こないだ、ちくま学芸文庫版「ローマ帝国衰亡史」全10巻をほとほと苦労して読み終わったので、
図説の方はどうかな、と思って物好きにも読んでみた。
いや、図説っていうくらいだから、それなりに写真と図版がたくさんあって、
ビジュアルで攻めるんだろうなと思っていたのだった。ページ数の多さは事前に承知していたけど、
文字部分を半分強としたところで、400ページ弱。
まあ、それほど手間はかからないと踏んでいた。
が、図説にも色々ありますもんねえ。
さすがに河出の図説シリーズまでのビジュアルを予想していたわけではないが、
予想(期待?)よりはるかに文字数が多くて、ちと疲れた。
先ず、いい方の話をしよう。
ちくま学芸文庫版の、見開き2ページに改行すらないことがある、文字びっしりのよりは
ずっと読みやすかった。たとえそれが大きめの判の2段組だろうと。
見開きに最低1枚は写真が載っているから。写真がページの5分の1~8分の1を占める。
これだけで精神的にずいぶん楽。一息つける感じ。
文章も相当簡便な感じになっていた。なりすぎない程度に。やっぱり日本語で読むなら
このくらいの日本語で読みたいですよ。
「文庫版」、一文が5行続くというのは、日本語としてどうなの。
(そりゃ、女房文学まで遡れば一文5行でもそう驚くことじゃないけどさあ。)
まあ、ツラくなく読み続けられたんだから、それだけでも結構なお手柄だあねー。
「文庫版」が、常にせいぜい20分~30分程度しか持たなかったのに、
「図説」の方は、多少注意力散漫になったとはいえ、3時間程度は継続出来たんだから。
読んで面白かったですよ。ある程度。
だが、「図説」には大いなる弱点――むしろ問題点がある。
全訳だと71章まで続く分量があるはずなのに、この本には30章までしか存在しない。
しかもそのことに関しての説明が、口を拭ったように無い。
どうも独自の章分けを採用しているらしく、この本の最終30章の章名が
「ユスティニアース帝とテオドーラ、その後の東ローマ帝国」となっており、
ちくま学芸文庫版で言えば6巻が「39章-44章 ユスティニアヌスとビザンティン帝国」。
はい?どういうことです?という感じだ。なぜ対応してないの?
そこで作りをよくよく見直すとですね……
実はさ。作り方自体に根本的な問題があるのだ。
この本はタイトルを「図説 ローマ帝国衰亡史」といい、
表紙にはエドワード・ギボン著、吉村忠典・後藤篤子訳と書いてある。
逆に言えば、それだけしか書いてない。
当然大きく書かれるべき、ある重要な要素が抜けている。
実はこの本は、「1979年、ローズマリー・ウィリアムズ編:
ギボンによるローマ帝国衰亡史、簡約・図説版」の邦訳なのだ。
つまり、厚みと文字量は相当に違えど、いわばとんぼの本とかショトルシリーズとか、
前述した河出の図説シリーズとかと立場的には同じ。ギボンの文章をかなり自由に編集して、
一般読者に読みやすく、面白くを狙った本なのだろう。
これをギボンの「ローマ帝国衰亡史」と称するには無理がある。
単なる抄訳・簡約版ではなく、文脈と内容に編者(=ローズマリー・ウィリアムズ)の
再構成が相当入っているのだと思われる。だから、独自の章立てになっているんだろう。
編集行為自体が悪いことというわけではない。
長大な作品を、ある程度読みやすく砕いた形に再構成するというのは、
選択肢の一つとしては、むしろ推奨されるべきだと思う。
その再構成の仕方でで賛否が分かれる場合はあるだろうけど、良心的に行われているものならば。
(だからといって、数年前までやたらと目についた、「あらすじで読む名作~」みたいなもんは、
基本的にキライだけどね。小説をあらすじで読んで、読んだ気になられては困る。)
大問題なのは、本書で、編者の存在がきれいさっぱり拭われたように消えていることなのだ。
なぜ編者の名前をこうまで無視する?
