コメント
ボクシング井上の若さとセンスは圧巻。ゴンザレスには破格の強さを感じました☆
(
なにわのヒバゴン
)
2014-09-06 06:39:09
よく全国規模の大会などに出場するにあたって‘ウチらしい普段通りの戦いを’といって挑みますが情報が行き届いている昨今では丸裸にされて完敗になるケースも多々。ウチ(のスタイル)らしいという漠然とした考えでは進歩どころか現状維持さえも難しいのではないでしょうか。正攻法がダメなら奇策、秘策を練って‘こんなはずでは?’と少しでも強豪にいつも通りの戦いをさせないこと。真鍋監督は先進的な考えの持ち主のようですからニッポンはまだまだ強くなるでしょうし、五輪の金?メダルだって十分獲得可能です。あらゆるスポーツ(どの業界も)セオリーに凝り固まっていては時代に淘汰されるのがオチ。対戦相手は研究してきますから、その上をいかないと勝てないのは自明の理でしょう。九州の公立校を甲子園Vに導いた吉田、百崎両監督の柔軟な采配戦術も今思えば快挙や奇跡でも何でもなく‘勝つべくして勝った’という気がします。強い肉体と精神力、時代の流れに即応鋭い感性。。。あらゆる要素が合わさらないとリアル王者になれないのが今世紀のスポーツなんでしょうね。奥が深いです☆
伝統校の凋落は
(
こーじ
)
2014-09-06 23:18:23
>なにわのヒバゴン様
広島商や松山商の凋落は伝統を守る事に躍起になって
新しいものを取り入れるという一番大事な要素を拒否しているところでしょうね。
木内さんが03年に常総学院で優勝した時に「ダルビッシュはランナーが2塁に行くとスイッチが入って打てなくなるので、ランナー1塁で勝負すれば長打が出る確率が高いし長打や連打を浴びるとダルは頭に血が上って連打を浴びせるチャンスが出てくる」と1アウト2塁を作らない作戦でダルを攻略したのも然りですね。
尾藤スマイルを吸い取った木内マジック(最後の打者嶋田の右飛にそう感じました)☆
(
なにわのヒバゴン
)
2014-09-07 02:08:26
そうですね。時代背景もあるでしょうけど、広商や松山商の長き低迷には前世紀の野球から脱皮できていないことも要因として挙げられるでしょうね。何せ中等野球の初期から甲子園出場は当たり前で優勝も共に春夏計7回。OBの数もそんじょそこらの名門に比べると半端ないでしょうから‘広商(松山商)野球を消滅させずそして勝て!’という無理難題を現役生にも押し付け続けているのではないのかと。。。高知商や高松商、暫く見ない松商学園にも同じ匂いがします。その点広商のライバル広陵は柔軟に時代に対応してきましたね。72年を最後に最初の低迷。80年の春夏出場から中井監督で戦後初優勝する91年春までも再び暗黒の時期でしたが、塩崎・小土居を巧みに使い分けるなど2000年以降返り咲きのステップを何となく感じさせました。県岐阜商も岐阜のボスとしての威厳は保ってきたものの09年夏の4強入りまでは長い低迷期でしたよね。甲西や東海大山形に敗れた年などウチの父親は‘大島信男や松井栄造が泣くで~(誰やねんそれ?ってツッコミましたよ)’とガッカリしてました。岐阜商ファンだったことは間違いないです(笑) 木内マジック(種も仕掛けもある)やはり只者ではないですね。阪神の久保田もなぜか走者を溜めないと本気モードにならないダルタイプ。虎党のブーイングを全身に浴びてからようやくスイッチが入る困った野郎です(笑)。木内氏のあとの持丸監督は結果を残せず、氏の教え子(小菅だったか)が現指揮官ですよね。昨夏は8強まで進出。マジシャンのDNAを受け継ぐ彼がどうニュー常総を築いていくのか?同世代だけに注目したいところです。取手二高も懐かしい(もう30年!歳を取るはずです)。全国制覇が最後の出場とは誇り高くも寂しい限りですね。♪緑濃き取手の丘に~大利根の流れを眺め~今でも校歌をソラで歌えますよ☆
