今、毎朝電車で通勤している。
途中駅で乗り換えのために電車を降りるが、その時に我先に突進する人達がいる。出口付近で扉に向かって立っていると、横から身体を割り込ませて前に立とうとしている。思わず後ろに下がって譲ってしまい、ひどい時は最後尾で降りることになる。事情があって急いでいるのだろうと思っては見るが、同じ乗り換えのホームに立って同じ電車を待っている。一体なんだったのだろうと心の中で笑ってしまう。毎朝同じことが繰り返される。
私流には、先を急いで降りてもどうせ次で待つのだから意味がないだろうと考える。
ほんの少し先を読めば余裕とゆとりを持って行動できると思う。傍若無人にとにかく人よりも前に突進している姿は見っとも無く格好も悪い。とにかく人よりも前に出ていないと気がすまない気質には精神的余裕が感じられない。先を読まないからこんな行動に走るのだろうと思う。もしかしたら、先でどんなことが待ち受けているか分らないので、とにかく今他人より前に位置しておこうという考えているのだろうか。そう考えてみると、現代社会がそのようなセカセカしたゆとりと余裕のない風潮に包まれているような気がする。
心の余裕が持てないのは、先を読もうとしない、もしくは先が読めないからだろう。
先が読めないのであれば、とにかく今現在を優位な位置に置こうと考えるのは正常な行動である。都会のあわただしいセカセカした雰囲気は根本的には先が読めない社会にどっぷりつかっているということであろうか。先が読めないもしくは先を読んでも意味がないのであれば誰も先を読もうとしなくなる。先を読もうとしない生活が常態化してしまう。やっていることは無意味な他人との我先競争である。皆に遅れをとらないように流行に遅れないように時代に乗り遅れないように一生懸命である。油断をしていると取り残されてしまうという危機感を全員が持っているし、生き残るためには何が何でも早い者勝ちの先制主導を取ることを教えられる。
学校教育態勢もそうではないかと思う。
よく受験対策で「解らなかったら当てずっぽうでもいいからなんか書きなさい、もしかしたら点数がもらえるかもしれない」と指導されていたが、実社会においてこんな考え方をされたのでは大いなる問題を生む。解らないものは解らないと正直に答えるべきで、当てずっぽうのいい加減な答えを出されたのでは困ってしまう。仕事上で難問を抱えたときに、一か八かでいい加減な解決法をされたのでは困ってしまう。万が一という可能性に賭けられたのではたまったものではない。実社会での行動は信頼でき確実なものでなければ組織活動を乱してしまう。単独行動をしているわけではないし、単独行動をするにしても社会的な責任がついて回るのである。学校教育で実力を伴わないハッタリの積極性を助長するよりも勇気を持って「解りません」と言えるような指導することも必要である。
何をするにも、先を読むことは重要である。
目の前にあるものを盗んだら、他人に暴力を振るったら、他人を傷つけたら、嘘をついたら、決められたルールを守らなかったら等について少しでも先を読む努力をすれば無駄な労力を使ったり過ちを犯したりすることもない。先が読めないということは心に余裕がないのである。そして、先を読むことに絶望しているのである。自分の物語が作れないのである。感受性と創造性が欠落し、空想し想像する力がなくなっているのだと思う。現実的で即物的で現在起こっている事象にしか反応しないような生き方をしているのだと思う。このような人達に周りの人がいくら物語を言い聞かせても受け入れてはもらえない。そんな光景はテレビ画面の中の暴走する若者のインタビューに頻繁に登場する。この人達は物語を作れないし物語を作ることを教えてもらっていないようである。
世の中が不況の時は無理して金儲けする必要はない。
次の好況の時のために実力を養い体制を強化すればいいと思う。それなのに不況であればあるほど形振り構わず金儲けに専念する。やはり余裕がないんだなぁと思う。ちょっと先読みすれば今何をしなければならないかが解るし、過去にちょっとでも先読みしていた人はこのくらいの不況にじたばたする事はないはずである。不況で皆が金を出し渋っているのは、やはり先が読めないからである。この辺のところには政治の責任がある。不況を克服するために無理やり経済活動を活性化させてもあまり意味がない。将来の見通しと希望が持てるような政策を行えば先読みができて金の出し渋りもなくなりおのずと経済活動は活発化するのだと思う。
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