創造雑感

創造雑感ノート

今日は阿部勉氏の命日である。23年経た。

2022-10-11 12:04:38 | 雑感 人生 世界観 芸術表現

今日は阿部勉氏の命日である。23年経た。

故阿部勉氏は私が企画プロデュースした日本青年館大ホールでのイヴェント「三上寛、友川かずきコンサート」に後で加わった。

 

ポスター写真を撮影する為に多摩川土手へ行った。(写真撮影・鬼海弘雄氏)


今は亡き故阿部勉氏と故天野哲夫氏。或る女流作家の受賞記念パーティー会場にて。


今は亡き故阿部勉氏と故天野哲夫氏。或る女流作家の受賞記念パーティー会場にて。
天野哲夫氏は「家畜人ヤプー」の実作者である。芥川賞の選考に落ちた中から三島由紀夫氏が「家畜人ヤプー」を見出した。
.....彼が家畜人ヤプーの最後の原稿を三島由紀夫氏の自宅に持参した当日に市ヶ谷の自衛隊駐屯地にて自決した.....。
....会場を抜け出して阿部氏の自宅の近所にある居酒屋にて紹介される。世間の噂では変人扱いされているが深い悲哀を秘め、透明感があり、博識だが頗る真面目な人物であった。以後、彼はその後、新作の「家畜人ヤプー」や「自伝」等を送ってきた....

 

阿部勉氏が私の作品を本の表紙に使っていいですか、と聞いてきたので私は「良いですよ」と返事した。

........その著作の出版記念パーティー会場にて。

 

 


魂の琴線

2022-06-16 04:00:25 | 雑感 人生 世界観 芸術表現

 

魂の琴線


よく相手の琴線に触れるという言葉が用いられる。

無論、琴線といっても各自各様の琴線があり決して一様ではない。
さらには琴線に触れるという行為自体が既に相手の中に踏み込んでいる。
踏み込むという物言いは拙い喩えである。

不可視なる魂、心の中に踏み込むという行為自体不可視的なものだからである。
さらに言えば、踏み込む相手の心の有り様が観えていなければ琴線云々とは論外事なのである。

数打てば当たるというものでもない。

言葉と心のある種の化学反応のような精妙な変化を洞察し得る魂の所有者は簡単には琴線には触れぬ。
ちと、難解な物言いをすれば『忌憚無し』の言動を慎む。
和さずとも動じない、という言い方も出来る。

徹底的な相対的立ち居地を保持しつつ即し即さない。

また『君子は豹変す』ともいう。
これは物言いは違えども同じ事である。

いふもかたるもならじとや
これいかにせむ

己の身の処し方は各人各様なれば
各人各様の処し方がある、という言動がある。
曰く、さじ加減とは実に巧妙な言葉である。

透徹した老獪さと無邪気さとは表裏の関係であろうか。


「小林秀雄の「モーツァルト」より

2022-06-15 15:49:05 | 雑感 人生 世界観 芸術表現

 

 

「小林秀雄の「モーツァルト」より

下記の文章は小林秀雄の「モーツァルト」に関する内容をシュタイナーの「自由の哲学」的観点から考察したものです。

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私が小林秀雄の「モーツァルト」を読んでいてどうも引っ掛かる内容があると書きましたが、それはモーツァルトが如何にも溢れるように易々と音楽作曲を行っていたかのように考察されている事です。
モーツァルトの手紙が3章の最初に引用されています。
「――構想は宛も奔流の様に、実に鮮やかに心のなかに姿を現します。 後略」

この手紙だけを読むと確かに小林秀雄が「言わば精神生理学的奇跡」と驚嘆するのも不思議ではありません。
しかし、下記にあるモーツァルトの手紙を読むと作曲が易々と出来たものではないという事が分かります。
小林秀雄がこの手紙を読んでいなかったのか、或いは、知っていて敢えて無視したのか、という事です。
モーツァルトがどれ程神童であったとしても、「作曲に関しては音楽家で自分以上に考えたものはいない」と断言しているという事は、モーツァルトに尋常ではない天性の素質と集中力があったにせよ作曲創作に関しては相当の苦労があったという事になります。

