昼食でビールを飲み,歩くのが面倒になって相国寺へ行くのを諦め京都御苑へ戻った。
まず一番手前に見えた“閑院宮邸跡”を見学。
@閑院宮邸跡
閑院宮家は伏見宮家、桂宮家、有栖川宮家と並ぶ四親王家の一つで、1710年に東山天皇の皇子直仁親王を始祖として創立され、公家町南西部のこの場所に屋敷を構えました。創建当初の建物は天明の大火(1788年)で焼失し、その後再建されていますが、現在の建物との関係など詳しいことはわかっていません。
明治2年の東京遷都に伴い、閑院宮が東京に移られてからは、華族会館や裁判所として一時使用され、御苑の整備が一段落した明治16年、宮内省京都支庁が設置されています。
第2次世界大戦後の昭和24年、京都御苑が国民公園となってからは、厚生省、のちに環境庁の京都御苑管理事務所などに使用されていました。
そのあと,先日ブログに書いた“九條邸・拾翠亭”を見学。
そのあと,拾翠亭から見えた“厳島神社”へ
@厳島神社
京都御所の建礼門前を南に、九条邸跡の九条池に厳島神社があります。
厳島神社と言えば、おしゃもじで有名な広島県安芸の宮島が有名ですが、平清盛公によって、攝津の国莵原郡兵庫築島(現在の神戸市兵庫区永沢町)に一社を設け、後に清盛公の母、祇園女御を合祀されたそうです。
後世になってこの九条邸に移転され、九条家の鎮守となり、家業繁栄・家内安全の守護神として一般の人々にも深く崇敬されているそうです。
この神社の“破風形鳥居”は“重要美術品”。
“重要美術品”とは、日本国外への古美術品の流出防止を主目的として認定した有形文化財のことだそうです。
そこから厳島神社の斜め前にある“宗像神社”へ。
神社に入ろうとしたら樹齢400年の大きな楠木と“アオバズク営巣”の看板?
元日本野鳥の会会員は,さっそく“アオバズク”探しを開始。
やっと見つけたのはカラスだけやった。
参拝を再開しようとしたら“京都観光神社”があった。
@京都観光神社
この神社の建立は新しく昭和44年。 急増する京都への観光客の無事息災を願い、また観光業界の発展を祈念し、道案内の神 猿田彦大神を祀っている。
@宗像神社
京都御苑内にある宗像神社は、延暦14年藤原冬嗣公が桓武天皇の命によって、皇居鎮護の神として祀られたのが始めです。祭神は宗像大神で、多紀理比売命(たきりひめのみこと)、多岐都比売命(たぎつひめのみこと)、 市寸島比売命(いちきしまひめのみこと)の御三姫の大神。
宗像神社参拝後,そろそろ帰宅しようと京都御苑を出ようとしたら“推定旧二条城の復元石垣”という立て札を見かけた。
@推定旧二条城の復元石垣
京都御苑の一隅を含むこの地に一つの城跡が発見された。それは永禄十二年(1569年)織田信長が、室町幕府最後の将軍、足利義昭のために造った強靭華麗な居城の跡と推定される。
当時、イエズス会の布教活動をしていたポルトガルの宣教師ルイスーフロイスは、度々工事場を訪れて築城の様子を見聞し、その記録が残されている。
この築城工事には、日々一万五千人から二万五千人の人役が従事し、居館とする建築物は、法華宗本山であった「本国寺」の荘厳・華麗なものを選び解体し、調度品とともに運び再建した。
また、濠の石垣構築に際しては、洛中・洛外の石仏・五輪塔・庭石・石灯籠等を手近な所に求め、単なる用材として石垣に積み込んだのである。
ここにある石垣は、地下鉄烏丸線の工事に伴う発掘調査で丸太町上がるに埋もれていたのを発見したもので、もとは南面していたのを、ここに復元したのである。
これと同様なものが烏丸椹木町通・下立売通・出水通で発見されており、今も地下に埋もれているのである。
1980年 京都市 (現地表示板より)
大きな通りに出たら,通りの向こうに立派なお屋敷発見!
