督は‘ウチが勝てるとしたら伊香ぐらい’などと言っていたのを思い出します。
その日向学院も次の八戸工大戦では完封負けしたのには驚きました。
福工大城東はアカレンジャーの誠直也の母校でもありまして、誠直也は花園の高校ラグビーで優勝しているのですよ。
城東も、あとはクジ運次第だと思います。
「ゆくぞーゴングだー
(
柴田真紀
)
2009-05-08 00:46:40
飛び出せファイト オウ!♪」
って、『キックの鬼』って主題歌、副主題歌は完全に歌える(CD持ってる)のに、本編の記憶が全然ないのだ。
沢村忠氏は、「後にキックをくらい過ぎて死んだ」というエピソードを、当人自身もご存知で、
「あの人、死んだんですってねー」
と、何も知らず本人に話しかける人々に、
「そうだってねー」
と、応えておられたとか……。
できた人だ。
野球の全国制覇はどちらが先か。。。東福岡と福工大城東
(
なにわのヒバゴン
)
2009-05-08 02:57:27
私がキックボクシングを見ていた頃、富山は大抵メーンエベンターでYKKのCMを挟んで7時15分過ぎに登場していました。当時はもう富山の全盛期は過ぎていたかもしれませんが、重たいパンチで相手の頬を陥没させた(マジです)試合は忘れられないですね。解説の寺内大吉さん(なぜ作家が解説していたのか…)が「ヨシ!これで決まったね」とよく独特のとぼけた声を上げていました。実況は石川賢アナだったかな。。。
87年夏、中京×伊香の終了時は書店で立ち読み中にラジオから流れてきました。サイレンのあと、お馴染みの中京校歌♪ここ八事山東海の~とともにアナウンサーが「4年ぶり中京高校勝利で甲子園通算109勝目を挙げました~」との実況。そうでしたか‥伊香がまだ未勝利だったとは‥。何とも両極端な対戦だったのですね。
日向学院の監督さんの「伊香ぐらいしか勝てないと思った」も凄いコメントですけど、79年夏の新居浜商の監督も「まさか東北(日大山形)のチームに負けるとは思わなかった」も今なら当然バッシングの対象になるでしょうね。80年代まで東北(宮城以外)勢や滋賀勢がいかに弱かったかがそれらの発言に集約されていますよね。ただ滋賀は比叡山、瀬田工、甲西が夏に結果を出していたんですが。。。
知ってます~!城東の前身、福岡電波高校は私が生まれた頃にラグビー日本一になっているはずです。同校は阪急黄金期に代走&守備要因として活躍した井上修も確かOB。東福岡の花園制覇はそれ以来だったんですよね。私、特捜最前線が大好きでしたので、誠直也にはとても思い入れが強いんですよ。彼が8年の長期に渡って出演、殉職した回(85年で私は高3)はショックで涙が止まりませんでしたよ(笑)。誠さん自身の回想で「吉野刑事の設定キャラとして三枚目的に演じることが多く、年々ジレンマ(ギャップ)を覚えていた」らしいですね。私は番組の中のキャラそのものが素の誠直也と思っていただけに、前述のコメントには正直驚きました。役者さんもいろいろと苦悩があるんですね☆
書き込み御礼&レス
(
こーじ
)
2009-05-09 00:34:04
>柴田真紀様
その歌は今でも歌えます。
作詞が梶原一騎ではなく所属ジムの会長で、本人が歌ってましたからね。
私は‘最強の格闘技は空手’‘いやタイ式ボクシングだ’と言い合うシーンが印象深かったです。
引退後は一時期パンチドランカーになったなどというデマが横行してましたからね。
>なにわのヒバゴン様
ただし寺内大吉和尚は下手な経験者より詳しかったという事らしいです。
とはいえ大吉和尚の採点は怪しかったですけどね。
当時の実況は石川顕か岡部さんあたりでしたね。
昭和の高校野球はヒエラルキーがはっきりしていたので、けっこう差別的な発言も許容されていたのでしょうかね。
でも79年の日大山形は昭和の歴代では最強かもしれません、あの後 明石南にも逆転勝ちしましたからね。
誠直也といえば最初はファイヤーマンで、その後アカレンジャー、次に特捜最前線になると思ってました。
どうしても演じるキャラと同じように思えてしまいますよね。
具志堅の試合は岡部さんの名調子が印象的。寺内大吉氏の漫画本「王貞治物語」を78年頃読みました☆
(
なにわのヒバゴン
)
2009-05-09 04:59:49
73年夏、初陣の旭川龍谷が東洋大姫路を下した試合も番狂わせの一つだったらしいですね。まだ姫路は実績さほどだったとはいえ、激戦の兵庫代表が北海道チームに負けることはほぼ有り得なかった時代なのでしょう。姫路のある選手は試合後、「あんなピッチャーインチキや。兵庫には一人もおらへんし‥」とコメントしたとか。こーじさん、当時の旭川龍谷のエースはご記憶でしょうか?
