うさとmother-pearl

目指せ道楽三昧高等遊民的日常

人生最大の絶体絶命

2024年05月12日 | ことばを巡る色色
私は今、人生最大の絶体絶命のピンチにある!!のだ!! と思いあたった。
はてさて、ここまでの人生最大の絶体絶命とはなんだったんだろうと、ふと考えた。
それよりも絶体絶命でないと、人生最大とは言えない。冷や汗たらりて、息もできなくなる、背筋がピリピリする、そんな絶体絶命、ここからどうやって逃げればいいのかわからん、絶体絶命、確かになくはなかったけれど、すぐに思い出せもしないところをみると、大した絶体絶命ではなかったのだろう。危機一髪なんて、髪の毛一筋分しか猶予がないというものだしね、そんなギロチン目の前なんて危機もなかったよね。交通事故とかは息も詰まる思いだったが、幸運にも大事には至っていない。
はてさて、人生最大の危機とはそもそも、解決が困難だから人生最大なのか、はたまた、解決不可能だからなのかは、重要な問題である気がしてきた。 解決できないものは大きな危機だが、そもそも解決不能なら立ち向かいもできず、立ち向かえなければ最大ピンチとも言えぬのではないか?ピンチとは戦えるものに対していうものであり、地震など自然災害は最大のピンチなのではなく、そこからの立ち直りの過程が最大のピンチ案件であるはずだ。
脱出をいかにしていくのか、方法は限られ、その道は狭く長く暗いのがピンチ具合を決めるのだろう。
 狭く 長く 暗い
鬱屈となる状態であるなあ。投げ出したくなってしまう。出口が見えないということ、ピンチの全容が明確でないこと、正解が過去にはどれも完全に示されていないこと、一人ぼっちで戦わざるを得ないと思ってしまうこと。身動きできぬ暗闇で心も圧縮されること。
が、またまた考えた。上で解決不能はピンチでないとしたが、そもそも解決不能などというものは、不能であると切り捨ててみただけではないのか。自然災害など「降ってくるもの」だってやり様では少しずつ変えることはできるじゃないか。解決不能にも道があるとすれば、当然ピンチにも道はある。解決ではなくとも道は道であるのだ。

などと色々に考えていると、私の人生最大のピンチも 
 狭い様な やや広い様な 
 長い様な やや短い様な 
 暗い様な ほの明るい様な 気がしてきたかな。

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through bias-正常性バイアス

2024年05月11日 | ことばを巡る色色
必然を偶然と考えたくなる、偶然を必然と思いたくなる、それが人のサガなのだろう。
起こるべくして起こった必然であっても、その因果を認めたくはない。どこか己の預かり知らぬところに問題があったに違いない、自分のせいばかりではない、偶然そうなってしまったのだと思いたいのだろう。偶然というのは自分の外にあるものであるが、自分の中に偶然があると錯覚しているのだ。それは、己の必然から逃げようとしているのだ。己の必然から逃げることは必然であるが故に不可能であるのに、人はやはり己の必然を全て引き受けることは辛くて苦しくて耐えられない。
また、偶然に必然を見つけたくなるのも人のサガであろう。きっとこれは私を選んで起こってきたのだ。この出来事の中には、運命が私に伝えるべきことがあって起こったのだ。これが起こったのは過去のあのことと関連するに違いない、とか、未来のことを暗示するに違いないと思ったりしたくなる。だから嫌な感じがしていたのだとか、渡りに舟といいタイミングが降りかかって来たと思ってしまう。そのように出来事に過剰な意味付けをしていくことで、事実を受け入れ、自分の物語とせずには進んでいけないのだ。
偶然性が高ければそれを否定し、逆に必然性が高くてもやはりそれを否定してしまう。
しかし、たとえ尽くしたからといって報われるわけでも、善人が必ず良い目に合うわけでないことも、善行者が不幸になることがあることも、悪人はよく眠ることも、本当は、わかっているのだけれど、バイヤスをかけて考えずにはいられないのだ。