昭和最後の箕島の出場から今年で40年
(
こーじ
)
2014-09-07 23:47:42
>なにわのヒバゴン様
考えてみれば今年で箕島が最後に夏の甲子園出場してから40年目なのですね。
その84年の箕島は打倒PLの筆頭に挙げられ初戦で対戦する取手二に関しては‘箕島からスキを突いて倒される大型チーム’というイメージでしたので、途中まで3-0で進んだ時は‘やっぱり’と思っていたら8回に一挙5点を奪われて‘ここからが箕島’と思いきや2イニングを
あっさり終わってしまったという印象が強いです。
甲子園の名物監督の交代劇と今なら思ってしまいますね。
もっとも木内監督も初出場までかなりの低迷を経験してますし初出場から優勝まで7年、その間8試合を経験してますのでその捲土重来の時期が木内氏を勝負士にした
のでしょうね。
77・78・81年の木内氏は全く記憶にないのが悔しい(≡^∇^≡)白ユニの取手二か。。。☆
(
なにわのヒバゴン
)
2014-09-10 02:42:29
81年大会前の週刊朝日かホームラン増刊号において取手二は‘序盤戦を乗り切れば優勝も狙える’云々と書かれてましたかが‘そんなこと絶対にありえへん’と一人突っ込んでましたよ(笑)。鎮西だかに接戦ながら予想通り?初戦敗退。なので茨城の公立校がまさか三年後快挙を成し遂げることになろうとは予想し得なかったですね。83年春は初出場の泉州に敗退。夏前に水野らで夏春連覇の池田に勝ったとはいえあくまでも招待試合でしたから謂わば武田の明大中野と同じ見方ですよね。甲子園に出てきてナンボです。実際夏は茨城予選で敗れるなど翌年へ手応え十分という程でもなかったのではないでしょうか。84年選抜は東の優勝候補とされるも石田投手が肘か肩を痛めベスト8で敗退。この時点でも取手二はPLは勿論のこと金足農や都城、大船渡らに比べてもどこか頼りない印象は拭えませんでした。事実PLが茨城に乗り込んでの練試では二桁失点の完封負け。2年の桑田にすら‘これが東の優勝候補のベストメンバーですか?’って鼻で笑われたそうですし。なので分岐点はその一戦ですね。石田の故障も完治し勇躍乗り込んだ夏の甲子園。箕島は和歌山決勝でも選抜帰りの和工を8対0?で圧倒するなど前年はおろか79年をも凌ぐ実力だと私も見ていました。何せ嶋田に杉本のドラ1両右腕を擁していたんですから87年PLの野村・橋本と同じ意味合いですよね。ただ大型チームになってからの箕島は全盛期のような(良い意味での)狡さやしつこさが影を潜めつつあった印象です。言うなれば70~80年代前半の天理や柳川、一頃の浦和学院みたいな追い込まれると軌道修正に窮するというか。。。前年の高知商戦、津野の満塁弾に沈んだシーンにもニュー尾藤野球の弱点を垣間見た気がしましたね。PLが享栄、明石戦と早くも全開。春のリベンジを窺う都城も一蹴したことからV2はほぼ固いと予期してました。最大の難敵箕島がいない(過去選抜でも連敗)あとは金足農くらいしか骨のあるチームは残ってませんでしたから。広商を圧倒したとはいえ、この時代秋田(東北最強県であっても)が優勝するまでは考えに及ばなかったです。しかしPLは春同様に準々以降は打撃が下降線に。一方取手は鹿商工や鎮西を打ち負かすなど攻撃力が絶好調。打撃湿りっぱなしのまま敗れた春の決勝岩倉戦のこともあって石田の力投如何では‘ひょっとすると’と予感させましたね。9回裏清水哲の同点弾で意気上がるはずのPLがなぜか煮え切らない。通常時なら一気に決められる陣容を擁しているが(ベンチのムードが)重い堅い。。。取手は石田→柏葉のリレーが見事にハマって10回の集中打を呼び込みましたね。