新湊が京都西を下した試合は甲子園でラジオを携帯して観戦していたのですが、試合終了の瞬間MBSの二年目森本アナは「桜の季節、まだ雪深い富山から16年ぶりのセンバツ、初出場の新湊高校が堂々ベスト4へと進みます~!」と大絶叫。それほどの事件だったわけですね
82年春の二松学舎・青木監督は中京を下してのインタビューで「決勝進出なんて考えられないです‥」と号泣。ですから地域差とかチームの強弱って明確にあったわけです。ただ84年夏に長浜が春4強の大船渡を下した際、長浜の監督は「まさか大船渡に勝てるとは。。。」とかなり興奮していましたね
79年夏、隣県兵庫から明石南の出場は子供心に少しショックでしたね。やはり春4強の東洋大姫路かサブマリン田中を擁した尼崎北を見たかった‥。田中は私のヒーローですよ。華麗なるアンダーハンドの投球は石井毅、福井商・前側、板倉らと比べても遜色ないくらい美しかったです
姫路も尼北も兵庫の決勝へ進めませんでしたから荒れた大会だったと思われます。準優勝は巨人ドラ1・林の市尼崎でしたし‥
日大山形は大分商戦も惜しかったですし、かなりの強力チームだったのは伺い知れますね。明石南は初戦、安積商との初陣対決も苦戦しましたし、やはりマグレの部分が大きかった出場のような気がします(以後全く出ておりませんし)。当時のエース、浜名は小気味のいい投球で印象に残っていますけどね
こーじさん、草取りお疲れ様です。梃子の原理よく分かります。私も仕事でバールや釘抜を用いることがあるのですが、かしめている鉄板や木箱を解体する際に、書かれているような要領で作業を行っています。1度目よりも2度目、何事も経験が生かされますよね‥☆
73年はまだ
(
こーじ
)
2009-05-09 23:31:54
>なにわのヒバゴン様
73年はまだ江川や土屋ら有名どころと九州勢ぐらいしか選手の名前は詳しくなかったですね。
東洋大姫路は2-0から逆転負けを喫しましたが、旭川竜谷は3回戦でも今治西を9回まで0に抑えてましたから
、いい投手だったのでしょう。
二松学舎の青木監督は甲子園に行くまで結婚しないと宣言していた熱血漢で、80年に初出場したときに
‘これで結婚できます’と嬉しそうに言っていたのが
印象深いですね。
また初出場のチームは東北勢相手でも実績のある
チームに勝てるのは感激モノだったでしょう。
だから長浜の監督の気持ちは分かりますね。
79年の明石南はホント意外でした。
初戦の安積商との対戦も安積商の方が強そうでしたからね、だから日大山形に逆転負けしても‘やっぱり’と思ってました。
79年の日大山形は大分商を3安打に抑えてましたが、
そのうちの2本いずれも3ベースで8回に出ての逆転負けでしたね。
まぁ岡崎がいたチームですが、日大山形の方が強いと思ってましたよ。
草取り翌日の今日は案の定 腰や背中が痛いですが、
意外にも手のひらが筋肉痛です。
いかに握力を使ったか分かりますね。
蘇ってほしい、北の常連だった旭川龍谷。佐賀の龍谷(中井投手)も懐かしいですね
(
なにわのヒバゴン
)
2009-05-10 06:08:20
調べてみましたら73年夏の旭川龍谷のエースは向峰、サヨナラ弾を放ったのが今治西の大谷選手でした。いずれも見聞きしたことがない選手だけに想像の世界ですね。記念大会だったその年、47試合でホームランは10本という数字に時代を感じますし、広商・達川が高知商・鹿取から一発を放っているのも興味深いですね
83年夏、大会直前の番組で「今年の北海道2校は強いですよ~」と地元局のアナウンサーは力説していました。春8強の駒大岩見沢は当然としても、旭川龍谷はそこまで強いの‥?と思いますよね。しかし前述の73年や三刀屋を下した78年の実績、75年も習志野と好試合を演じるなどしてネームバリューがあったのでしょう。その83年は高鍋に大敗しましたが、85年は開幕戦でまたしても島根勢(大社)に勝利。同じ北海道の常連だった函館有斗や東海大四などが夏は苦戦していたこともあり、旭川龍谷は当時の北海道のエース格でしたね
