いろいろなサイトを見るようになり、自分の中に「問答無用」な部分がいくつかあったことに気づいた。それらに対して、私が強い信念なり、他者を論破できるような理路整然とした理由をもっているわけでは、ない。にもかかわらず、私の中でそれらは、「問答無用」であり、自らに問い直してみる余地が窮屈なのである。私はそれらを、もう私の中で確立し、手直しする必要のないものとしてしまっていた。「良き市民」として生きるには、そのように考えるのは当然であると考えていたのだ。たとえば、「人を殺すことはいけない」というように、考える必要もなく、それを思いつくだけで自らが穢れてしまいそうなほど自明のことだったのだ。
しかし、それらがなぜ私の中で「自明」のことだったのかを考えてみると、私が育った時代、受けた教育が大きく影響しているのかもしれないと思う。私は、育った時代の中で「良き市民」と考えられているものを、私の規範として持っていたに過ぎないのかもしれない。わたしは、「良き市民」になりたかったのだ。だから、私は、今という時代の中でもう一度、それらの意味を問い直さなければならないのかもしれない。
私の立つ位置は、少しだけ左側だ。右側に行くのは野蛮で粗野なことだと思っていた。そうして、 「君が代」を歌うことに躊躇はないが、式においての斉唱には違和感を感じる。天皇制は存続してもよいと考えている。神仏は心の中で考えるものであり、特定の宗教団体に属そうとは思わない。マイノリティへの差別は決してしてはいけないことである。死刑は廃止されるべきである。原発は、近い将来に不要になるのが望ましい。与党が絶大な数となるのは危険である。脳死移植はまだ日本において成熟しておらず、現状での実施は早計である。
これらは私の中で、問答無用のものであった。私は、それらを問い直すことから逃げていたのかもしれない。その是非を考えるのが困難であるからという理由ではない。私は、むかし身に着けた「よき人」の上着が、気に入っていたし、それは美しい薄空色をしていたのだ。
では、私は何故、今、それを問い直そうとしているのだろうか。それは・・・それは、なぜだろう。多分、ネットの右側の人が、そうして左側の人が、あまりに強弁だからだ。「右のやつの言うことだから」とか、「左のやつの言うことだから」とかが溢れかえっている。本当はその前に、「よき人」であるために、それぞれの事柄をどう考えるかが問われるべきであるはずだ。私が間違っていたのかもしれない。私の考えてきたこと、問答無用だと思ってきたことは「キレイゴト」だったのかもしれない。でも、コトの是非は、それが発せられた集団の出自によって判断されるべきでなく、独立した、その「コト」によって判断されるべきだろう。だから、もう一度、私から、自分から、問い直すべきなのだろう。
死刑にすべき犯罪者もいる。マイノリティを武器にしていることを糾弾されるべき人もいるだろう。原発に頼らざるを得ない生活をしている。臓器移植により救える人がいる。
ひとつの「コト」の真実をニュートラルに問うことは難しい。人はいつも自分の立ち位置からものを言うから。自分の言葉で語るということは、立ち位置を語ることに他ならない。それと、ニュートラルに語るということの間に自己矛盾があることは否定できない。けれど、せめぎ合いながら、問い直すしかない。そうしなければ、私はただ、気に入った古い上着を着ているに過ぎなくなってしまう。問い直した私は同じ色の上着を選ぶかもしれなくても、問い直すということが意味のあることだ。今の私はそう思っている。
しかし、それらがなぜ私の中で「自明」のことだったのかを考えてみると、私が育った時代、受けた教育が大きく影響しているのかもしれないと思う。私は、育った時代の中で「良き市民」と考えられているものを、私の規範として持っていたに過ぎないのかもしれない。わたしは、「良き市民」になりたかったのだ。だから、私は、今という時代の中でもう一度、それらの意味を問い直さなければならないのかもしれない。
私の立つ位置は、少しだけ左側だ。右側に行くのは野蛮で粗野なことだと思っていた。そうして、 「君が代」を歌うことに躊躇はないが、式においての斉唱には違和感を感じる。天皇制は存続してもよいと考えている。神仏は心の中で考えるものであり、特定の宗教団体に属そうとは思わない。マイノリティへの差別は決してしてはいけないことである。死刑は廃止されるべきである。原発は、近い将来に不要になるのが望ましい。与党が絶大な数となるのは危険である。脳死移植はまだ日本において成熟しておらず、現状での実施は早計である。
これらは私の中で、問答無用のものであった。私は、それらを問い直すことから逃げていたのかもしれない。その是非を考えるのが困難であるからという理由ではない。私は、むかし身に着けた「よき人」の上着が、気に入っていたし、それは美しい薄空色をしていたのだ。
では、私は何故、今、それを問い直そうとしているのだろうか。それは・・・それは、なぜだろう。多分、ネットの右側の人が、そうして左側の人が、あまりに強弁だからだ。「右のやつの言うことだから」とか、「左のやつの言うことだから」とかが溢れかえっている。本当はその前に、「よき人」であるために、それぞれの事柄をどう考えるかが問われるべきであるはずだ。私が間違っていたのかもしれない。私の考えてきたこと、問答無用だと思ってきたことは「キレイゴト」だったのかもしれない。でも、コトの是非は、それが発せられた集団の出自によって判断されるべきでなく、独立した、その「コト」によって判断されるべきだろう。だから、もう一度、私から、自分から、問い直すべきなのだろう。
死刑にすべき犯罪者もいる。マイノリティを武器にしていることを糾弾されるべき人もいるだろう。原発に頼らざるを得ない生活をしている。臓器移植により救える人がいる。
ひとつの「コト」の真実をニュートラルに問うことは難しい。人はいつも自分の立ち位置からものを言うから。自分の言葉で語るということは、立ち位置を語ることに他ならない。それと、ニュートラルに語るということの間に自己矛盾があることは否定できない。けれど、せめぎ合いながら、問い直すしかない。そうしなければ、私はただ、気に入った古い上着を着ているに過ぎなくなってしまう。問い直した私は同じ色の上着を選ぶかもしれなくても、問い直すということが意味のあることだ。今の私はそう思っている。