結果論かも知れませんが流れが相手に行ってしまうところを絶妙なワンクッションでマジックを仕掛ける木内氏の老獪な采配(阪急全盛の上田監督も然りでした)。奇しくも嶋田→杉本のスイッチを読みきった?彼が巧みに両豌を操縦したのですから尾藤・中村両監督よりも役者が既に一枚も二枚も上だったわけです。01年春、03年夏の常総時代もマジックを再現しての全国制覇でしたよね。その84年以来箕島は昨年ようやく夏の聖地に復活。日川戦は同じ山梨の吉田戦をオーバーラップさせる2点差の終盤でしたが奇跡は起こらず。取手戦同様に最後の打者がライトフライだったのは単なる偶然だったのでしょうか?就任初年度は名の如く運の強さも大いに覗かせた尾藤強監督。紀州の盟主箕島、優勝候補として常に畏怖させた往年の強豪校再建へ。。。同年代としても期待を寄せる今日この頃です☆
取手二のユニは
(
こーじ
)
2014-09-10 22:28:13
>なにわのヒバゴン様
取手二のユニは77夏の時に青でしたが翌78夏は白になってました。
77は初戦で掛川西に勝ったのに対し、78年は岡山東商相手に1-3であっさり敗れたためか以後は ずっと青ユニでした。
ちなみに77の夏休みに筑波の叔父さん宅に遊びに行っていたところ、茨城大会の決勝で選抜出場の土浦日大と対戦してまして‘昨年までは土浦日大のユニが青で取手二は白だったのですが今年は反対です’とアナウンサーが言っていたのを覚えてます。
恐らく78年に初戦敗退したので白は封印したのでしょうかね。
ちなみに84年は箕島が打倒PLの一番手と考えていたので初戦の取手二戦は箕島だと思ってましたし、3回戦の相手が福大大濠になった時に‘簑島だったら勝ち目はないが、取手二だったら付け入るスキはある’と思っていたら毎回ランナーを凌いだ大濠が5回裏にワンチャンスで先制すると直後の6回に取手二打線が火を噴き終わってみたら1-8の快勝だったので驚きましたよ。
なので取手二時代の大野久や川口工時代の駒崎も記憶にないんですよ(≡^∇^≡)☆
(
なにわのヒバゴン
)
2014-09-11 20:54:34
そうだったんですね。私が初めて見た土浦日大は77年春山口の智弁戦でしたが白ユニ(田中捕手が注目でしたね)。86年夏?の出場時も変わりなかったので工藤時代~76年までが青だったわけですね。77年春の早実と土浦日大は割と前評判が良かったのに何れも山口に封じられ(銚子商も)、作新と桜美林も天理に敗退。関東勢全て奈良勢にしてやられたというのも箕島含む紀和代表の充実ぶりが窺えます。ユニフォームのプチ変更は西のチームよりも関東勢のほうが総体的に積極的ですね。 84年の取手二は予選前の空中分解寸前から蟠りが解け本来の実力以上のポテンシャルが甲子園で遺憾なく発揮された感が強いです。元々明るい(ヤンチャな)キャラが揃った集団でしたし、木内監督もアメとムチを使い分けやすかったのではないでしょうか?福大大濠のサブマリン八野は選抜でも明徳を終盤まで完璧に抑え込んだことからその実力ぶりは折り紙付きのはずが。。。まさかの大量点献上でしたからね。森山の81年は初陣でしたが89年の8強進出(木内氏にリベンジ)のチームよりも84年チームの方が強かった印象。最後の甲子園は91年春だったでしょうか?宇学とのナイターがうっすらと記憶に残っています。校名そのものを聞かなくなったり文星芸大付(未だに馴染めない)に変わっていたり。~大付属都市(県)名が年々増えて昭和がだんだん遠くなっていきますね。長野代表が東京都市大塩尻なんて入場行進からチンプンカンプンでした(笑)。木内×蔦の名将対決も一度は見たかったですね☆
大濠は
(
こーじ
)
2014-09-11 23:10:20
>なにわのヒバゴン様