それが空と色のことなのだろうとおもうよ。空即是色、色即是空とは、そのようなことであり、事実にバイヤスをかけずには、なかなか受け入れられない私達ではあるが、やはり色即是空、空即是色の中にあるのかな。
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怒る、憤る、界隈

2024年05月10日 | ことばを巡る色色
思えばこんなに遠くまで、怒りながら、憤りながら来てしまった。そのために私は私を蝕んだと書いたが、怒りながら、憤りながらしていなかったら、私はここまで来られもしなかったかもしれない。不公平、不条理、不潔、不道理、ふにゃふにゃなことに、憤り続けてきた。マイナス要因をいっぱい投げつけてくる運命にも怒れてきたし、そんなものに屈することも嫌だったし、やったことは何らかの形で報われるべきと思っていたし、逃げればそれだけのものしか手に入れられないと思ったし、何処にも何らかの光はあるはずだと信じたし、その光を信じる気持ちを誰もが持っていいと思ってきたし、誰もに持って欲しいと動いてきたし。
だから、怒りながら、憤りながら私はそこそこなものを獲得した。他人から見れば価値はないかもしれないが、私は私に必要なものを憤りながら手にしたのだ。きゃんきゃんせずに、狙い澄まして手にしてきたのだ。
そんな中で、怒ることが私を蝕んだというのは、何故であったのか。憤り方の何に問題があったのか。
いや、怒ったり憤ったりすることに罪はないはずだ。
対象の問題なのだろうか。怒りや憤りは出来事に向けるべきである。ということなのだな。どこかに、私のどこかに、やはり人を許せぬ気持ちがあったことが問題であったのかな。
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民藝は、なぜつらいのか

2024年05月09日 | ことばを巡る色色
前回、民藝と聞くと寅さんを思い出してしまうという話をしたのだけど、一体そのつらさはどこからくるものなのだろうか。
民藝は優越的立場の人、ブルジョワジーだったりが、プロレタリアートを評価するものであるが、その、一瞬「嫌らしい」感じは、ブルジョワジーに対しても、プロレタリアートに対しても上位から語ってしまっているところだろう。優越的立場にいるのに、優越の享楽に浸る人とは違い自分は民衆の美をも理解できるのだ、という他の富めるものの堕落とは一線を画しているという特別感。民衆に対しては、富める私ではあるがあなた方の美を理解できるのだという特別感。どちらの側に立つというリスクを負わず、安穏な立場から美を語っているように見えてしまう。
また、一生、東大卒と通行手形をスタンプされる経歴を持ちながら、フーテンを評価するという特別感。民藝も寅さん監督も、素直に素敵だと思ったのに違いないのに、付き纏ういやらしい感じから逃れられない。階級なり、階層なり、出自なり、学歴、閨閥。本人はそこから逃れて語るのに、そこをベースに語ってしまうという自己矛盾。他の階層のを語るというのは最新の注意を払っても、危うさを否定できず、にも関わらず、私たちはそこを逃れるために語るのだ。
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民藝はつらいよ

2024年05月08日 | ことばを巡る色色
岐阜石徹白の野良着などを元にした洋品店、しばらく前から欧州のアート関連で評価されていると聞く。型紙集を去年夏、岐阜川原町で見た。オリジナルのものであり、ヨーロッパで評価されているのではあるが、気軽に購入するにはちょっと高価であった。
はてさて、これはいわゆる「民藝」なのである。
高山日下部民藝館のように「民藝」なのである。働く庶民の知恵が生み出したものは確かに素晴らしく美しい。
ただ、それを評価するのは、働く庶民ではなく、庶民を我の下と位置付け、市井の農村の人々の営みを卑しいものとしてきたアッパーグループの層の人々から生まれてきた人だったり、その層に育てられた人だったりするのだという矛盾。
「民藝」に触れると、私はよく、日本の最高学府とされる学校を出た人が、放浪のバナナの叩き売りを映画に撮り続けていたことを思ってしまう。アッパーグループの中で生まれるなり、育つなりした人が、野良着なりバナナの叩き売りなりを果たして純粋に讃えることができるのか。上下なり優劣なり高低なり貧富なり奢りなり屈折なり卑屈なり尊大なりが混ざらず、見ることができるのだろうか。
偽善だ嘘っぱちというだけでは、やはり片付けられない。人がニュートラルに美に向き合うことは、容易くはない、のである。