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「モーツァルト ウィキペディアより」

死去する3年前の手紙[11]に自分自身のことを語っている。
「ヨーロッパ中の宮廷を周遊していた小さな男の子だったころから、特別な才能の持ち主だと、同じことを言われ続けています。目隠しをされて演奏させられたこともありますし、ありとあらゆる試験をやらされました。こうしたことは、長い時間かけて練習すれば、簡単にできるようになります。僕が幸運に恵まれていることは認めますが、作曲はまるっきり別の問題です。長年にわたって、僕ほど作曲に長い時間と膨大な思考を注いできた人はほかには一人もいません。有名な巨匠の作品はすべて念入りに研究しました。作曲家であるということは精力的な思考と何時間にも及ぶ努力を意味するのです」
出典
[11]:ドノバン・ヴィクスレー『素顔のモーツァルト』清水玲奈訳、グラフィック社、2005年 
     

――――――
何故、小林秀雄はこの様な「モーツァルト論」を書いたのか?という事になります。
小林秀雄が自ら言ったように此処に読み手が口づてに直に読み解き、噛み砕かねばならない「糸口・論点」があります。
小林秀雄に限りませんが、批評の物差し、根幹は自分自身の経験、体験に裏打ち、血肉化された個人の人生に対する見方、立ち位置です。その徹底度に応じて他者の意識状態等が考察されます。

郡司勝義氏は小林秀雄の身近な編集者で、小林秀雄の事を書いた著作「小林秀雄の思い出」があります。
その著作の中で小林秀雄が志賀直哉を評した短い一文があり、「志賀氏の眼は、小説家の眼というより寧ろ画家の眼だと思います、言葉にわづらはされてゐない点では、画家の眼は、小説家の眼より、ずっと冷酷なのです。」と。
この「冷酷な眼」というものはレオナルド・ダ・ヴィンチが自分の弟子が「物を盗む時の身体の様子、心理と肉体の動き等」を冷徹な科学者の眼差しで観察した如きものです。

私自身の事で恐縮ですが、私自身が幼少期から人間存在に対して抱いていた観察眼と同じものです。自然界の摂理に従わずに好き勝手に生きている人間共は何と不純極まりない生き物か、と。
私は皆様にも過去に何度も自分自身の幼少時の時の意識状態を語っていたと思います。
私は既に「相対的意識」が感覚的レベルで天性のものとして具わっていました。
この相対的意識状態はあらゆる「物事」を公正に観る、いわば獣のような眼差しです。無私、無常観とも言えます。この意識状態を保持しつつ、自分が自由に人間社会で生きる事が可能な画家という職業を選びました。

