3億円とはどんな価値があるのだろう。
三億円事件というのが1968年に東京の府中で起きて、犯人もわからず、お金も奪われたままで見つかっていない。50年以上前の事件であるから、現在の貨幣価値にすると、4倍くらいになるから、当時の価値は12億円以上になるかもしれない。庶民にすればとてつもない金額であるが、国の財政レベルでは端金に近い状況で一万円札を使うくらいの感覚で支出される。国の予算は総額が兆の単位で、我々庶民の家計は万の単位なので1億分の一だからまぁそんな感じになるのであろう。
改めて現在の3億円とはどんな金なのだろう。
日本の人口をわかりやすくするため1億人とすると、全国津々浦々のすべての国民から3円ずつ集めて回って、やっと3億円である。一人でやるとして、うまく行っても一生涯かかるかもしれない。そのくらいの労力を必要とする金額なのである。日本人の現在の生涯賃金が60歳まで同一企業に努めた男性の場合で約3億円である。一生涯かけて働いた報酬が約3億円なのである。
我々の感覚として、そんな気はあまりない。
お金の価値を軽んじているのではないかと思う。もっと大切に使うべきなのである。別にケチになれとは言わないが、金額を前にして、どれほどの価値観を持って等価交換しているのかをよく考える必要がある。自分にとってプライスレスな価値を持つものが格安もしくは無料で提供されるのであればどんな労力を投入してでも惜しくはないが、ドブに捨てるような行為は馬鹿げている。
鳥取県でアンディ・ウォーホルのアート作品を購入したそうだ。
アメリカのたわしの包装箱をモチーフにした作品5点を3億円で購入したそうである。どこに価値を見出すかはそれぞれであろうが、少なくとも芸術性は別として物質的な価値はどう考えても3億円とは思えない。レプリカでも十分であり、これでも大衆消費社会に対する投影と批判は訴えることができると思う。投資目的であれば、こんな芸術作品で金儲けする考え方には賛同できない。
生涯賃金は無駄に使われているわけではない。
日本国民として貢献し、家庭を築き、子供を育て、地域に貢献し、科学文化に貢献し、芸術を愛し、物作りをし、親孝行をし、子々孫々の幸福を支えてきたのである。それと等価のお金が芸術品とは言え、たわしの包装箱に支払われているのである。少なくとも、日本国民全員がそのものに3円の価値を見出してくれれば幸いであるが、興味のない人にとってはタダ同然以下のごみとなってしまう。
政府は経済振興政策として兆円規模の支出をしようとしている。
果たしてそのお金の価値を認識しているのかは疑問である。下手をすると宇宙規模のとてつもない数字である。そして、すでに国の借金として1000兆円あり、国民一人当たり1000万円となる。単純計算では説明できないかもしれないが、一つのものさしであることには間違いない。この借金は日本国民全員が2年以上タダ働きするくらいの金額である。もっとお金の価値を見つめ直す必要がありそうである。
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