ローズマリー・ウィリアムズの名がどこに出て来るかというと、目次の次の凡例の、
ごくごく小さい字でのみ。表紙にも、内表紙にもない。
(本文の前後をその名を探して2度ほど読んだけれども。)
編者まえがきは、だからつまりローズマリー・ウィリアムズが書いた文章のはずだが、
そのことを読み手に意識させる部分は前述の、ちっちゃい字の凡例以外にどこにもない。
編者まえがき・訳者あとがきという部分で「ん?なんで編者と訳者?」と思うにしても、
何しろ表紙からして編者の名前が載ってないわけだから、普通に読めば、そもそもこの本は、
実際は翻訳者でしかない吉村忠典・後藤篤子による編集・縮小簡約版としてしか読めない。
これは非道いことでしょう。
例えていえば、田辺聖子の「新・源氏物語」を英語に訳して、
しかも表紙には田辺聖子の田の字もなく、紫式部:源氏物語簡約版としてイギリスで出版するような。
悪質だなー、と思うのは、目次の直前のページに、またこれがずいぶん薄い字で、
Decline and Fall of the Roman Empire by Edward Gibbon (1737-1794) (abridged)
と書いてあること。普通、ここに来るのは当然そのものの書名じゃなきゃおかしいはず。
そのものの英語での書名は、凡例から写すと、
Gibbon's Decline and Fall of the Roman Empire,abridged and illustrated
(editor:Rosemary Williams),London 1979
になるはずなのに。なぜこう書かずにこの位置に
「エドワード・ギボンによるローマ帝国衰亡史」(簡約版)と入れるのか。
違う書籍タイトルを入れちゃ駄目だろう。
出版元である東京書籍。
この件で一気に不信を抱いた。元々多少うさんくさく見えていた会社ではあったけれど。
ここまでするのは、訳者の2人というより、むしろ出版社側の主導だと想像する。
さすがに原著の版権をとっていない……とかいう想像は乱暴すぎるだろうが、
一体何を考えて、ここまで隠すか。徹底して隠しているとしか思えない。
最初は、表紙に編者の名前がないのは「編集の存在を隠すことで、単なる縮約版だと
見せかけようとした」のだろうと思っていた。
ギボンの「ローマ帝国衰亡史」、読もうと思いつつその長大さに躊躇している層にとって、
編集されたものと縮約版を比べたら、やっぱり手が伸びるのは縮約版だと思う。
わが身に引き比べても思い当たるところだ。もちろん縮約版だって編集されていることは
同じなんだけれど、そこらへんに言葉のトリックがあるというか……
アラビアン・ナイトを読んだと言いたい人が選ぶのは、
阿刀田高の「アラビアン・ナイトを楽しむために」ではなく……
……うっ、大人向けのアラビアンナイトの縮約版って、もしかして無いの?
