テレビを見ていたら犬のしつけ訓練について専門家の話があった。
ひとつは、犬は集団生活するのが基本なので、子犬の頃から集団の中で思う存分遊ばせるのが重要だそうである。遊びの中で集団生活に必要な暗黙の知識を習得するらしい。現在の犬はペットとして人間の家でほとんど単独で飼われるため、集団でのルールを習得する機会がなく、例えば遊びとしての甘咬みの程度が解らないで人間に噛みついて怪我をさせてしまう。集団の中で咬んだり咬まれたりしながら、どのくらいの強さで咬めばいいのかを習得することになる。
次は、人間と犬の心のつながりである。
心のつながりがなければ、犬は全く言うことを聞いてくれない。心のつながりは、叩いたり、叱ったり、強制したりだけでは育たない。いいことも悪いことも含めて認めてもらうことから心のつながりが始まる。人間にとって都合が悪いことを一方的に押しつけられても犬には理解できないし、犬としての犬権も認めてもらわなければ困ってしまう。相手は人間でなく犬なのである。そして、何よりも重要なことは犬と人間がつながっているという確信と信頼関係である。これがなければ犬は人間の意思表示に全く関心を示さず、自分勝手な行動を繰り返す。
人間にとって困ったことを犬がしでかした場合、
一方的に叱るだけでは、犬は何のことか解らない。まずは犬の立場になって何故そのような行為をするのかを明らかにする必要がある。犬は本能と習性で行動しているので、行動パターンは人間ほど複雑でなく単純である。その原因を取り除いてやれば人間にとって困った行為はしなくなる。そして、本能と習性に訴えればどのようにでもしつけることが可能である。本来であれば、犬のしつけは人間と犬の智恵比べなのであるが、人間は犬を知能のない下等な動物としてしか扱わない。これでは犬が言うことを利かないはずである。愛玩動物であるペットにもいくばくかの魂はあり、存在価値と個性に基づいた意思表示をシッカリとするものなのである。
犬と人間の関係は対等ではない。
人間が主人で犬は服従するものである。この関係を明確にしないと犬は勘違いしてしまう。そして主人は主人としての地位と役割をしっかり果たさないといけない。自分は主人だという自覚と主人としての一貫した考え方である。犬と人間の位置関係がはっきりして、人間の一貫した考え方が理解できれば犬はその命令に従う。考え方に一貫性がなく支離滅裂であると犬は混乱してどのように判断していいのか迷ってしまい、最終的には主人を無視して自分勝手な行動を繰り返す。基本的には一度教えたことは永久に変わらない人間と犬の間の約束事となる。その約束事をきっちり守ることがお互いの信頼関係を築くことでもある。
こう考えてみると、
犬のしつけの話しが、そのまま人間のしつけにも通ずるものがある。まずは、集団生活の必要性であり、お互いの信頼関係であり、お互いの役割に応ずる位置関係であり、一貫した考え方に基づく指導である。このごろの子供には、これらの要素が抜けているような気がする。核家族で一人っ子で鍵っ子で内向的で集団生活に乏しく、親子、師弟、先輩後輩、目上と目下、の関係において信頼関係が疎遠であり、上下の関係を強調して指導することが躊躇われる風潮にある。そして、周囲の者が自信を持って自己の信念に基づいて人格教育してやろうという気概も薄い。強烈な個性(猛烈教師やカミナリ親父、頑固爺)にガツンと打ちのめされるような機会も少なくなっている。犬のしつけと同じように早急に考え直さないといけないようである。手に負えない子供達が増殖しつつある。
このごろ、先生と生徒、親と子供が対等の友達の関係で教育することが理想とされている。
確かに理想かもしれないが、現実には難しいし、相手に強制することなく従わせることは神業に近く、教える側に聖人君主の才能を強要することになる。そんな人は居るわけがないし、そんな人を待っていたのでは教育はいつまでたってもできないし、教育の機会を失ってしまう。良くても悪くても自分の全人格、全身全霊をぶつけて教育する心がけが必要である。結果は後からついてくるし、結果に応じて試行錯誤、改善修正しながら教育するのが現実の姿だろうと思う。そして、教育の本質は上から下へである。上下の位置関係を明確に保ってやらなければならない。現実には強制できる権限と権威を与えないと教育は成り立たない。
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