私が先に「表現について」で引用した小林秀雄の「生活するだけでは足りぬと信ずるところに表現が現れる。表現とは認識であり自覚なのである。いかに生きているかを自覚しようとする意志的な意識的な作業なのであり、引いてはいかに生くべきかの実験なのであります。こういうところで、生活と表現とは無関係ではないが、一応の断絶がある。悲しい生活の明瞭な自覚はもう悲しいものとは言えますまい。」
この引用文の「悲しい生活の明瞭な自覚はもう悲しいものとは言えますまい。」という意識状態はそのままモーツァルトにも当てはまります。
モーツァルトは一般的な、個人的な意味での悲しみとか孤独のような感情は皆無であった、と。これは私自身がそうであったように、です。
モーツァルトの感情は無機質で意識空間は乾いている。あえて言えば、俵屋宗達と尾形光琳に例えれば尾形光琳の方です。
私はモーツァルトの音楽を聞いても透明感は感じても感動は全くしません。
彼の音楽には乾いた相対的意識、虚無感があるからだと感じます。
それは雪舟の相対的世界観の表現に類似したものです。
それとロダンが作成したモーツァルトの肖像を「前略 ロダンの考えによれば、モーツァルトの精髄は、表現しようとする意志そのもの、苦痛そのものとでも呼ぶより仕方のない様な、一つの純粋な観念に行きついている様に思われる。」と、書かれていますが、これは小林秀雄自身の肖像でもある。表現されたものは自分自身を写し出す鏡でもあるからです。
ロダンのモーツァルト像にはあらゆる人間心理、感情が彫刻の内部に充満している。しかし、感情の根源的意志の実体は顕れてはいない。このロダンの表現に顕れてはいない根源的意志を如何に顕そうとしたのかがブールデルであった。ロダンの彫刻表現は人間の感情表現に於いてのみ巧みであったからである。
さらには、モーツァルトは純粋音が絶えず、魂・精神の裡に鳴り響いていて音以外に自分を的確に顕す以外の方法は無い、言語化は困難であった、と言っている様に日常生活の人間関係では頗る浅薄、いい加減な対応しか出来なかった。

これは彼がまだ「倫理的個体主義」に至っていないからです。

「モーツァルト」に小林秀雄が詩人ステファン・マラルメの言葉を引用した「すべての書は読まれたり、肉は悲し」とは「自由の哲学」第五章に考察されている、
「前略 人間は限界づけられた存在である。第一に人間は他の諸存在の中の一存在である。人間の生活は空間と時間に従っている。それ故、常に全宇宙の特定部分だけが彼に与えられている。―中略― この自己知覚は、思考による自己規定と区別されなければならない。思考を通して外界の個別的な知覚内容が世界全体に関連づけられるように、私は思考を通して自分自身の知覚内容を宇宙のいとなみの中に組み入れる。自己知覚は私を特定の限界内に閉じ込める。思考はこのような限界にとらわれることがない。この意味で私は二重存在であると言える。 後略」
マラルメの「肉は悲し」とは上記の「自由の哲学」(シュタイナー著・高橋巌訳)に考察されている自己知覚にすぎません。 

ただ、小林秀雄には前にも書いたように「情」を完全に払拭する事が出来なかった。これが小林秀雄の長所でもあり弱点でもあります。
無論、良し悪しの問題では決してありません。
小林秀雄の基調低音「いかにかすべきわがこころ」は人間存在に対する「深い真面目な愛」ともいうべきものです。
しかし、この小林秀雄の意識状態に留まる事は出来ません。さらに深く自己認識をすることが人間には求められているからです。
シュタイナーの世界観、倫理的個体主義の意識状態に至るまで我々人間は進化しなければ本来の人間とは言えないからです。

シュタイナーを学んでいる限り、小林秀雄が「モーツァルト」の中でゲエテのファウスト考察で用いた「八重の封印」を胸中深く蔵しつつ現実生活を歩まねばならない、という事です。

今日の世界の現状を観ると、本当に眼がくらむ程遠い道程です。
例え、遅々とした足取りでも自覚した者は確実に歩むしかありません。


「人類の課題及び死生観の欠如」

2022-06-11 22:09:20 | 雑感 人生 世界観 芸術表現

 

過去に繰り返し書いた内容の文章です。

文章が若干長く、又一見小難しい内容です。ゆえに活字が苦手な方はスルーするか無視してください。

 

「人類の課題及び死生観の欠如」

 

 我々人類が直面しているあらゆる現象は全て自業自得である。

 これを自覚し得ぬ者は死生観の欠如と真の自己認識探究の怠惰にすぎない。

 この見解は殆どの人間と称される存在達に頗る不快の念が生じるであろう。「死んで花実が咲くものか」とい

う生物的生に呪縛されているからだ。

 今日に於いて各民族、種族等の境界など既に存しない。だが、これはまだ未だ少数の人物にしか自覚されていない。遥か高みの理想に過ぎぬ。

 各自が人類としての自覚を自得出来ぬ限りこのいたちごっこの闘争は終わる事はない。

 所詮、浅薄な平和主義、共生云々等ではこの状況は打破出来ぬ問題であるにも関わらず、である。低次元の闘

争など論外である。

 とはいえ、まだ今後も悲惨、暗澹たる陣取り合戦の如き様相は続くであろう。

 

