国と国の付き合い方は個人と個人の付き合い方に相似している。
例えばA国がある外交政策を表明しても、周囲の国は賛同するもの、反対するもの、どちらでもないもの、無視するものなどの反応を示すのだろう。だからといってある外交政策を表明したA国に対して周囲の国が自国の政策を強制する権限はない。A国がB国に対して外交政策を表明するときは、当事者はA国とB国であり、その他の国は第三者となり、この政策に対して直接意見を表明し影響力を発揮する事は本来であればできないはずである。また、第三者としての見解しかないはずである。そのようなことを考えると、現代の外交はおかしなことばかりの気がする。
外交には正義を持ち出さないほうがいい。
正義は一方的なものであり、片方が正義を唱えれば、もう一方にも正義がある。正義と正義の戦いになるが、国際社会ではどちらが正義かを決定する機能が不完全である。力の強いものの正義が無理やり強行されるのが現在の世界外交のようである。よって力のあるものと力のないものの戦いが展開され、正規戦では通用しないので非正規戦が主流の世界に突入しつつある。歴史的な事実から真実を追究し、外交の手段として活用する手法もあるが、歴史的な事実の評価と判断にはこれまた各国の主観が入り込み、自分勝手な解釈を繰り広げることとなる。
それでも、外交政策の根拠は事実に基づくべきだと思う。
過去の事実を積み重ねるしか方策はない。全てを包括的に評価してある一言で断言してしまうのは危険でさえあるし、対立を呼び真実から遠ざかることとなる。真実は真実であって評価されるものではない。また、真実とは善悪や利不利を含めての事実であり、自国に都合のいい事実だけを集めて自国の政策を展開しても説得力はない。結局は最低限が現状維持であり、プラスを最大限にしてマイナスを最小限にする努力を日々積み重ねるしかない。そして、時には予想外のプラスや甚大なマイナスが到来することがある。これもまた通常の仕方ない事である。
ある国がどんな外交政策を表明しようと勝手である。
周辺各国はその外交政策に対してあれこれ注文をつけ強制させる権限は基本的にはない。その政策を自国なりに評価し自国なりに対応するだけである。その対応の仕方で結果的に外交政策を表明した国の利となるか不利となるかが決まる。だから、外交政策を表明する時は慎重な判断が必要となる。何かを犠牲にして自国の目指す目的を達成すべく奮闘努力しなければならないし、過去からの一貫性も必要だし、確固たる将来展望も必要である。外交政策を誤まれば国は信頼を失い孤立化し衰退することとなる。強烈な外交政策を強行すればするほど危険度は増大し、犠牲も大きくなる。そこまでして自国の目指す目的を追求すべきかを良く考えなければならない。
外交政策は事実に基づいた政治的判断の地道な積み重ねである。
事実に基づかない政治判断は客観的で科学的な分析を阻害し、誤まった方向へ国を導く。また、総括的な評価も政治判断を誤まらせる。国のあり方を総括的に評価する事は現実的に困難である。もしあっても、それはその瞬間での評価であり、その評価は次の瞬間変化している。当然、そのような評価に基づいた外交政策に説得力はない。現実は目の前に存在する小さな事実に基づく外交政策の正当な判断の積み重ねでしかない。この判断の一つ一つが国の外交政策を形づくり、周辺各国からの理解と協力を勝ち取る事ができる。小さな事実を脚色してはならないのである。
もうひとつは、自国の過去の外交政策の過ちに対する対応である。
これも客観的科学的分析に基づいて判断し、それ相応の対応を確実にしなければならない。善悪判断でもないし評価でもない。行った事実一つ一つに対する処置である。これを確実にする事が重要だと思う。周辺諸国に悪影響を及ぼした反省と謝罪と償いはしっかりとやらなければならない(やっているはずである)。この対処が確実であれば周辺諸国に対する自国のマイナス点も回復でき、将来的にも一貫した外交政策が展開できる。これを有耶無耶にして確実に清算できなければ以後の外交政策展開は危うくなる。あんまり複雑怪奇な思考過程や種々雑多の評価に振り回されないで、素直に単純に生起した事実に基づいて対処していけばいいと思うのが私の感想である。
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