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王者を喩えるならば

2024年05月07日 | ことばを巡る色色
井上尚弥のネリ戦を、今朝見た。リアルタイムでは見られなくて、結果を知ったのちの視聴であったが、大変楽しんでみた。リアルタイムだったらば1ラウンドのサプライズのために、もっとドキドキした視聴になったであろうが、勝利を知ってはいるので、お互いに煽っているのも心の余裕をもってみた。
王者も大人になり、狙いを定めることだけに試合のポイントを考えるところから、駆け引きを見せながら試合を楽しむことへと、変わっているのだな。
しかし、彼の試合を見るようになって他の格闘技の試合は、つまらなくて見られなくなってしまった。
これはいわば、ボクシングの試合を見るというよりは、美しいもの、真実のもの、「芸術」というものをみているのだなと思う。

王者を喩えるとすれば何だろう
と、ふと考えた。

そうだね。曜変天目みたいだね。
曜変天目はその現存する4個の内3個は国宝指定されているが、その製法は明らかにされていない。器であるのに、その中に宇宙、星々を有している。黒い宇宙の中で、星が瑠璃色に光る。
茶碗であって茶碗を超える、宇宙を持つ、真実の、美しい、明るく輝く、その輝きに笑ってさえもしまえる、なにかであるから。
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平気、ということについて

2024年05月04日 | ことばを巡る色色
突然の軌道修正を余儀なくされて
自分の気持ちがとても整理できなくなってしまって
これまで、目前の処理すべきことを無理やりに力づくで
ちぎっては投げ、してきたのだな、わたし。
気が付くと、近くには泣き言をいう友もいない。
目前のことをやりこなすことで、私は考えたくないことを、気づかぬことにしてきたのだな。
これまで、頑張ってきたのだから、しばらく休めばいいと言われるのだけど、
休まぬことで逃げてきた私は逃げ場をなくしている

つらい昔を、忘れてしまったことにしてきた。
そうやって生き延びてきた
でも、私の中ではやはりつらいことのままだったので、
昔のことを気にしていないように手助けをしなければならないことは、
私にとっては、
随分、理不尽な思いを持って動いてきたのだね。
自分がそれをしなければならないことを、つらいと思いながらも
そう思ってはいけないと封じ込めたのも、私を蝕んでいたのだろう。
私は、この先どこに行くのだろう
これまで、どんな風に平気でいたんだろう。
でも、でも、私は、やはり、平気で生きていかなければ

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リベルテ

2024年03月13日 | ことばを巡る色色
私は何を手に入れたいと思い続けてきたのかを
やっと思い出した
その名は自由
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ほめてほしいってこと

2024年01月26日 | ことばを巡る色色
秋から取り掛かっていたことに、身も心もへとへとになりながら、何とかけりを付けた。
正月明けの二週間は毎日が目まぐるしく、やることだらけだった。
自分の決心を迷いながら、本当にやり遂げられるのだろうかと思いながら、
体の不調は続いたけれど、何とか決着をつけた今週は少しずつ体調も戻ってきた。
少しずつ妥協をし、関連先には少しばかりの心づけをした。
人生のベストいくつかに入るような案件だったけど、
その件について話をするのだけど、
もうすこし、「よくやったね、たいへんだったね」
と言ってほしいものだ。
本当に本当に大変だったのだ。
私は、あちらもこちらも考えながらよくやった。

そんなこと、きっと私だけのことなんだけどね。
そうなんだけどね
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井上尚弥に捧ぐ