道を渡って表札を見たら,“大丸ヴィラ”と書かれていた。
@大丸ヴィラ (中道軒)
地下鉄烏丸丸太町の北西出口を出たところにあるチューダー・スタイルの洋館。大丸社主の下村正太郎邸として建設された傑作です。
下村氏は、ヨーロッパの建造物や美術品に詳しい方で、そのことをよく知っていたヴォーリズが16世紀ごろ英国で流行した様式であるチューダー様式で設計したそうです。
そこから地下に降りて,地下鉄丸太町駅から電車に乗って帰宅した。
よう見て,よう食べて,よう歩いたなぁ~
まず一番手前に見えた“閑院宮邸跡”を見学。
@閑院宮邸跡
閑院宮家は伏見宮家、桂宮家、有栖川宮家と並ぶ四親王家の一つで、1710年に東山天皇の皇子直仁親王を始祖として創立され、公家町南西部のこの場所に屋敷を構えました。創建当初の建物は天明の大火(1788年)で焼失し、その後再建されていますが、現在の建物との関係など詳しいことはわかっていません。
明治2年の東京遷都に伴い、閑院宮が東京に移られてからは、華族会館や裁判所として一時使用され、御苑の整備が一段落した明治16年、宮内省京都支庁が設置されています。
第2次世界大戦後の昭和24年、京都御苑が国民公園となってからは、厚生省、のちに環境庁の京都御苑管理事務所などに使用されていました。
そのあと,先日ブログに書いた“九條邸・拾翠亭”を見学。
そのあと,拾翠亭から見えた“厳島神社”へ
@厳島神社
京都御所の建礼門前を南に、九条邸跡の九条池に厳島神社があります。
厳島神社と言えば、おしゃもじで有名な広島県安芸の宮島が有名ですが、平清盛公によって、攝津の国莵原郡兵庫築島(現在の神戸市兵庫区永沢町)に一社を設け、後に清盛公の母、祇園女御を合祀されたそうです。
後世になってこの九条邸に移転され、九条家の鎮守となり、家業繁栄・家内安全の守護神として一般の人々にも深く崇敬されているそうです。
この神社の“破風形鳥居”は“重要美術品”。
“重要美術品”とは、日本国外への古美術品の流出防止を主目的として認定した有形文化財のことだそうです。
そこから厳島神社の斜め前にある“宗像神社”へ。
神社に入ろうとしたら樹齢400年の大きな楠木と“アオバズク営巣”の看板?
元日本野鳥の会会員は,さっそく“アオバズク”探しを開始。
やっと見つけたのはカラスだけやった。
参拝を再開しようとしたら“京都観光神社”があった。
@京都観光神社
この神社の建立は新しく昭和44年。 急増する京都への観光客の無事息災を願い、また観光業界の発展を祈念し、道案内の神 猿田彦大神を祀っている。
@宗像神社
京都御苑内にある宗像神社は、延暦14年藤原冬嗣公が桓武天皇の命によって、皇居鎮護の神として祀られたのが始めです。祭神は宗像大神で、多紀理比売命(たきりひめのみこと)、多岐都比売命(たぎつひめのみこと)、 市寸島比売命(いちきしまひめのみこと)の御三姫の大神。
宗像神社参拝後,そろそろ帰宅しようと京都御苑を出ようとしたら“推定旧二条城の復元石垣”という立て札を見かけた。
@推定旧二条城の復元石垣
京都御苑の一隅を含むこの地に一つの城跡が発見された。それは永禄十二年(1569年)織田信長が、室町幕府最後の将軍、足利義昭のために造った強靭華麗な居城の跡と推定される。
当時、イエズス会の布教活動をしていたポルトガルの宣教師ルイスーフロイスは、度々工事場を訪れて築城の様子を見聞し、その記録が残されている。
この築城工事には、日々一万五千人から二万五千人の人役が従事し、居館とする建築物は、法華宗本山であった「本国寺」の荘厳・華麗なものを選び解体し、調度品とともに運び再建した。
また、濠の石垣構築に際しては、洛中・洛外の石仏・五輪塔・庭石・石灯籠等を手近な所に求め、単なる用材として石垣に積み込んだのである。
ここにある石垣は、地下鉄烏丸線の工事に伴う発掘調査で丸太町上がるに埋もれていたのを発見したもので、もとは南面していたのを、ここに復元したのである。
これと同様なものが烏丸椹木町通・下立売通・出水通で発見されており、今も地下に埋もれているのである。
1980年 京都市 (現地表示板より)
大きな通りに出たら,通りの向こうに立派なお屋敷発見!
道を渡って表札を見たら,“大丸ヴィラ”と書かれていた。
@大丸ヴィラ (中道軒)
地下鉄烏丸丸太町の北西出口を出たところにあるチューダー・スタイルの洋館。大丸社主の下村正太郎邸として建設された傑作です。
下村氏は、ヨーロッパの建造物や美術品に詳しい方で、そのことをよく知っていたヴォーリズが16世紀ごろ英国で流行した様式であるチューダー様式で設計したそうです。
そこから地下に降りて,地下鉄丸太町駅から電車に乗って帰宅した。
よう見て,よう食べて,よう歩いたなぁ~
今度は御所の北にある相国寺あたりに行きたいです!
学生生活を京都で送りたかったなぁ~