いやぁ、面白くなかったね!
わたしが面白くない判定をする小説は多く、
そのうちけっこうな割合がジャーナリスト出身の作家。
この本も半分くらいまで読んで、どうにも読みにくくて奥付をチェックしたら
作家の経歴が共同通信社勤務。
実際に記者だったのか不明だが、ジャーナリスト畑の人は、書くものに
味わいが足りない確率が高いのよ。
この作品もどうにも読みにくかったなあ。
文章の一文一文はまあ好きな部類だった。一文の長さを抑えてぱきぱきと
進めていく文体は嫌いではない。
心理描写もまあ……面白くなかったから好きになれなかったが、
面白かったら好感を持ったかもしれない。
しかしなんというか、根本的に話がつまらん。
人物が浅い。深くしようとしている意図は感じるが、書いてる本人はわかっても、
読んでるこっちには伝わらない。
本文3ページから始まって、15ページでもう恋愛話ですからね。
その始まってから恋愛話までに、
兵が都を駆け抜けて、
戦を避けるために逃げ始めて、
でも逃げようとしたのを止めて本能寺まで現地取材に行って、
その戦火の状態を写生して、
現地にいる足軽に見とがめられて、
そこからあっさり逃げ出せて、
大徳寺へ避難して千宗易と長々と会話し、
家に戻って、
子供を預けている本法寺へ行く。
そこまでやるんですからね。12ページで。
その後、本法寺で子供の世話をしてくれている女性に恋心を持っているシーンを2ページ。
長谷川等伯の出自の説明で1ページ。
本法寺の住持、日通との会話で2ページ。
堺にいる長男の帰宅で2ページ。
冒頭の正味16ページでこれですよ。いくらなんでも飛ばしすぎです。
例えていえば新幹線の窓の風景。それも遠景ではなく、窓のすぐ外の近景。
エピソードも人物も、突然現れてはそれと見定める暇もないうちに過ぎていく。
(わたし自身は新幹線は決して好きな乗り物ではないが、それでも)
遠景は見て楽しめる部分はあるだろう。景色として。
でも近景の、電柱か何かわからないもの、一瞬の影。
――新幹線に電柱があったかどうかは定かではないが、
何かビュンっと音がして通り過ぎていくものだけを楽しむことは出来ない。
なにしろみんな急に現れるものだから。
「ダレこれ?」って後戻りをして読み直さなきゃいけない。
初登場で、
「隣で寝ていた久蔵が」
「弟子の虎二が」
「宗易が」
「息子の文殊が」
「戻って来たさとが」
「日通はこの中だ」
「長男の宗宅が」とか
説明なしで出て来る。説明はその後なんだもの。
普通に読んでたら「久蔵ってダレ?」って思うわけやん。毎回そう。
だから誰やねん、お前は!最初に説明をしろ!
読んでいるうちに誰が誰かは定着していくのよ。
でも初顔の人の紹介が雑すぎるだろう!悪い意味でさりげなさすぎるから、
「あれ?前に出てきたっけ?この人」と思わざるを得ない。
エピソードも淡々と現れては消えていく。
盛りあがりというものがほぼどこにもない。
緩急がない。
深さがない。
主人公の等伯は、心理描写はまあまあボリューム多めなんだけど、
長谷川派の商売の立ち行きばっかり考えていて、絵師としての心情が弱め。
絵師としてのエピソードは、「耶蘇図」関連がちょっとある他は
なにしろ現れては消えていくので全然深まらないのよー。
もう少し後になると、話は親父(等伯)から急に息子(久蔵)に移る。
移るのはいいけど、突然移るから、「は?え、なに?」になる。
そしてやっぱり突然久蔵は、知り合いの人妻といい仲になる。
ほんの数ページで。久蔵がどんな人かも定着しないうちですからね。
そして不審なのが、この不倫相手をけっこう詳しく書くんだよなあ。
この人の心情を書くんなら、むしろ(等伯の後妻になった)さとを書いた方が
納得できるんだが。
で、最大限に納得できないのは、等伯の息子の久蔵の不倫相手の璃枝の夫、
義稙の心情まで書く。で、この人は最後の最後に重要な役で戻って来る。
わたしは、あの役はむしろ蝦蟇の役割ではないかと思ったよ。
だいたい蝦蟇はどこへ行った。長崎まで流れてそれっきり?
「松林図屏風」という話で、等伯のことを書くのは妥当だろう。
その息子久蔵のことを書くのも妥当だろう。
でも久蔵の不倫相手の心情にけっこう尺を割くのはどうかと思うし、
何よりその旦那だった人までくわしく書く必要はないんじゃない?
