岩田亨の短歌工房 -斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・短歌・日本語-

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石狩川河口の波を詠う・斎藤茂吉の短歌

2011年05月24日 23時59分59秒 | 斎藤茂吉の短歌を読む
・わたつみの海に近付く石狩川かずかぎり無き浪たちわたる・

「石泉」所収。1932年(昭和7年)作。岩波文庫「斎藤茂吉歌集」166ページ。

 斎藤茂吉の自註がある。

「石狩川を船でくだり石狩までいったときの歌である。下船した町は海浜に近く、ハマナスなどが赤く熟していた。その日の石狩川は、雨後であったので、濁流天上より来るといふいきほいを示し、少年のころ、日本第一の大河として教わったその河を上下して、感慨を深くしたのであった。人事と川との関係は親密であるが、歌は自然的方面のみを歌ったのであった。」(「作歌40年」)

 斎藤茂吉は伊藤左千夫から「理想派」と呼ばれたことがあった。みずからも「空想癖があって、それを除こうと苦心した。< 塩原行 >のあたりから、わりと写生風にうまく行くようになった。」と書き残している。それを実行したのが、「自然方面のみを歌った」の主な内容だろう。

 また「石泉」以降の「白桃」「暁紅」「寒雲」「のぼり路」は戦争中の歌集で、特に「白桃」から「寒雲」までは「戦中三歌集」と呼ばれ、「のぼり路」は皇紀2600年の祝奉歌や高千穂の歌など、ナショナリズムに裏打ちされた作品が多い。(岡井隆著「茂吉の短歌を読む」)

 その意味で、「石泉」の収録歌は、自然詠に無心に取り組めた戦前最後の作品と言えよう。

 だがその詠いぶりは「白き山」の最上川の一連の作品群には及ばないように思う。それは「白き山」が戦争責任を一身に受けてなお生き続けなければならなかった慟哭のなかで詠われた作品だからと僕は思っている。

 戦争に協力した歌人は他にも多かった。斎藤瀏、太田水穂、土岐善麿や土屋文明も例外ではなかった。それなのに、という思いが茂吉のなかにはあったに違いない。

 さて冒頭の作品だが、北海道の旅は天塩・稚内・サハリン(樺太)・稚内から旭川、層雲峡、石狩・十勝・釧路・阿寒湖・根室・石狩川くだり・支笏湖・苫小牧・白老・登別・函館・湯川温泉(釧路郊外)とつづき、十和田湖をへて帰京する。

 旅のきっかけは北海道在住の次兄守谷富太郎の死であり、肉親の死に合って茂吉は左側不全麻痺症状を呈したほどだった。(塚本邦雄著「茂吉秀歌・つゆじも~石泉」)茂吉は神経が細かったようである。長男の茂太によれば自律神経過敏だそうだ。(斎藤茂太著「茂吉の体臭」)





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