こーじさん、やっぱり春型、夏型ってあるんでしょうね。よく話に出る東海大相模、国士舘の極端な春オンリー(特に相模はお祓いでもした方がよさそうな‥)。書かれてました二松学舎は80年テルシーの柳川に敗れたのを皮切りに4度出場するもいずれも春。何でも同校は東東京の決勝で9連敗だそうですからね。城東や雪谷といった都立にまで夏の代表を奪われるのですから、二松学舎の存在は高校野球界の七不思議といえるのではないでしょうか
安積商という校名も懐かしいですね。中畑清氏の母校としても有名ですが、現校名は帝京安積に変わっています(公立じゃなかったのか‥)。磐城、福島商、郡山北工、マニアックなところで88年春に神港学園を下した福島北など公立校の活躍も思い出されますね。前にも書きましたが、私は学法石川のファンです(校歌が特にいいですね)
こーじさん、お体大切になさって下さい。私も年々思うんですよ。ムリが効かなくなってきたなぁ~と。よく信号点滅中に横断歩道を渡ろうとして駆け出すのですが、ハイヒールを履いた女の子にあっさり抜かれてしまうことも度々。。。悔しいですが、それが40代の現実なのですね‥ww
春型・夏型は
(
こーじ
)
2009-05-11 00:24:05
>なにわのヒバゴン様
国士舘も05年に夏出場するまでは二松学舎同様 春のみのチームでしたね。
これは東京七不思議の1つらしいです。
尾道商も春は準優勝2回なのに、夏は1回しか出場してません。
これも珍しいです。
以前は‘春は投手力がよければ’と言われてましたが、今は両方バランスよくないとダメですね。
だから戸田の時の鉾田一のようなワンマンチームは
甲子園は厳しいようです。
かつての北海道のエース・旭川竜谷ですが、ここは
夏の印象の方が強いです。
春は2度ほど印象があるものの、87年は広島商に91年は箕島に初戦敗退してます。
安積商は当時 磐城で準優勝した田村が監督をしてました。
田村監督時代は2度甲子園に行きましたが、いずれも
初戦敗退。
その後、母校の磐城の監督として85年に甲子園出場しましたけど、この時も初戦で負けてますね。
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キックボクシング、確か月曜の夜7時からの中継でしたよね(沢村の時代は見ていません)。放送終了時、私は小学生でした。好きな選手は富山勝治‥とにかくカッコよかった~!リングアナウンサーにコールされる際、両拳を額に当てて瞑想していましたよね。富山は余力を残して引退していったように当時は思いましたが。。。
87年選抜の九州勢4校は夏はすべて予選敗退でしたね。日向学院×伊香は甲子園で観戦していました。大敗した伊香が夏も出場していたという皮肉ですが、敗戦をバネに鍛え直したのでしょうね。かつて滋賀は福井勢にも勝てず甲子園行きを阻まれていました。最後の福滋大会の77年、剛腕藤高の伊香に期待がかかったらしいのですが比叡山(相性が悪かったようです)に県大会の時点で苦敗、滋賀を制したチームも福井商に敗れました。。。翌年春夏の汚名がすでに予兆できる滋賀の冬の時代が垣間見えますよね。先の87年春夏が伊香最後の甲子園になっています。純白ユニに「IKAKO(77年春)」の帽子が久々に戻ってきて欲しいですね
06年夏、帝京と好試合を演じた福工大城東は甲子園の勝ち星では既に東福岡を上回っているようですので、ここ数年で大きな成果(ベスト4以上)が欲しいところです。07年夏に佐賀北が帝京を破って一気に弾みをつけたように、全国区チームへと躍進するキーポイントの試合ってあるものですね。82年春に初陣ながら箕島と死闘を演じた明徳、80年春に北陽を完封した伊東の帝京、87年夏に沖水・尽誠を一夜を挟んで連続完封した島田直也の常総。。。今夏の福岡代表の大ブレイクをお祈りしています☆
たしかに沢村忠の娘は歌手になってました。
ちなみに沢村はライト級でしたが、富山はウエルター級でしたから ある意味コチラの方が凄いのですけどね。
赤井英和はボクサー時代から饒舌でサービス精神旺盛でしたから、タレント向きだとは思ってましたけど
ここまでなるとは思いませんでした。
もう少し下半身と連動するボクシングを覚えていれば世界を取れたのですけどね。
伊香は甲子園未勝利ですね。
藤高のいた77年春は最大のチャンスでしたが、ここで逃したのが痛かったですね。
87年の日向学院の監督は‘ウチが勝てるとしたら伊香ぐらい’などと言っていたのを思い出します。