2023年12月26日 | ことばを巡る色色
試合が始まった。
前の試合の時に書いたもの。今度も試合を見られる幸せを感じながら、王者に捧ぐ

ーーーー
昨夜、井上尚弥の試合を見た。地上波で放映されないのは、日本国民にとっては残念だけど、何はともあれリアルタイムで見せてくれたLeminoさん、ありがとうございます。
ボクシングの王者は昨夜もやはり、王者の試合であった。
王者の仕事は「時の支配」であり、「場の支配」である。多くの人は、対戦相手を支配することと思っているかもしれないが、王者は人に勝とうとしているのではない。であるからこそ、王者は王者であるのだ。藤井君しかり、平野君しかり、である。人に勝とうと思っている人は結局、人との戦いの中でしか戦えない。王者が時と場とに戦いを挑んでいるからこそ、私を惹きつける。気負いなく見つめ、先を読み、狙いをすますこと。浄らかな戦いを見ることは人としてこの上ない喜びであり、またその時を味わいたくて戦いを見に行くのだ。
昨夜もそんな戦いであった。

2年前に思っていたこと、同じ思いを昨夜も味わわせてくれたのは、やはり彼が王者であるからだ。お帰りなさい。

「理解と一打」  2021-06-16 
https://blog.goo.ne.jp/admin/editentry/?eid=3ae1a68f654ba2a74efe41d1ffd095fe&sc=c2VhcmNoX3R5cGU9MCZsaW1pdD0xMCZzb3J0PWRlc2MmY2F0ZWdvcnlfaWQ9JnltZD0mcD01

20日がもうすぐやってくる。井上尚弥の試合だ。
ずいぶん前、彼の試合を始めて見た時の衝撃は忘れられない。それまで、ボクシングというのは、打って打って相手にダメージを与え、攻め続けて決着をつけるものだと思っていた。その時の彼は相手を追い詰めて、一瞬時が止まったように、少し笑みを浮かべてパンチを出した。「ああ、笑っている」と思った。それは相手を(見切った)ということなんだなと、初めて分かった。間合いと距離を測りながら、ちょっと相手にたたかせたりしながら、最適の瞬間、最適の位置を見切った時、相手を仕留める。見切ることは相手を深く理解することだ。
その時から、彼以外のボクシングの試合がつまらないものに見えてしまっている。
戦いは、血みどろの力任せのものではないのだ。最もダメージの少ない静かな一瞬を見切ることが大切だ。相手と対峙し、相手を知り、受け入れ、後にも先にもない一瞬を見極める。その戦いは美しい。相手の時間と距離を自分の中に取り入れながら、自分を失わず相手を打つ。
そうだね、戦いは、自分の強さを誇示することではない。軽いフットワークで相手を見つめ、ちょっとぶつかったりしながらも決定打を食らうのを避け、相手を的確に知った者だけが勝者となるのだね。それは、日々の戦いとも共通している。
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秋に巡る

2023年12月05日 | ことばを巡る色色
秋の繁忙期が過ぎて、ちょっとだけ、浴びに行く。



まずは高山の日下部民藝館の落合氏の展示。民藝や古いお家でやろうとすると、結局こうなってしまうのかな。既視感のあるものが多かった。AIの答える仏像というものが見たくて行ったのだけど、それは端正なお方ではあったが。仏はやはり人の頭の中に描くものであるのだろう。日下部民藝館。その昔の民芸運動というものは、幾分お大尽の、君たちのことも私にはわかるのだという趣味的なものであったのだろう。再発見されなくとも民藝はそこにあり続けているのであり、滅びるものも滅びぬものもまた、民藝であり続けるはずだからね。

金沢の国民文化祭に伴う特別展にぎりぎり駆けつける。若冲は二つしか来ていなかったけど、天皇さんにささげられた数々の宝物を見た。兼六園あたりはさまざまに博物館美術館があるということを初めて知った。石川県立美術館の常設で鴨居玲を見れたのも、国立工芸館が隣に移設されているのを知れたのもよかった。特別展のない時にまた国立工芸館に行こうと決めた。


