「壁」写真
自然の風雨、時が作り出す様相は芸術的です。
此処のブログに引っ越しして16日経った。
このブログにインポートしている記事ですが、読むと一部文字化けしているので改めて掲載します。
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ヴァレリー著「テスト氏」(小林秀雄訳 創元社)
先日、ヤフオクで「ヴァレリー著テスト氏」小林秀雄訳の初版本(昭和14年)が500円で出品されていたので落札した。
私は清水徹訳の「テスト氏」は随分前に読んだことがある。
小林秀雄の翻訳はどのようなものであるか、興味があった。
さすがに難しい旧漢字が多くて辞書を引きつつ読んだ。
小林秀雄はこの創元社から出版する7年前に翻訳、二三訂正して出版した、と書いてある。
31歳と言えば彼が孤軍奮闘しつつ批評活動していた時期である。
「テスト氏」の翻訳文からは小林秀雄の張りつめた緊張感、悲壮感、激しい熱情が感じられる。
小林秀雄自身の翻訳序文の文章にも何とも名状し難き激しい、祈りにも似た想いが込められている。
「前略 『人間』がそのまゝ純化して『精神』となる事は何の不思議なものがあろうか、人間が何物かを失ひ『物質』に化す事に比べれば。 -中略ー 僕は繰り返す。何處にも不思議なものはない。誰も自分のテスト氏を持ってゐるのだ。だが、疑ふ力が、唯一の疑へないものといふ處まで、精神の力を行使する人が稀なだけだ。又、そこに、自由を見、信念を摑むといふ處まで、自分の裡に深く降りてみる人が稀なだけである。缺けてゐるものは、いつも意志だ。」
小林秀雄はヴァレリーと親和融合しつつ作者の意図を汲み取り、自分自身の言葉に置き換えて翻訳する。
この小林秀雄訳「テスト氏」を読んだ或る読者が恫喝するような小林秀雄訳よりは清水徹訳の方が分かりやすい、などと感じるのは真摯な自己探求をせぬ己を恥ずべきだと思う。
2020年07月04日
「日常の聖性と秘儀」
我々人間存在にとって「生存の謎」という問いを真摯に探求考察すればするほど謎は深まる。さらには謎が謎を呼び、仮に解き得たにしても現実に於いての問答はさらに紛糾する。此処には特に不思議はない。
あるのは単なる個々人のありとある個々人の個人的有り様、個々人の執着の問題に尽きる。
これら個々人の一切の意識状態をも空気を吸うように呼吸するように変容した者は日常のあらゆるものに聖性と秘儀をも知覚する。
ここには、いわゆる自由とか孤独といった類の概念は消滅する。
さながら光の海の如き概念の網の目が融合し、生成流動が止むことはない。
時空無き時空を意識自体が活動する
精神化された意識そのものは遠心と求心の核であり母体空間でもある。
(2010-10-10記)
10年以上前に書いたものです。
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「底なしの絶望」
個人の魂が底なしの絶望を味わって自滅せずに生きられるか?と。
かかる問い自体が「それは実際にその状況に為らなければ分からぬ」との返答が当然と思われる。
では、その底なしの絶望から希望や光を見出した魂も存在する、と言えばどうであろうか。
「そんなことは信じ難い、仮にそのような人物が居たとしてもその人物の思い込み、主観的体験にすぎぬであろう」と、殆どの人々は思うであろう。
人々の懐疑は尤もである。大体底なしという概念自体が疑わしく感じられるからである。底なしの基準など何処にあり、誰が規定するのか?と。
又、絶望自体も個々人の主観であり、さらに言えば希望や絶望という概念自体が我々人間が作り上げた単なる記号にすぎぬ、と。
我々人間があらゆる対象を区別する為に言葉という記号を対象に与えた、可視、不可視の対象全てに、と。
この観点は唯物論的観点に依拠した考察である。此処に於いては常に「死」がゴールになっている。この観点から生じる心理学や哲学的考察は自然科学的明証性を必要とする。