福大大濠は森山がエースだった81年のチームが最強でしたけど、残念ながら初出場で経験不足という奴か(ならず者揃いのプレッシャー)鎮西から負けたのですね。
だから出場する度に小粒になっていった感の強い大濠ですが、91年春以降は進学に力を入れてしまいましたし
監督も‘卒業してからの方が長い’という事から野球バカの育成には反対なようです。
ちなみに84年のサブマリン・八野こそ選抜向きの投手ですし、スタイルですから夏はパッとしなかったのも分かります。
コメントを投稿する
ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません
名前
タイトル
URL
コメント
※絵文字はjavascriptが有効な環境でのみご利用いただけます。
▼ 絵文字を表示
携帯絵文字
リスト1
リスト2
リスト3
リスト4
リスト5
ユーザー作品
▲ 閉じる
コメント利用規約
に同意の上コメント投稿を行ってください。
コメント利用規約に同意する
数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。
広島商や松山商の凋落は伝統を守る事に躍起になって
新しいものを取り入れるという一番大事な要素を拒否しているところでしょうね。
木内さんが03年に常総学院で優勝した時に「ダルビッシュはランナーが2塁に行くとスイッチが入って打てなくなるので、ランナー1塁で勝負すれば長打が出る確率が高いし長打や連打を浴びるとダルは頭に血が上って連打を浴びせるチャンスが出てくる」と1アウト2塁を作らない作戦でダルを攻略したのも然りですね。
考えてみれば今年で箕島が最後に夏の甲子園出場してから40年目なのですね。
その84年の箕島は打倒PLの筆頭に挙げられ初戦で対戦する取手二に関しては‘箕島からスキを突いて倒される大型チーム’というイメージでしたので、途中まで3-0で進んだ時は‘やっぱり’と思っていたら8回に一挙5点を奪われて‘ここからが箕島’と思いきや2イニングを
あっさり終わってしまったという印象が強いです。
甲子園の名物監督の交代劇と今なら思ってしまいますね。
もっとも木内監督も初出場までかなりの低迷を経験してますし初出場から優勝まで7年、その間8試合を経験してますのでその捲土重来の時期が木内氏を勝負士にした
のでしょうね。
取手二のユニは77夏の時に青でしたが翌78夏は白になってました。
77は初戦で掛川西に勝ったのに対し、78年は岡山東商相手に1-3であっさり敗れたためか以後は ずっと青ユニでした。
ちなみに77の夏休みに筑波の叔父さん宅に遊びに行っていたところ、茨城大会の決勝で選抜出場の土浦日大と対戦してまして‘昨年までは土浦日大のユニが青で取手二は白だったのですが今年は反対です’とアナウンサーが言っていたのを覚えてます。
恐らく78年に初戦敗退したので白は封印したのでしょうかね。
ちなみに84年は箕島が打倒PLの一番手と考えていたので初戦の取手二戦は箕島だと思ってましたし、3回戦の相手が福大大濠になった時に‘簑島だったら勝ち目はないが、取手二だったら付け入るスキはある’と思っていたら毎回ランナーを凌いだ大濠が5回裏にワンチャンスで先制すると直後の6回に取手二打線が火を噴き終わってみたら1-8の快勝だったので驚きましたよ。
福大大濠は森山がエースだった81年のチームが最強でしたけど、残念ながら初出場で経験不足という奴か(ならず者揃いのプレッシャー)鎮西から負けたのですね。
だから出場する度に小粒になっていった感の強い大濠ですが、91年春以降は進学に力を入れてしまいましたし
監督も‘卒業してからの方が長い’という事から野球バカの育成には反対なようです。
ちなみに84年のサブマリン・八野こそ選抜向きの投手ですし、スタイルですから夏はパッとしなかったのも分かります。