ーーーーー

 

 この考察は、私が前から何度も繰り返して言い続けている内容である。

 

 私という自覚が無ければ世界も他者も認識の対象たり得ない。

 ただこの我々の用いている思考とは単なる個人の所有物でもない。我々人間に本来備わって、用いている普遍

的な「思考存在・実体」でもある。

 この思考の考察、頗る重要な問題は今日の時代に至っても厳密には考察の対象にはされていないのが実情なの

である。

 我々は如何なる時にでも思考を用いている。思考の結果我々は様々な、或いは各個々人に相応しい行為に及ぶ。

 この思考に関する考察という問題は共通の意識状態、基盤に立たぬ限りは限りなく紛糾する。思考そのもの、

思考の実体を物の如く指し示すことは出来ないからである。

 この考察自体が其々各自の主観に基づくもののとして簡単に処理されてしまう。

 此処に紛糾の問題が含まれているのだが、これは感覚界にあるあらゆる事物を知覚するようには知覚できな

い、という単純な理由による。

 万人が共通に認識し得るような数量化不可であるという、これまた単純な根拠に依る思考法が殆どの魂を呪縛

しているからである。これを物神思想とも言う。
 
 この物神思想とは唯物論的世界観的思考法を基盤とした極一般的な私を含めた世界に対する認識法なのであ

る。この呪縛を打破するのは容易ではない。

 私が死ねば知覚する「主体」である「私」は消え去る。私が消え去るとすれば「知覚する私」が存在しない以

上は世界を知覚することは不可能である。
 
 ゆえに「私が消滅すれば世界も消滅する」という彼の有名な唯物論的基盤に立脚した観念的世界観が生じる。

この世界観は今日でも衣装、概念は違えど殆どの哲学者と称する存在達の魂に根深く巣食っている。この世界観

が既に日常的に、習慣的に用いられている。

 

 さて、これは日常生活を営む人々、存在だけではなく芸術表現する存在達の魂をも深く浸食しているのであ

る。

 近代から現代に至るまでに個々人を襲った受難劇とも謂える悲劇劇は今や意匠となって芸術を蹂躙していると

いっても過言ではあるまい。

 

 先日或る先駆的抽象画家に対して知名度のある学者と文学者がテレビで語っていた。実名を挙げても大して意

味はない。殆どの自称他称博学、識者と称される人物の代表のようなものだからである。

 

 抽象表現形式が生じた要因は必然的なものである。これは思考の考察にも似た困難な問題を含んでいる。

 簡単に言えば、無知の知や不立文字、相対的意識、虚無、空等々の概念、意識状態と同質の意識状態、或いは

自己認識の個人の限界の自覚であるが、これは到着点ではなく此処の地点が真のスタート地点である、と言えば

大抵の人物の思考は混乱する。単に事物を公平、純粋に偏見なく観る一視点にすぎぬ、と言い切れば反感さえ抱

かれるであろう。

 さらに換言して言えば「我々はやっと自己認識の真のスタート地点に立ったのだ」と。この物言いは「おまえ

は何様のつもりだ、偉そうに」と。傲岸不遜極まりない人物と看做される。

 我々の時代に至って、あらゆる境界は消失した。この消失は個人の魂に内的倫理的な課題を自らが背負わなけ

ればならぬ、という自己責任と自覚が伴う。

 

 この自覚は個々人の趣味趣向や個人的興味なども完全に消滅することを意味する。この個人の受難劇はあらゆ

る表現形式に及んでいる。この重責に耐えきれずに殆どの先駆的表現者は斃れた。この難破、方向を見失い自滅

した魂の「表現者達の作品」を一瞥すれば分かることである。

 