加賀前田家成巽閣に行ってみた。殿様の、お姫様の、御台所様の、貴族様のお宅は立派だけど、どこかかわいらしくて、寒い広いお家だ。家を背負うということはきっととてもとても寒いことなのだろう。




かっこいいのが建ってるじゃんと、建物に惹かれ西田幾多郎記念館に行く。なんだか楽し哲学。




安藤忠雄氏のらせんの建物は、実際、哲学だった。思いがけず、静かな建物の中で哲学の色々を読むのはいいね。こんなこともあるから無計画の旅は面白し。

渡世のいろいろに、スポイトできゅーっとバイタル的なものを吸われている状態のわたし。立ち上がろう。俯かず背中を伸ばして少し先を見よう、と思う。
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王者の帰還

2023年07月26日 | ことばを巡る色色
昨夜、井上尚弥の試合を見た。地上波で放映されないのは、日本国民にとっては残念だけど、何はともあれリアルタイムで見せてくれたLeminoさん、ありがとうございます。
ボクシングの王者は昨夜もやはり、王者の試合であった。
王者の仕事は「時の支配」であり、「場の支配」である。多くの人は、対戦相手を支配することと思っているかもしれないが、王者は人に勝とうとしているのではない。であるからこそ、王者は王者であるのだ。藤井君しかり、平野君しかり、である。人に勝とうと思っている人は結局、人との戦いの中でしか戦えない。王者が時と場とに戦いを挑んでいるからこそ、私を惹きつける。気負いなく見つめ、先を読み、狙いをすますこと。浄らかな戦いを見ることは人としてこの上ない喜びであり、またその時を味わいたくて戦いを見に行くのだ。
昨夜もそんな戦いであった。

2年前に思っていたこと、同じ思いを昨夜も味わわせてくれたのは、やはり彼が王者であるからだ。お帰りなさい。

「理解と一打」  2021-06-16
https://blog.goo.ne.jp/admin/editentry/?eid=3ae1a68f654ba2a74efe41d1ffd095fe&sc=c2VhcmNoX3R5cGU9MCZsaW1pdD0xMCZzb3J0PWRlc2MmY2F0ZWdvcnlfaWQ9JnltZD0mcD01

20日がもうすぐやってくる。井上尚弥の試合だ。
ずいぶん前、彼の試合を始めて見た時の衝撃は忘れられない。それまで、ボクシングというのは、打って打って相手にダメージを与え、攻め続けて決着をつけるものだと思っていた。その時の彼は相手を追い詰めて、一瞬時が止まったように、少し笑みを浮かべてパンチを出した。「ああ、笑っている」と思った。それは相手を(見切った)ということなんだなと、初めて分かった。間合いと距離を測りながら、ちょっと相手にたたかせたりしながら、最適の瞬間、最適の位置を見切った時、相手を仕留める。見切ることは相手を深く理解することだ。
その時から、彼以外のボクシングの試合がつまらないものに見えてしまっている。
戦いは、血みどろの力任せのものではないのだ。最もダメージの少ない静かな一瞬を見切ることが大切だ。相手と対峙し、相手を知り、受け入れ、後にも先にもない一瞬を見極める。その戦いは美しい。相手の時間と距離を自分の中に取り入れながら、自分を失わず相手を打つ。
そうだね、戦いは、自分の強さを誇示することではない。軽いフットワークで相手を見つめ、ちょっとぶつかったりしながらも決定打を食らうのを避け、相手を的確に知った者だけが勝者となるのだね。それは、日々の戦いとも共通している。
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稚き地点