その日向学院も次の八戸工大戦では完封負けしたのには驚きました。
福工大城東はアカレンジャーの誠直也の母校でもありまして、誠直也は花園の高校ラグビーで優勝しているのですよ。
城東も、あとはクジ運次第だと思います。
って、『キックの鬼』って主題歌、副主題歌は完全に歌える(CD持ってる)のに、本編の記憶が全然ないのだ。
沢村忠氏は、「後にキックをくらい過ぎて死んだ」というエピソードを、当人自身もご存知で、
「あの人、死んだんですってねー」
と、何も知らず本人に話しかける人々に、
「そうだってねー」
と、応えておられたとか……。
できた人だ。
87年夏、中京×伊香の終了時は書店で立ち読み中にラジオから流れてきました。サイレンのあと、お馴染みの中京校歌♪ここ八事山東海の~とともにアナウンサーが「4年ぶり中京高校勝利で甲子園通算109勝目を挙げました~」との実況。そうでしたか‥伊香がまだ未勝利だったとは‥。何とも両極端な対戦だったのですね。
日向学院の監督さんの「伊香ぐらいしか勝てないと思った」も凄いコメントですけど、79年夏の新居浜商の監督も「まさか東北(日大山形)のチームに負けるとは思わなかった」も今なら当然バッシングの対象になるでしょうね。80年代まで東北(宮城以外)勢や滋賀勢がいかに弱かったかがそれらの発言に集約されていますよね。ただ滋賀は比叡山、瀬田工、甲西が夏に結果を出していたんですが。。。
知ってます~!城東の前身、福岡電波高校は私が生まれた頃にラグビー日本一になっているはずです。同校は阪急黄金期に代走&守備要因として活躍した井上修も確かOB。東福岡の花園制覇はそれ以来だったんですよね。私、特捜最前線が大好きでしたので、誠直也にはとても思い入れが強いんですよ。彼が8年の長期に渡って出演、殉職した回(85年で私は高3)はショックで涙が止まりませんでしたよ(笑)。誠さん自身の回想で「吉野刑事の設定キャラとして三枚目的に演じることが多く、年々ジレンマ(ギャップ)を覚えていた」らしいですね。私は番組の中のキャラそのものが素の誠直也と思っていただけに、前述のコメントには正直驚きました。役者さんもいろいろと苦悩があるんですね☆
その歌は今でも歌えます。
作詞が梶原一騎ではなく所属ジムの会長で、本人が歌ってましたからね。
私は‘最強の格闘技は空手’‘いやタイ式ボクシングだ’と言い合うシーンが印象深かったです。
引退後は一時期パンチドランカーになったなどというデマが横行してましたからね。
>なにわのヒバゴン様
ただし寺内大吉和尚は下手な経験者より詳しかったという事らしいです。
とはいえ大吉和尚の採点は怪しかったですけどね。
当時の実況は石川顕か岡部さんあたりでしたね。
昭和の高校野球はヒエラルキーがはっきりしていたので、けっこう差別的な発言も許容されていたのでしょうかね。
でも79年の日大山形は昭和の歴代では最強かもしれません、あの後 明石南にも逆転勝ちしましたからね。
誠直也といえば最初はファイヤーマンで、その後アカレンジャー、次に特捜最前線になると思ってました。
どうしても演じるキャラと同じように思えてしまいますよね。
新湊が京都西を下した試合は甲子園でラジオを携帯して観戦していたのですが、試合終了の瞬間MBSの二年目森本アナは「桜の季節、まだ雪深い富山から16年ぶりのセンバツ、初出場の新湊高校が堂々ベスト4へと進みます~!」と大絶叫。それほどの事件だったわけですね
82年春の二松学舎・青木監督は中京を下してのインタビューで「決勝進出なんて考えられないです‥」と号泣。ですから地域差とかチームの強弱って明確にあったわけです。ただ84年夏に長浜が春4強の大船渡を下した際、長浜の監督は「まさか大船渡に勝てるとは。。。」とかなり興奮していましたね
79年夏、隣県兵庫から明石南の出場は子供心に少しショックでしたね。やはり春4強の東洋大姫路かサブマリン田中を擁した尼崎北を見たかった‥。田中は私のヒーローですよ。華麗なるアンダーハンドの投球は石井毅、福井商・前側、板倉らと比べても遜色ないくらい美しかったです
姫路も尼北も兵庫の決勝へ進めませんでしたから荒れた大会だったと思われます。準優勝は巨人ドラ1・林の市尼崎でしたし‥