 今日、難破した魂状態は依然として打破されずに百花繚乱の如き様相を呈している。

 


「内的神秘体験」

2022-06-10 23:00:10 | 雑感 人生 世界観 芸術表現

 

「内的神秘体験」

 


二十六歳の時に私の精神、全意識を震撼させ一変させるような事件が生じた。

私は当初、自分自身に何が起きているかが分からなかった。強烈な魂の内的神秘体験であった。私の持っていた足場が一挙に消滅した。

 

       *

 

私は自分自身の心身を保つためには言葉が不可欠であると痛感した。

私は私の様な体験をしている人物を歴史上に探した。私の体験した状態を理解できるものは身近には存在しなかった。

私は最も不快というのも不快な人間界に自ら踏み込む羽目になったのである。

私は言葉の世界に踏み込むのに若干の不安はあったが払拭し、強固な覚悟で未知の世界に踏み込んだ。まず、骨格として哲学、肉付けとして心理学、さらに人間関係の処し方は文学と。無論、店の仕事をしながらである。私は近所の書店を片っ端見て回った。私の異常な直感力と高速で活動する思考は書物の背表紙に書かれているタイトルと著作の頭と最後の数ページを読めば描かれている内容はすぐに分かった。

私は哲学者ニーチェの「ツァラトゥストラ」が自分の極度に緊張した日々の意識状態のバランスを保持するのに適していた。ニーチェの翻訳された著作は殆ど読破した。哲学者はプラトンやアリストテレス、ヘーゲル等、山頂に居る存在を主に読む。他はその亜流に過ぎない。

近代のニーチェやアルチュウル・ランボオ以降に影響を受けた一般に実存主義と称される哲学、文学は相対的世界観に呪縛され、無方向が方向、或いは無意味が意味という実体無き世界観を基点とした考察でしかなかった。

絵画ではキュビスムから抽象表現へという運動が連動していた。相対的意識とは一切の事物を公正に、偏見なく観る、という一視点にすぎない。ただ、単なる動物ではない人間が目的や方向を喪失したらどうなるかは言わずもがなである。

私が文学作品に触れたのは十五歳の時で、兄が所有していた文庫本であった。読んだのは二、三冊程度である。ゾラの小説を読んだときは背筋に寒気が走った。人物も含め、光景、情景描写がただの眼、それも単なる肉眼のみで捉えられていた。ゾラの世界観は自然科学的観点から書かれていた。私はセザンヌが旧友のゾラと袂を分かった意味を理解した。セザンヌはリンゴも人物も同じだ、と言っていた。さらに構成を重んじ古典的なバランスと深みを求めた。しかし、セザンヌの胸中には深い信仰心があった。彼に影響されたピカソはその相対的意識の徹底的な表現に衝撃を受けたのである。既にピカソはニーチェやアルチュウル・ランボオを読み、知っていた。私が私であって私ではない、しかし私は私として存在する。この足場無き空間に於いてわが身を世界と如何に処すべきか?と懊悩していたからである。

その後の抽象表現者達の悲惨、悲劇とも謂える内的苦悩は相対的、虚無的世界観を打破し得なかったという点にある。多くの抽象表現者たちは東洋的無常観に支えを求めた。相対的世界観の浸食は速度を増した。一切を等価値と看做す思想の影響は哲学や心理学、文学にも及んだ。

私が私であって私ではない、それでも私は個体として確かに存在する。この意識状態で生存が無意味であるという地点に留まり、一歩も先に行けぬとすれば通常の個人は耐え得るものではない。観念的、心情的であれ、この足場無き空間に魂は耐えきれずに自滅、破滅、難破する。

 

私は日本にも私と似た、或いは同じような体験をした人物はいるのかと探した。私が見出したのは小林秀雄であった。