筑摩の世界古典文学全集も4冊で出しているしな。あの密度で4冊分となれば、
ひょっとすると一応全訳かもしれない。
……阿刀田高の「アラビアン・ナイトを楽しむために」ではなく、
筑摩の世界古典文学全集だろう。「アラビアン・ナイトを楽しむために」を読んで、
読みました、とも言えないからね。
同じように、「ローズマリー・ウィリアムズによる図説・ギボンのローマ帝国衰亡史」を読んでは
ギボンの「ローマ帝国衰亡史を読んだ」とは言えない。
読んだと言いたい助平心は、大なり小なり読み手のココロにやはりあるじゃないですか。
6800円の本。これだって出版するのは冒険だったかもしれない。
売れて欲しい、という願いが、上記のような勇み足を生んだのか。
最初はそう考えて、赦されざるスタンスだけど同情すべき点もあるかな、と思ったんだよ。
でも、編者の名前を表紙から落とすのみならず、その目次の前の英語での書名で、
「これはギボンのローマ帝国衰亡史ですよ」と主張されては。
完全に嘘じゃないですか。
中身とすれば、かなりいい本なのになあ。
しかし根本的なところでこんなゴマカシが行われていると。
いい本とは言えなかろう。残念な。
吉村忠典、後藤篤子の両名。せっかくいい訳で、いい仕事だと思ったのに。
結果的に汚れ仕事になってしまった。事後承諾か事前承諾かは不明だが、
彼らに何の責任もないとはやはり言えまい。
ぼーっとしてると、実際自分が何を読んでいるのかすらわからなくなるような
世知辛い世の中というわけですね。
今回はたまたま気付いたけれど、今まで読んできたものはどうなんだろう。
まさかこういったことが日常茶飯で行われているとは思いたくない。
評価が高いからこそ勿体ないし、不安だ。
ここの区別はどうしても必要な部分だと思う。
上記の内容に関して、わたしの考え方に修正が必要な場合は教示を乞いたい。
本そのものの内容に戻って、2点。
(つまり、ローズマリー・ウィリアムズさんに言いたいこと)
掲載されている写真は、内容にぴったり合ったものというよりは、
箸休め的な意味で載せられているものが多い。
当たらずといえども遠からず、程度の関連しかない写真の方がむしろ多い気がした。
使える写真素材の中から選んだもので、この本のために撮ったものはおそらくほとんどないに違いない。
が、何しろ見開きに写真があるとないとでは読みやすさが大違いなので、
そのことを責める気にはならんけどね。
ただしいくら縮約版でも、面白い部分だけ取り出して終わるのは、
この本のスタイルからしてアンフェアだと思う。
前半は「文庫版」でもそこそこ面白いんだから、後半の退屈さをどう料理するのか、
そこが楽しみだったのに、いいとこどりで終わってしまった。
図説の方はどうかな、と思って物好きにも読んでみた。
いや、図説っていうくらいだから、それなりに写真と図版がたくさんあって、
ビジュアルで攻めるんだろうなと思っていたのだった。ページ数の多さは事前に承知していたけど、
文字部分を半分強としたところで、400ページ弱。
まあ、それほど手間はかからないと踏んでいた。
が、図説にも色々ありますもんねえ。
さすがに河出の図説シリーズまでのビジュアルを予想していたわけではないが、
予想(期待?)よりはるかに文字数が多くて、ちと疲れた。
先ず、いい方の話をしよう。
ちくま学芸文庫版の、見開き2ページに改行すらないことがある、文字びっしりのよりは
ずっと読みやすかった。たとえそれが大きめの判の2段組だろうと。
見開きに最低1枚は写真が載っているから。写真がページの5分の1~8分の1を占める。
これだけで精神的にずいぶん楽。一息つける感じ。
文章も相当簡便な感じになっていた。なりすぎない程度に。やっぱり日本語で読むなら
このくらいの日本語で読みたいですよ。
「文庫版」、一文が5行続くというのは、日本語としてどうなの。
(そりゃ、女房文学まで遡れば一文5行でもそう驚くことじゃないけどさあ。)
まあ、ツラくなく読み続けられたんだから、それだけでも結構なお手柄だあねー。
「文庫版」が、常にせいぜい20分~30分程度しか持たなかったのに、
「図説」の方は、多少注意力散漫になったとはいえ、3時間程度は継続出来たんだから。
読んで面白かったですよ。ある程度。
だが、「図説」には大いなる弱点――むしろ問題点がある。
全訳だと71章まで続く分量があるはずなのに、この本には30章までしか存在しない。
しかもそのことに関しての説明が、口を拭ったように無い。
どうも独自の章分けを採用しているらしく、この本の最終30章の章名が
「ユスティニアース帝とテオドーラ、その後の東ローマ帝国」となっており、
ちくま学芸文庫版で言えば6巻が「39章-44章 ユスティニアヌスとビザンティン帝国」。
はい?どういうことです?という感じだ。なぜ対応してないの?
