岩田亨の短歌工房 -斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・短歌・日本語-

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浅間山噴火の音の歌:佐藤佐太郎の短歌

2011年09月30日 23時59分59秒 | 佐藤佐太郎の短歌を読む
・爆発の音ききしよりものぐらくなりし木立に石おつる音・

「群丘」所収。1961年昭和36年作・・・岩波文庫「佐藤佐太郎歌集」118ページ。

 佐太郎の自註から。
「このごろ浅間山の爆発(昭和48年)があったが、私はそのまえの昭和36年夏の爆発のとき、軽井沢の千ヶ滝に行っていて爆発に逢った。突然に底のぬけるような音がしたかとおもうとあたりがにわかにうすぐらくなった。半天を黒く噴煙がおおっている。その曇のなかににぶい鳴動の音がこもっていた。ただならぬけはいで鳥が飛んで黒い空のなかに、消えてゆく。そのうち石が降って来た。屋根や木の枝をうつ音が一瞬一瞬にはげしくなって、屋前の青田の水がたちまちに濁った。」(「作歌の足跡-海雲・自註-」)

 この作品では「音」の語が二度出てくる。普通こう言う表現は避けるのが順当だ。だがここでは「二つの< 音 >」が時間的経過を示している。

 つまり最初の「音」は爆発の音であり、次の「音」は石の降る音である。だから意味としては「爆発の音」→「石の落ちる音」となるはずで、「・・・・ききしより・・・なりし・・・(の)音聞く」となるはずだが、その「聞く」または「聞こゆ」が省略されている。

 それが緊迫感をあらわしているという読みもできるが、重出はよくないという読みも成り立つ。おそらく後者の意見が歌会などで出てくるだろう。最後が「音」では終止形がないという意見とともに。

 このどちらか。おそらく佐太郎はそういうことは百も承知でこのような表現を使ったのだろう。それほど切迫していたのだ。

 佐太郎の作品は、「一瞬を切り取る」ものが多い。だから冒頭のような読み方は珍しい部類にはいる。

 それをあえて表現方法として取り入れたところから、爆発の激しさ、驚きなどが湧きあがってくるように僕には思える。こういう方法もあるのだ。しかし「突然の噴火」という対象だから通じるので、常にこういう表現方法が通じるとは限らない。

 表現したい内容が表現方法を規定するのでその逆ではない。そういうことを教えてくれる作品だ。僕の知る限りこのような表現方法をとったのは、佐太郎の作品の中ではこれだけである。そういう覚悟で佐太郎も詠んだのだろう。



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