勇気を振り絞り大きく重いドアをゆっくり開けた。
ギーと云う不気味な音がしそうな程、不安な心を写し出すそのドアを開けるのが
怖い。
ドアの向こうに、期待する応えが待っているようには到底思えない。
でもこれからの自分の説得に、全てのシベリア孤児たちの命運がかかっている。
自分の説得の失敗は、しかも最後の頼みの綱であるチャンスを落とすとは、イコール未来あるはずだった孤児たちの見殺しに直結する。
守ってあげるべき大人たち。
でもなす術もなく、消え去る大切な幼い命。
その残酷な結末を誰が直視できるだろうか?
今、彼女たちの置かれた救出作戦の状況を、バレーボールの現代の国際大会の試合に喩えると、宿敵である絶対負けられない命を懸けた試合の相手に、既に2セット先取され、3セット目もマッチポイントを獲られた状態。
後が無い。
あと1ポイント取られると即ゲームセットとなる絶体絶命の形勢にあった。
その重圧から引きつった面持ちで、彼女を含む一行は日本領事館という未知の巨大な壁に挑んだ。
受付の堅苦しそうな係官に要件を告げる。
彼は東洋人によくありがちな端正だが若干の細く吊り上がった目。
髪をきれいに7・3に分け、落ち着いたとりすました佇まいで物腰低く柔らかではあるが、有能な係官によく見られるような、そつなく事務的に対応をした。
彼女は最悪、領事に会えず門前払いされる事を覚悟していた。
しかし小一時間程待たされた挙句、「3日後に若干の時間を割いてくれる」との回答を得た時、皮一枚で運命の糸が繋がったと感じた。
そしてヤクブケヴィッチ副会長の言葉が蘇った。
「もしかして希望が持てる?」
それは、要件を聞かれ必死でポーランド難民の、とりわけ孤児の身に起きている悲劇を訴えかけた彼女が係官の胸を打ったから取り次いでもらう事ができたのだった。
感情を表に出さない係官からの同情と賛同を打ち漏らした彼の表情に、迂闊にも彼女を含む一行は全く気づけないでいた。
そして彼女の言葉には孤児たちの命を救うという目的の尊さと、熱の籠った人の心を動かす強い説得力があることにも。
それは奇跡であり、神から与えられた当然の結果でもあった。
3日後の約束の時間、アンナ女史は領事の執務室に通され、分厚く敷き詰められた絨毯の奥にある重厚な机の主に自らの請願の内容を訴えた。
領事は整えられた短い髪、鼻の下に少しだけ髭がある。
温厚そうな涼しそうな目元から人を包み込む優しさをたたえ、じっと真摯に聞いていた。
彼女は語り始める。
「親愛なる日本の領事様、私のような縁も所縁も利害関係もない見ず知らずの外国人に目通りしていただき、貴重なお時間をいただいたこと、重ね重ね誠にありがたく存じます。
閣下のご厚意に心から感謝いたします。」
緊張な面持ちで、しかしまっすぐな目で相手の眼を見据えながら話した。
領事はそれに笑顔で、
「ここに来るまでには、さぞ勇気がいった事でしょう。
私の方こそ貴女のような崇高なご婦人とお会いでき心から喜んでおります。」
そう言い終わると、控えの間から熱いコーヒーが運ばれ出された。
その後彼女の口から熱心にシベリアでの同胞の苦難とここに至るまでの他の列強諸国から受けた冷徹な扱いを聞き、ここが最後の望みである事を正直に涙ながらに訴えた。
もし貴国に断られたらシベリアで無残な死を迎えるしかない哀れな孤児の運命を強く語る。
深い同情と正義感と慈愛の心、人の上に立つ武士道精神の心得を持つ領事は、
「私には貴方達の不幸な同胞の救済を決定する権限はありません。
しかし私にもできる事はあります。」
そう言うと机に向かい引き出しの中から1通の書状を取り出し、
「これをお持ちなさい。」
そう言いアンナ女史に渡した。
「これを持って日本の外務省にお行きなさい。
きっと貴方達の助けになります。」
その時彼女の天を見上げ喜びの表情で何かを呟くのをそこに居合わした職員たちは目撃した。
だが、彼女らには自分たちの幸運に気づいていない。
対応してくれた領事は、ただの領事ではない。
人道派軍人として知られるあの樋口季一郎と命脈を結んだ、人道主義に基づいた
人格者であった。
注: 樋口季一郎 1888生。最終階級陸軍中将。
第三師団参謀長、ハルビン特務機関長、第9師団長を経て、
第5方面司令官兼北部軍管区司令官。
1919年シベリア出兵に伴い、ウラジオストークに赴任。
1925年ポーランド公使館駐在武官(少佐)として赴任。
第二次世界大戦前夜、迫害を逃れたユダヤ人を助け、満州国通過という
「樋口ルート」という脱出路を屈指し、累計2万人以上のユダヤ人を救う。
更に1942年北部軍第5方面軍司令官として着任(本部札幌)。
アッツ島玉砕後、キスカ島撤退作戦に於いて、奇跡の救出を成功させた。
1945年8月10日、ソ連による対日参戦。
同8月18日から侵略してきたソ連軍に対し、占守島(千島列島最北端)
に於いて対ソ徹底抗戦を指揮、これを成功に導く。
も占守島攻防戦で日本軍守備隊が負けていたら、敗戦後の連合国の領土配分
交渉で北海道・東北がソ連領になっていたかもしれない。
あまり知られていないが、あの時代の傑出した救世主であり、
この物語の主人公ヨアンナや、ポーランドとは間接的に深い関係にあった。
それはさておき、今は一刻を争うとき。
救済委員会のアンナ女史たち一行は急ぎ渡航した。
領事館の紹介状と極東ポーランド赤十字社からの紹介状を携えて。
1920年6月18日東京の外務省を訪れた。
対応した外務省の担当係官の助言により、アンナ女史は翌日フランス語の嘆願書及び状況報告書を携え再び外務省を訪れた。
アンナ女史は在ウラジオストク領事館の時と同様涙ながらに必死で訴えた。
勿論ポーランド人の孤児など遠く離れた日本に人として国家としてこの窮状を知り、見殺しにしても良いものか?
女史の訴えに深く同情し、「アジアの盟主を目指す国家」としてこうあるべきとの指針と野心を持った日本。
どうすべきか決断と行動は早かった。
外務省は日本赤十字社に救済事業の立ち上げを要請、ウラジオストクを拠点に同年7月救済活動を始動した。
アンナ女史の救済要請から17日後の事だった。
当時日本は、シベリア出兵で列強最大の兵力を展開。
他の列強が撤退した後も、駐留を続けていた。
彼ら駐留日本軍はアンナ女史の請願を許諾した日本政府の命を受け、イルクーツクとその周辺に点在するポーランド人とその孤児たちを軍の組織の総力を挙げ、粘り強く捜索した。
シベリア各地に点在する孤児救出は、時間との厳しい戦いであった。
こうしている間にも、力尽きた孤児たちは日にひとり、ふたりと絶命している。
ヨアンナは・・・・。
つづく