どんな人かわかったという意味では、この不倫相手の旦那がどんな人間が一番わかった。
ある意味で一番深かったかもしれない。でもそれじゃダメなんじゃないか。
璃枝の内面を描く意味があるのか疑問だったし、久蔵も面白みがない。
それを言えば、等伯に面白みがないことが最大の失敗だと思うよ。
工房経営者の苦労は描けているけど、やっぱり絵師としての内面が面白くなければ。
きりしたんの絵とか急に出てくるけど、長谷川等伯の絵に西洋画の影響が見て取れる
ということなんですか?
そうでないなら、ここにきりしたんを持ってくるのは恣意的で感心しない。
蝦蟇は印象的な人物で、造型は謎めいていていいと思うんだけど、
ちゃんと設定されているかというとそんなことはない。
そして一番ダメなところは、タイトルが「松林図屏風」なのに、
「松林図屏風」を描く部分が全然書けてない。
これは看板に偽りありというべき。
言い回しにところどころひっかかる部分があったのだが、一番気になったのは
「この世あらざる絵」。
これって相当重要なキーワードとして頻出するんだけど、……これって正しい言葉?
わたしは国語は得意だったけれども、文法は完全に捨てていた人間なので
文法的に正解かわからない。でも耳馴染みがない気がする。
「この世ならざる絵」ならわかる。
「この世にあらざる絵」なら気にならない気がする。
だが、「この世あらざる」はどう?「この世あらず」は変ですよね。
唯一美点といえば、……久蔵の「桜図」を描くところは多少良かったかも。
久蔵本人のキャラクター造型が納得できないのであくまで「多少」だけども。
あと前述の通り、一文一文は嫌いではなかった。全然響かないだけで。
ええ加減長々と書いてしまったからもう切り上げるが、
長谷川等伯の小説、もっといいものを読みたかったよ。
等伯についての関連本を探したが、図書館にあるのはほんの数冊。
しかもあまり詳しいことはわからず、略歴に毛が生えた程度の情報量しかないんだよね。
だからこそ、小説家の想像で豊かに肉付けをして欲しかった。
次は安部龍太郎の「等伯」を読む。……でもこちらも期待薄。
だってこの人もジャーナリストだった人でしょ。――そう思って確認してみたら、
ジャーナリストではなかったのね。公務員だったのね。
あら。苦手意識を持っていたが、元公務員の小説家には今まで当たったことはないので、
特に偏見はない。いや、堺屋太一に手が伸びない自覚はあるから偏見はあるのか。
こちらは、思ったよりも面白かった!となったらいいなあ。
わたしが面白くない判定をする小説は多く、
そのうちけっこうな割合がジャーナリスト出身の作家。
この本も半分くらいまで読んで、どうにも読みにくくて奥付をチェックしたら
作家の経歴が共同通信社勤務。
実際に記者だったのか不明だが、ジャーナリスト畑の人は、書くものに
味わいが足りない確率が高いのよ。
この作品もどうにも読みにくかったなあ。
文章の一文一文はまあ好きな部類だった。一文の長さを抑えてぱきぱきと
進めていく文体は嫌いではない。
心理描写もまあ……面白くなかったから好きになれなかったが、
面白かったら好感を持ったかもしれない。
しかしなんというか、根本的に話がつまらん。
人物が浅い。深くしようとしている意図は感じるが、書いてる本人はわかっても、
読んでるこっちには伝わらない。
本文3ページから始まって、15ページでもう恋愛話ですからね。
その始まってから恋愛話までに、
兵が都を駆け抜けて、
戦を避けるために逃げ始めて、
でも逃げようとしたのを止めて本能寺まで現地取材に行って、
その戦火の状態を写生して、
現地にいる足軽に見とがめられて、
そこからあっさり逃げ出せて、
大徳寺へ避難して千宗易と長々と会話し、
家に戻って、
子供を預けている本法寺へ行く。
そこまでやるんですからね。12ページで。
その後、本法寺で子供の世話をしてくれている女性に恋心を持っているシーンを2ページ。
長谷川等伯の出自の説明で1ページ。
本法寺の住持、日通との会話で2ページ。
堺にいる長男の帰宅で2ページ。
冒頭の正味16ページでこれですよ。いくらなんでも飛ばしすぎです。
例えていえば新幹線の窓の風景。それも遠景ではなく、窓のすぐ外の近景。
エピソードも人物も、突然現れてはそれと見定める暇もないうちに過ぎていく。
(わたし自身は新幹線は決して好きな乗り物ではないが、それでも)
遠景は見て楽しめる部分はあるだろう。景色として。
でも近景の、電柱か何かわからないもの、一瞬の影。
――新幹線に電柱があったかどうかは定かではないが、
何かビュンっと音がして通り過ぎていくものだけを楽しむことは出来ない。
なにしろみんな急に現れるものだから。
「ダレこれ?」って後戻りをして読み直さなきゃいけない。
初登場で、
「隣で寝ていた久蔵が」
「弟子の虎二が」
「宗易が」
「息子の文殊が」
「戻って来たさとが」
「日通はこの中だ」
「長男の宗宅が」とか
説明なしで出て来る。説明はその後なんだもの。
普通に読んでたら「久蔵ってダレ?」って思うわけやん。毎回そう。
だから誰やねん、お前は!最初に説明をしろ!