2023年07月10日 | ことばを巡る色色
あまりに不調が続くので、その意味を考えてみる。自分に起こる出来事は、偶然のものであって本来、必然に有する意味はないと私は思っている。が、意味付けをする意味はあると持っている。なぜ、今、私にこれが起こっているのか。古の言葉で書かれた碑文を解読するように、あれやこれやを繋げてみるのだ。こう読み解けば、こういう分岐が見えてくると考えてみる。
あれからこれまでの長い間、私は何に囚われてきたのか。変えたい道を変えないのは、きっと変えないでいる自分が好きなのだ。変わらない自分でいたいのだ。変えてしまうと自分でいられるかがわからず怖いのだ。
稚日女尊から始まったいろいろを私はそう読み解いてみた。だから、もう一度、変わる前の私へと、囚われる前の私の地点へと行ってみよう。それは稚き日の私であり、そこから、もう一度生きてみろということなのかもしれない。それも素敵なことだ。寺山が、一番最後でもいいからさ、世界の涯てまで連れてってとうたっていたあの地点から。わたしよ恐れるな。恐れず進めばよい。
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鳥羽の女神の伊射波神社

2023年07月06日 | ことばを巡る色色
先日、旅行割最後の機会と思い、特に選ぶでもなく鳥羽のホテルに宿泊することとした。所在地の地図を見てみると近くの岬の中に神社がある。伊射波神社、万葉仮名の神社だ。これはこれは行かねばならぬ。
鳥羽一の宮に比定されているが、最も行くのが大変な一の宮とのこと。下の駐車場から、アップダウンある道を1キロ以上行かねばならぬらしい。宿泊翌日、安楽島舞台の駐車場に行くと地域の皆さんは茅の輪作りの最中だった。行くのは大変ですかと聞くと、1人の方が乗せていってくださるとのこと。途中は慣れない人ではとても踏破できぬ山道が続くが、花
、草木の話をしながら案内してくださる。確かに確かに、登ってくるのは大変だ。だが、数組の老若男女のカップルとすれ違う。夏至のこの時期、鳥羽は太陽を讃える。夫婦岩も伊雑宮も、赤崎神社も太陽が最も盛んな夏至を祝う。
この旅の後、私は実は困ったことに襲われている。鍵を落とし、マダニに噛まれ、発熱し、近所のおばあさんとぶつかり、パソコンは壊れ、体調はいまだぼろぼろである。
伊射波神社の方は優しく、神社も海も岬も優しかった。そこからみる太陽はさぞや美しかろう。
だが、これだけの難が続くのだから、ここでお礼を申しておくべきだったのかもしれない。
太陽の強くなった日、鳥羽にお迎えくださった鳥羽の女神様。そう言えば、去年もコロナ前も私をこの時期に鳥羽にお招きくださった、鳥羽の女神様。私はなんの由縁もわからぬ者だが、この時期に迎えてくだる理由があるのかもしれぬ。
この一連の出来事に体力もついていかぬ私ですが、また、太陽の地を訪れる日がやってくることを。次はどのような形になるのか、楽しみにしたいと思います。

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くじらとルッキズム

2023年05月07日 | ことばを巡る色色
捕鯨の町のドキュメンタリーを見る。手書きの捕鯨反対の紙を港で掲げる女性がインタビューされている。動物だから、かわいそうだから、自分ができることをしようと思う、というような考えを語っていた。であるのに、私は彼女の密集したまつげエクステンションが気になってしまう。鯨イルカ保護とは全く関係ないのに、彼女はまつエクをする女性なのね、と思ってしまった。いやいや、彼女の主張と行動を考えよう、とするのだが、ああいう人がああいう行動をするんだね、一昔前の環境保護の人ってノーメイクが多かったのに、今時はこういう流れなのね、と考えてしまう。
次に映ったのは、イルカクジラ飼育者を目指す女性だった。その中で、飼育トレーニングをしている女性は、この仕事は化粧をしなくて済むところもよいと語った。
化粧をするにしてもしないにしても、女とはつらいものだな。主張と外見をいかに見せるかは関係ないのに、そこに目が行き、思想のありようとの関連を考えてらてしまう女たち。いかに見られているにどこか囚われてしまう。
まあ、仏像だとはいえ、美しいお方は多くの信者を集めるのだしな。思想と外見は別物のはずなのにそれを一緒に考えてしまうのも、人の業であるのかもしれない。
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