そしてこの観点からの考察は我々の魂に一切の希望を抱かす事は出来ぬ。
死ねば終わりという考察から導き出されるのは刹那的虚無的言動である。
動物界に依拠する、或いは等しい足場では我々人間の抱く理想など幻想妄想の類でしかないのである。夢を夢見る幼き無知なる魂の所有者と看做される。
「酔生夢死」とは疲弊した人物から吐き出された言葉の洒落にすぎぬ。又、深読みは意味をなさぬ。
人生は夢であり、夢を夢見る人物も是また夢の中で夢見る愚者であり、それを悟った者のみが真の覚者であると。故にこの世に於いてはただ一切をただ観ずるのみである、と。ただ在るがままに在る、それに全てを委ね任せる事こそが生きると言う事、真の生き方であると。
本来の生き方を問うこともなく何物にも囚われず淡々と、悠々と生きることが覚者の生き方、人間の生き方である。かくいう人物の魂は方向性も生じずただの物、そこいらの石ころと何ら変わることがない。ただ彼らは言うであろう。
「我々が真理を知ろうと如何に足掻き考えても無駄である。何故なら結局は一切は生成死滅する、全ては無常なるものである。かくも簡単な真理に果ては至る。それを真に知るまでに至るものもあれば至らぬ者もいる。故に生ある内に楽しむも良し、苦しむも良し、嫌でも全ては滅する事である」と。
このような魂、意識状態で留まる存在は「底なしの絶望」を体験し得ないし、漆黒の闇の状態に耐えられぬであろう。
真の自己認識は「底なしの絶望」の渦中に於いて光明を見出す。
これは個人の魂が震撼しつつ魂の裡に於いて内的実体験を伴い、初めて知る事柄である。
過去に書いた文章。
書き方は変化してもその意図する内容は今も変わらない。
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「雑感・死生観」
この問題は私にとっては既に日常の意識となっている。
だが、多くの人々にとってはそうではないようである。
我々が『生きる・生存』ということにおいて最大の問いは『死』である。
生物としての生は自然界の摂理による生成死滅を繰り返している。これは自明の事すぎて考察するまでもない。
ただこの自然界の『生の為の生』という基点にのみ考察された世界観は必然的に無常観へ至り、これ以上の認識は不可能とされる。
この意識状態が体得された状態を空とか個的悟り等々、つまり孫悟空に代表される世界観である。
今日この孫悟空と相対的世界観は全体的に親和している。
『死』の問題は哲学の最も基本命題でもある。
我々は個体として、この物質界・肉体があるからこそ自分・私が生きていると実感する。
ゆえに『私・肉体』が消滅すれば世界・自然界も知覚不能である。
この単純明快で幼稚な考え方は誰でも受け入れやすい。
この考え方は方向性をも消失させる。
有能無能に関係なく、死ねば終わりである。
我々は常に死に向かっていると。
フロイトの浅薄な心理分析が一般に理解しやすいのはこれゆえである。
似て非なる考え方もある。
『よく生きることは、よく死ぬ事である』
これは単純な物言いであるが解釈しだいでは相対的世界観と同じでもある。
簡単に言えば『寄らば大樹の陰』である。
依拠する大樹が理想、国家、教義であるを問わず、そこには『私』の喪失がある。
個体的存在である『私』の問題は単に物質体・肉体に限定されるものではない。
これも実証不可能のものは全て主観である、と一蹴される。
主観とは我々個々人の一視点にすぎない。
思考による一考察の結果である対立概念のひとつが世界観となったら一切がいびつになる。
だが、この歪(いびつ)の世界観に殆んどの存在は麻痺し、慣れてしまっている。
死と生は自然界の摂理と同じく循環している。その循環を唯物論的視点で捉えれば単調な生にしか観えぬのも当然である。
これでは『死』という恐怖の呪縛から解き放たれることはないであろう。
今日の世相・状況はこの恐怖というものに蓋をした、しようとする行為、逃避のあらゆる現象の上ですこぶる饒舌である。
2005年01月16日