日大山形は大分商戦も惜しかったですし、かなりの強力チームだったのは伺い知れますね。明石南は初戦、安積商との初陣対決も苦戦しましたし、やはりマグレの部分が大きかった出場のような気がします(以後全く出ておりませんし)。当時のエース、浜名は小気味のいい投球で印象に残っていますけどね
こーじさん、草取りお疲れ様です。梃子の原理よく分かります。私も仕事でバールや釘抜を用いることがあるのですが、かしめている鉄板や木箱を解体する際に、書かれているような要領で作業を行っています。1度目よりも2度目、何事も経験が生かされますよね‥☆
73年はまだ江川や土屋ら有名どころと九州勢ぐらいしか選手の名前は詳しくなかったですね。
東洋大姫路は2-0から逆転負けを喫しましたが、旭川竜谷は3回戦でも今治西を9回まで0に抑えてましたから
、いい投手だったのでしょう。
二松学舎の青木監督は甲子園に行くまで結婚しないと宣言していた熱血漢で、80年に初出場したときに
‘これで結婚できます’と嬉しそうに言っていたのが
印象深いですね。
また初出場のチームは東北勢相手でも実績のある
チームに勝てるのは感激モノだったでしょう。
だから長浜の監督の気持ちは分かりますね。
79年の明石南はホント意外でした。
初戦の安積商との対戦も安積商の方が強そうでしたからね、だから日大山形に逆転負けしても‘やっぱり’と思ってました。
79年の日大山形は大分商を3安打に抑えてましたが、
そのうちの2本いずれも3ベースで8回に出ての逆転負けでしたね。
まぁ岡崎がいたチームですが、日大山形の方が強いと思ってましたよ。
草取り翌日の今日は案の定 腰や背中が痛いですが、
意外にも手のひらが筋肉痛です。
いかに握力を使ったか分かりますね。
83年夏、大会直前の番組で「今年の北海道2校は強いですよ~」と地元局のアナウンサーは力説していました。春8強の駒大岩見沢は当然としても、旭川龍谷はそこまで強いの‥?と思いますよね。しかし前述の73年や三刀屋を下した78年の実績、75年も習志野と好試合を演じるなどしてネームバリューがあったのでしょう。その83年は高鍋に大敗しましたが、85年は開幕戦でまたしても島根勢(大社)に勝利。同じ北海道の常連だった函館有斗や東海大四などが夏は苦戦していたこともあり、旭川龍谷は当時の北海道のエース格でしたね
こーじさん、やっぱり春型、夏型ってあるんでしょうね。よく話に出る東海大相模、国士舘の極端な春オンリー(特に相模はお祓いでもした方がよさそうな‥)。書かれてました二松学舎は80年テルシーの柳川に敗れたのを皮切りに4度出場するもいずれも春。何でも同校は東東京の決勝で9連敗だそうですからね。城東や雪谷といった都立にまで夏の代表を奪われるのですから、二松学舎の存在は高校野球界の七不思議といえるのではないでしょうか
安積商という校名も懐かしいですね。中畑清氏の母校としても有名ですが、現校名は帝京安積に変わっています(公立じゃなかったのか‥)。磐城、福島商、郡山北工、マニアックなところで88年春に神港学園を下した福島北など公立校の活躍も思い出されますね。前にも書きましたが、私は学法石川のファンです(校歌が特にいいですね)
こーじさん、お体大切になさって下さい。私も年々思うんですよ。ムリが効かなくなってきたなぁ~と。よく信号点滅中に横断歩道を渡ろうとして駆け出すのですが、ハイヒールを履いた女の子にあっさり抜かれてしまうことも度々。。。悔しいですが、それが40代の現実なのですね‥ww
国士舘も05年に夏出場するまでは二松学舎同様 春のみのチームでしたね。
これは東京七不思議の1つらしいです。
尾道商も春は準優勝2回なのに、夏は1回しか出場してません。
これも珍しいです。
以前は‘春は投手力がよければ’と言われてましたが、今は両方バランスよくないとダメですね。
だから戸田の時の鉾田一のようなワンマンチームは
甲子園は厳しいようです。
かつての北海道のエース・旭川竜谷ですが、ここは
夏の印象の方が強いです。
春は2度ほど印象があるものの、87年は広島商に91年は箕島に初戦敗退してます。
安積商は当時 磐城で準優勝した田村が監督をしてました。
田村監督時代は2度甲子園に行きましたが、いずれも
初戦敗退。
その後、母校の磐城の監督として85年に甲子園出場しましたけど、この時も初戦で負けてますね。