うーん。今回は邪念含みで読んでしまったのが川端康成に申し訳ない。
まあこういうわけだったんですよ。
なので、「雪国」自体は短い話だし、ちゃちゃっと読んで「民宿雪国」に
移ろうというシタゴコロがあった。ゆえに集中して読めてなかったなあ。
これがなくても集中出来たかどうかは保証の限りではないが。
超有名な冒頭文、
国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。
に代表される、描写部分はすっごくきれいな小説。
描写に関しては頭が下がるというか、さすが。さすがノーベル賞作家といっていい。
すばらしい。
だが描写の素晴らしさも、ストーリーへの疑問が上回りそこまで響かない。
別に嫌いな話ではなかったんだけれど、話の作りがよくわからない。
駒子。噂ではヒロインとして押しも押されもせぬ存在だと思っていたのだが、
思ってたほど魅力的じゃないし、影が薄い。
あんなに取り留めなく喋られてはうるさくないですかね。
むしろ出番は少なくても葉子の方が魅力的な気がする。
かといって駒子と葉子をそこまで対比させている気もしないし……
島村もぼーっとして存在感がなく、幽霊のような存在。ほとんどナレーターですね。
主人公の色を薄くするのなら、駒子がもっと魅力的でもいいような気がする。
わたしと川端康成のお付き合いは中学校の頃に1冊だけ読んだ、
少年少女文学全集のようなのの短編集。
子供向けに書き直したものではなく、まあつまらなかったけど一応読んだ。
「伊豆の踊子」の他は「千羽鶴」はうっすらと覚えているかもしれない。
「伊豆の踊子」を読んでどこが一番印象に残ったかといえば、
主人公が旅の間にパンツを宿々に捨ててくるという部分。
洗うのが嫌だから使い捨てにするんだって。衝撃だった。
100円ショップも、使い捨て製品もないその時代、よくそんなことが出来るなー。
もったいないオバケが出るぞ。
今回「雪国」を読んで描写が天下一品なのはよくわかったから、
その美しい描写力を生かせるストーリーで読みたかった。
こんなことをいうのもわたしが明治から昭和初期にかけての日本文学に
疑問を持っているからでね。
どうして近代日本文学は「だらしない自分と女」の関わりしか書かないのか?
わたしは全然文学読みではないけれども、88巻ある日本文学全集は
せめて目を通そうと思って、第1巻の「小説神髄」から読み始めた。
深くは読んでませんよ。とにかく修行だと思って目を通そうとしてるだけ。
(20年くらいも経って34巻目の野上弥生子にたどりついた……)
そしたら体感9割は「ダメな自分」か「苦労した自分」と
あとはそのダメな自分に関わる女の話ばっかりでほとほと嫌になる。
近代日本文学者は女のことしか書くことがなかったんかい!
日本文学の私小説性。とか、多分いろいろ論じている人は古今東西
山のようにいるんだろうと思うけど、めんどくさいので
そういうのをわざわざ探して読む気にはならない。
が、なんでこんなにベタベタしているのか、そのわかりやすい分析を
100ページくらいでさくっと書いてくれてるエッセイかなんかがあれば、
読みたいんだけどなあ。
ベタベタしているのは温帯湿潤の気候の故だろうか。
アメリカ文学がジャリジャリしているのは、土着性が希薄なせいなのではないかと
思っているのだが。
まー日本文学は辛気臭いね。
辛気臭いのは嫌いなので読むのに苦労だが、全然読まないのも義理が悪い。
死ぬまでに88巻読めるかなあ。だいぶ心許なくなってきた。
まあこういうわけだったんですよ。
なので、「雪国」自体は短い話だし、ちゃちゃっと読んで「民宿雪国」に
移ろうというシタゴコロがあった。ゆえに集中して読めてなかったなあ。
これがなくても集中出来たかどうかは保証の限りではないが。
超有名な冒頭文、
国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。
に代表される、描写部分はすっごくきれいな小説。
描写に関しては頭が下がるというか、さすが。さすがノーベル賞作家といっていい。
すばらしい。
だが描写の素晴らしさも、ストーリーへの疑問が上回りそこまで響かない。
別に嫌いな話ではなかったんだけれど、話の作りがよくわからない。
駒子。噂ではヒロインとして押しも押されもせぬ存在だと思っていたのだが、
思ってたほど魅力的じゃないし、影が薄い。
あんなに取り留めなく喋られてはうるさくないですかね。
むしろ出番は少なくても葉子の方が魅力的な気がする。
かといって駒子と葉子をそこまで対比させている気もしないし……
島村もぼーっとして存在感がなく、幽霊のような存在。ほとんどナレーターですね。
主人公の色を薄くするのなら、駒子がもっと魅力的でもいいような気がする。
わたしと川端康成のお付き合いは中学校の頃に1冊だけ読んだ、
少年少女文学全集のようなのの短編集。
子供向けに書き直したものではなく、まあつまらなかったけど一応読んだ。
「伊豆の踊子」の他は「千羽鶴」はうっすらと覚えているかもしれない。
「伊豆の踊子」を読んでどこが一番印象に残ったかといえば、
主人公が旅の間にパンツを宿々に捨ててくるという部分。
洗うのが嫌だから使い捨てにするんだって。衝撃だった。
100円ショップも、使い捨て製品もないその時代、よくそんなことが出来るなー。
もったいないオバケが出るぞ。
今回「雪国」を読んで描写が天下一品なのはよくわかったから、
その美しい描写力を生かせるストーリーで読みたかった。
こんなことをいうのもわたしが明治から昭和初期にかけての日本文学に
疑問を持っているからでね。
どうして近代日本文学は「だらしない自分と女」の関わりしか書かないのか?
わたしは全然文学読みではないけれども、88巻ある日本文学全集は
せめて目を通そうと思って、第1巻の「小説神髄」から読み始めた。
深くは読んでませんよ。とにかく修行だと思って目を通そうとしてるだけ。
(20年くらいも経って34巻目の野上弥生子にたどりついた……)
そしたら体感9割は「ダメな自分」か「苦労した自分」と
あとはそのダメな自分に関わる女の話ばっかりでほとほと嫌になる。
近代日本文学者は女のことしか書くことがなかったんかい!
日本文学の私小説性。とか、多分いろいろ論じている人は古今東西
山のようにいるんだろうと思うけど、めんどくさいので
そういうのをわざわざ探して読む気にはならない。
が、なんでこんなにベタベタしているのか、そのわかりやすい分析を
100ページくらいでさくっと書いてくれてるエッセイかなんかがあれば、
読みたいんだけどなあ。
ベタベタしているのは温帯湿潤の気候の故だろうか。
アメリカ文学がジャリジャリしているのは、土着性が希薄なせいなのではないかと
思っているのだが。
まー日本文学は辛気臭いね。
辛気臭いのは嫌いなので読むのに苦労だが、全然読まないのも義理が悪い。
死ぬまでに88巻読めるかなあ。だいぶ心許なくなってきた。
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