そこで作りをよくよく見直すとですね……
実はさ。作り方自体に根本的な問題があるのだ。
この本はタイトルを「図説 ローマ帝国衰亡史」といい、
表紙にはエドワード・ギボン著、吉村忠典・後藤篤子訳と書いてある。
逆に言えば、それだけしか書いてない。
当然大きく書かれるべき、ある重要な要素が抜けている。
実はこの本は、「1979年、ローズマリー・ウィリアムズ編:
ギボンによるローマ帝国衰亡史、簡約・図説版」の邦訳なのだ。
つまり、厚みと文字量は相当に違えど、いわばとんぼの本とかショトルシリーズとか、
前述した河出の図説シリーズとかと立場的には同じ。ギボンの文章をかなり自由に編集して、
一般読者に読みやすく、面白くを狙った本なのだろう。
これをギボンの「ローマ帝国衰亡史」と称するには無理がある。
単なる抄訳・簡約版ではなく、文脈と内容に編者(=ローズマリー・ウィリアムズ)の
再構成が相当入っているのだと思われる。だから、独自の章立てになっているんだろう。
編集行為自体が悪いことというわけではない。
長大な作品を、ある程度読みやすく砕いた形に再構成するというのは、
選択肢の一つとしては、むしろ推奨されるべきだと思う。
その再構成の仕方でで賛否が分かれる場合はあるだろうけど、良心的に行われているものならば。
(だからといって、数年前までやたらと目についた、「あらすじで読む名作~」みたいなもんは、
基本的にキライだけどね。小説をあらすじで読んで、読んだ気になられては困る。)
大問題なのは、本書で、編者の存在がきれいさっぱり拭われたように消えていることなのだ。
なぜ編者の名前をこうまで無視する?
ローズマリー・ウィリアムズの名がどこに出て来るかというと、目次の次の凡例の、
ごくごく小さい字でのみ。表紙にも、内表紙にもない。
(本文の前後をその名を探して2度ほど読んだけれども。)
編者まえがきは、だからつまりローズマリー・ウィリアムズが書いた文章のはずだが、
そのことを読み手に意識させる部分は前述の、ちっちゃい字の凡例以外にどこにもない。
編者まえがき・訳者あとがきという部分で「ん?なんで編者と訳者?」と思うにしても、
何しろ表紙からして編者の名前が載ってないわけだから、普通に読めば、そもそもこの本は、
実際は翻訳者でしかない吉村忠典・後藤篤子による編集・縮小簡約版としてしか読めない。
これは非道いことでしょう。
例えていえば、田辺聖子の「新・源氏物語」を英語に訳して、
しかも表紙には田辺聖子の田の字もなく、紫式部:源氏物語簡約版としてイギリスで出版するような。
悪質だなー、と思うのは、目次の直前のページに、またこれがずいぶん薄い字で、
Decline and Fall of the Roman Empire by Edward Gibbon (1737-1794) (abridged)
と書いてあること。普通、ここに来るのは当然そのものの書名じゃなきゃおかしいはず。
そのものの英語での書名は、凡例から写すと、
Gibbon's Decline and Fall of the Roman Empire,abridged and illustrated
(editor:Rosemary Williams),London 1979
になるはずなのに。なぜこう書かずにこの位置に
「エドワード・ギボンによるローマ帝国衰亡史」(簡約版)と入れるのか。
違う書籍タイトルを入れちゃ駄目だろう。
出版元である東京書籍。
この件で一気に不信を抱いた。元々多少うさんくさく見えていた会社ではあったけれど。
ここまでするのは、訳者の2人というより、むしろ出版社側の主導だと想像する。
さすがに原著の版権をとっていない……とかいう想像は乱暴すぎるだろうが、
一体何を考えて、ここまで隠すか。徹底して隠しているとしか思えない。
最初は、表紙に編者の名前がないのは「編集の存在を隠すことで、単なる縮約版だと
見せかけようとした」のだろうと思っていた。
ギボンの「ローマ帝国衰亡史」、読もうと思いつつその長大さに躊躇している層にとって、
編集されたものと縮約版を比べたら、やっぱり手が伸びるのは縮約版だと思う。
わが身に引き比べても思い当たるところだ。もちろん縮約版だって編集されていることは
同じなんだけれど、そこらへんに言葉のトリックがあるというか……
アラビアン・ナイトを読んだと言いたい人が選ぶのは、
阿刀田高の「アラビアン・ナイトを楽しむために」ではなく……
……うっ、大人向けのアラビアンナイトの縮約版って、もしかして無いの?