読んでいるうちに誰が誰かは定着していくのよ。
でも初顔の人の紹介が雑すぎるだろう!悪い意味でさりげなさすぎるから、
「あれ?前に出てきたっけ?この人」と思わざるを得ない。
エピソードも淡々と現れては消えていく。
盛りあがりというものがほぼどこにもない。
緩急がない。
深さがない。
主人公の等伯は、心理描写はまあまあボリューム多めなんだけど、
長谷川派の商売の立ち行きばっかり考えていて、絵師としての心情が弱め。
絵師としてのエピソードは、「耶蘇図」関連がちょっとある他は
なにしろ現れては消えていくので全然深まらないのよー。
もう少し後になると、話は親父(等伯)から急に息子(久蔵)に移る。
移るのはいいけど、突然移るから、「は?え、なに?」になる。
そしてやっぱり突然久蔵は、知り合いの人妻といい仲になる。
ほんの数ページで。久蔵がどんな人かも定着しないうちですからね。
そして不審なのが、この不倫相手をけっこう詳しく書くんだよなあ。
この人の心情を書くんなら、むしろ(等伯の後妻になった)さとを書いた方が
納得できるんだが。
で、最大限に納得できないのは、等伯の息子の久蔵の不倫相手の璃枝の夫、
義稙の心情まで書く。で、この人は最後の最後に重要な役で戻って来る。
わたしは、あの役はむしろ蝦蟇の役割ではないかと思ったよ。
だいたい蝦蟇はどこへ行った。長崎まで流れてそれっきり?
「松林図屏風」という話で、等伯のことを書くのは妥当だろう。
その息子久蔵のことを書くのも妥当だろう。
でも久蔵の不倫相手の心情にけっこう尺を割くのはどうかと思うし、
何よりその旦那だった人までくわしく書く必要はないんじゃない?
どんな人かわかったという意味では、この不倫相手の旦那がどんな人間が一番わかった。
ある意味で一番深かったかもしれない。でもそれじゃダメなんじゃないか。
璃枝の内面を描く意味があるのか疑問だったし、久蔵も面白みがない。
それを言えば、等伯に面白みがないことが最大の失敗だと思うよ。
工房経営者の苦労は描けているけど、やっぱり絵師としての内面が面白くなければ。
きりしたんの絵とか急に出てくるけど、長谷川等伯の絵に西洋画の影響が見て取れる
ということなんですか?
そうでないなら、ここにきりしたんを持ってくるのは恣意的で感心しない。
蝦蟇は印象的な人物で、造型は謎めいていていいと思うんだけど、
ちゃんと設定されているかというとそんなことはない。
そして一番ダメなところは、タイトルが「松林図屏風」なのに、
「松林図屏風」を描く部分が全然書けてない。
これは看板に偽りありというべき。
言い回しにところどころひっかかる部分があったのだが、一番気になったのは
「この世あらざる絵」。
これって相当重要なキーワードとして頻出するんだけど、……これって正しい言葉?
わたしは国語は得意だったけれども、文法は完全に捨てていた人間なので
文法的に正解かわからない。でも耳馴染みがない気がする。
「この世ならざる絵」ならわかる。
「この世にあらざる絵」なら気にならない気がする。
だが、「この世あらざる」はどう?「この世あらず」は変ですよね。
唯一美点といえば、……久蔵の「桜図」を描くところは多少良かったかも。
久蔵本人のキャラクター造型が納得できないのであくまで「多少」だけども。
あと前述の通り、一文一文は嫌いではなかった。全然響かないだけで。
ええ加減長々と書いてしまったからもう切り上げるが、
長谷川等伯の小説、もっといいものを読みたかったよ。
等伯についての関連本を探したが、図書館にあるのはほんの数冊。
しかもあまり詳しいことはわからず、略歴に毛が生えた程度の情報量しかないんだよね。
だからこそ、小説家の想像で豊かに肉付けをして欲しかった。
次は安部龍太郎の「等伯」を読む。……でもこちらも期待薄。
だってこの人もジャーナリストだった人でしょ。――そう思って確認してみたら、
ジャーナリストではなかったのね。公務員だったのね。
あら。苦手意識を持っていたが、元公務員の小説家には今まで当たったことはないので、
特に偏見はない。いや、堺屋太一に手が伸びない自覚はあるから偏見はあるのか。
こちらは、思ったよりも面白かった!となったらいいなあ。
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