ひろひろの生活日記(LIFE Of HIROHIRO)

パソコン講習とソフト開発をしています。自作小説も掲載しています。ネット情報発信基地(上野博隆)Hirotaka Ueno

0165_西方浄土(009)裕也の冒険

2019年12月10日 13時01分04秒 | 裕也・冒険日記(自作小説)
0165_西方浄土(009)裕也の冒険
--どちらが高い法--
次にどちらが高い法であるかを考える。
例えて、一つの仕事を考える。
この仕事を完成するば課長になると社長に言われたとしよう。
ある人は仕事を実現するために自分を変革し仕事方法を改革し達成した。
ある人は、ただただ仕事の完成を夢見て耐えて達成した。
とすると、達成した仕事の価値は同じである。
どちらも課長になった。
前者は、課長以上の自分を作れたかもしれない。後者は、課長の能力に満たないかもしれない。
法としては、前者が優れている。自身を改革し仏にするのであるから。
しかし、仕事を達成したのに変わりはない。
末法で天変地異があり、争いがあり大変厳しい時代であったかもしれない。しかし、生き抜いた価値は同じで尊い。
裕也は、それが「南無妙法蓮華経」を唱えようが、「南無阿弥陀仏」を唱えようが尊いと思った。
つづく 次回(西方浄土010)浄土。
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0164_西方浄土(008)裕也の冒険

2019年12月10日 09時59分55秒 | 裕也・冒険日記(自作小説)
0164_西方浄土(008)裕也の冒険
--どちらを選ぶか--
まずは、説かれた経について考えることにした。
法華経には何が説かれているのか?
裕也は、法を説く仏の姿と法の姿が説かれていると観じた。
それでは、阿弥陀仏はどうだろう。
本門で釈迦分身となっている。当然、衆生を救うための最高の仏である。
次に救われる人の機を考える。
「衆生にこの機あって仏を感ず、ゆえに名づけて因となす。仏機を承けてしかも応ず、ゆえに名づけて縁となす」
とある。
つまり、その題目を唱えると言うことは、「南無妙法蓮華経」であろうと「南無阿弥陀仏」であろうと機があって仏を感じたと言うことである。
また、時を考える。
釈尊が法を説いてからの経過した時間であが、長い時間が経ち
釈尊が説いた経の効力が無くったかもしれない。
しかし、釈尊の言葉が妄語なれば、法華経もない。
しからば、阿弥陀仏も存在するし、西方浄土もあると考える。
信あらば力は甦る。
国を考える。
日本は、仏法に縁している土地で地域である。だから、仏法をとけば衆生は信じる。
次にどちらが高い法であるかを考える。
つづく 次回(西方浄土009)どちらが高い法?
 
 
※本門 法華経一部八巻二十八品のうち後半の十四品こと。
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0163_西方浄土(007)裕也の冒険

2019年12月10日 08時44分12秒 | 裕也・冒険日記(自作小説)
0163_西方浄土(007)裕也の冒険
--成仏とは②--
では、後者は、どうでしょう。
「いかなる罪人・悪人でも阿弥陀を念ずれば西方十万億土の極楽浄土へ往生することができる。ただし五逆罪と誹謗正法の者をば除く」とある。
極楽浄土とは、仏が創り賜った最高の世界である。
成仏とは、そこに生まれてくることである。
来世に希望を見て、現世を絶えしのぐ。
これは、悪いことでしょうか?
仕事でも実際に現実の辛さを仕事の完了を夢見て耐えることをしている。また、無理をしない。無理をさせないようにすることも大切なことである。
「柔の題目」である。
つづく 次回(西方浄土008)どちらを選ぶか。
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0162_西方浄土(006)裕也の冒険

2019年12月10日 08時09分49秒 | 裕也・冒険日記(自作小説)
0162_西方浄土(006)裕也の冒険
--成仏とは①--
裕也は「南無妙法蓮華経」と「南無阿弥陀仏」について比較してみた。
南無とは、心の名の宣言である。
前者は、「妙法蓮華経」の心である。後者は「阿弥陀仏」の心である。
それを唱えると言うことは「籠の外の鳥鳴けば、籠の中の鳥出ようと欲する」のとおり、自身の中にある心を呼び出すのに相違ない。
前者は、ただの法華経ではない。妙がついている。これは、日蓮大聖人が現した文底の法華経を現す。
では、「妙法蓮華経」とはどんな心か?
簡単に言うと十界論でいうと仏界である。
唱えると言うことは、「妙法蓮華経」に説かれている仏の境涯と等しくなることである。
絶対的な幸福境涯を確立すること。
すなわち「妙法蓮華経」で言う成仏とは、
いかなる社会の困難にぶつかろうとも。ゆうゆう乗り越えて、あらゆる不幸な人々を救いきっていこうとつねに願う慈悲の心を持ち、社会に対しつねに価値創造して、どのような要因によっても絶対にくずれない金剛不壊の幸福境涯を成仏という。
苦難があっても乗り越え、現世を寂光土にかえる「剛の題目」である。
では、後者は、どうでしょう。

つづく 次回(西方浄土007)成仏とは②
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