筑摩の世界古典文学全集も4冊で出しているしな。あの密度で4冊分となれば、
ひょっとすると一応全訳かもしれない。
……阿刀田高の「アラビアン・ナイトを楽しむために」ではなく、
筑摩の世界古典文学全集だろう。「アラビアン・ナイトを楽しむために」を読んで、
読みました、とも言えないからね。
同じように、「ローズマリー・ウィリアムズによる図説・ギボンのローマ帝国衰亡史」を読んでは
ギボンの「ローマ帝国衰亡史を読んだ」とは言えない。
読んだと言いたい助平心は、大なり小なり読み手のココロにやはりあるじゃないですか。
6800円の本。これだって出版するのは冒険だったかもしれない。
売れて欲しい、という願いが、上記のような勇み足を生んだのか。
最初はそう考えて、赦されざるスタンスだけど同情すべき点もあるかな、と思ったんだよ。
でも、編者の名前を表紙から落とすのみならず、その目次の前の英語での書名で、
「これはギボンのローマ帝国衰亡史ですよ」と主張されては。
完全に嘘じゃないですか。
中身とすれば、かなりいい本なのになあ。
しかし根本的なところでこんなゴマカシが行われていると。
いい本とは言えなかろう。残念な。
吉村忠典、後藤篤子の両名。せっかくいい訳で、いい仕事だと思ったのに。
結果的に汚れ仕事になってしまった。事後承諾か事前承諾かは不明だが、
彼らに何の責任もないとはやはり言えまい。
ぼーっとしてると、実際自分が何を読んでいるのかすらわからなくなるような
世知辛い世の中というわけですね。
今回はたまたま気付いたけれど、今まで読んできたものはどうなんだろう。
まさかこういったことが日常茶飯で行われているとは思いたくない。
図説 ローマ帝国衰亡史
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エドワード ギボン 東京書籍 売り上げランキング: 64120
おすすめ度の平均:
何より図説、そして、訳者あとがきの「ローマ理念」も最高です。 ローマは1日して成らず・・しかし1日で滅びる事もある(;'Д`)ハアハア わかりやすい 出藍の誉れ評価が高いからこそ勿体ないし、不安だ。
ここの区別はどうしても必要な部分だと思う。
上記の内容に関して、わたしの考え方に修正が必要な場合は教示を乞いたい。
本そのものの内容に戻って、2点。
(つまり、ローズマリー・ウィリアムズさんに言いたいこと)
掲載されている写真は、内容にぴったり合ったものというよりは、
箸休め的な意味で載せられているものが多い。
当たらずといえども遠からず、程度の関連しかない写真の方がむしろ多い気がした。
使える写真素材の中から選んだもので、この本のために撮ったものはおそらくほとんどないに違いない。
が、何しろ見開きに写真があるとないとでは読みやすさが大違いなので、
そのことを責める気にはならんけどね。
ただしいくら縮約版でも、面白い部分だけ取り出して終わるのは、
この本のスタイルからしてアンフェアだと思う。
前半は「文庫版」でもそこそこ面白いんだから、後半の退屈さをどう料理するのか、
そこが楽しみだったのに、いいとこどりで終わってしまった。
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