うさとmother-pearl

目指せ道楽三昧高等遊民的日常

かなたへの弁明

2006年11月17日 | ことばを巡る色色
去年に引き続き、なぜか秋は投稿強化月間。心の中で書きたくてたまらない気持ちが一人勝手に盛り上がってる。なぜ秋なのか、仕事柄、10.11月あたりがちょっと落ち着いた気分になるのと、11月後半から、内職が忙しくなり、それ以前にやることをとっととやっときたい気分があるのだ。今年もやはり11月後半に仕事がやってくる。9月終わりの内職で、抜けた穴を埋めたご褒美か、今回新しいバージョンの内職もやってくることになり、わくわくしている。11月下旬から12月上旬までは、3連ちゃん内職ロードになる予定。当然本職はあるわけだから、今のうちに、植木の剪定やら、大掃除の第一弾やら、忙しい年末にはできない障子の張替えやらをやらねばならないのだ。年末年始の本職準備もあるし、年末調整のお仕事もある。私は何の因果か名ばかりの(なにせ法人格のメリットがほとんどない状態の零細なのだ)会社役員だ。師走に向かい心はあせる。ならば内職などしなければいいのにということになるだろうけれど、私は、お払い箱になるまでこれを続けたいと思っている。「違う世界」というのを、おあしを頂いて覗かせていただけるというのは貴重だし、これがなくなったら、私は本当にアホーのよーに、うつけのよーに、毎日を過ごしてしまいそうで、怖い。
この時期になると、追い込まれた気になる。実はそれが、私は嫌いでない。「いらち」なので、しゃかしゃか何かをしていないと、血が固まってしまう気がする。最近は随分怠けることを覚えてしまい、またりまたりと過ごしているが、事件勃発、となると、「それっ」と腕まくりをしてしまう。それが問題だったのか、ある私への言葉がずっと私には引っかかっている。

ブログというのは「日記」とも言われている。わたしは12歳から、20歳まで、毎日ノート1頁の日記を書いていた。今考えると,随分粘着質な習慣ではあるが、毎日続けるというのは大切なことのように思う。続けることは確実に人を変える。私は日記を書くことにより、多分「救われた」し、「育てられた」
人は変わることができる。私はその力を、本当に、本当に信じている。
ここ1ヶ月の間に「あなたは強いからそんなことを言うが、他人にそれを求めてはいけない。あなたはあなたの強さで弱い人を切り捨てている。あなたの基準で人を論じてはいけない。君のような考え方が勝ち組、負け組みといった世の中の二極分化を促すのだ」というような内容のことを3人の別人に言われた。
とても、衝撃だった。
何がといって、私が自分の基準ゆえに弱者を切り捨てていると思われていることが、である。
そうなんだろうか。衝撃だったのは、私が自分をそのように認識していないからだ。むしろ、私は逆を志向している。幼い頃からの私のスローガンは、「強きを挫き、弱きを助く」であった。
その人たちへ弁明をしたいのだけれど、それは叶わぬことなので、ここで、自分を振り返ってみたいと思う。ずっと書いてきた日記に書くようにね。
ここしばらく、私はいろいろな問題に巻き込まれた。その中でいろいろな考えを、そう親しくはない人に話した。
その人たちの中で私の考えは、強者のものであるらしい。
まず、それが驚きだった。私は自分を強者とも勝者とも思っていない。むしろ、弱者であり、ある意味敗者である。「名もなき者」である。できれば、弱者として「強きを挫き」たいとは思っている。だから、私は弱者がいかに生きていくべきかを考えている。それを考えることは私がどうやれば生きていってもよいのかを考えることであるからだ。
一体彼らはなぜ私を「弱いものを切り捨てる」と思うのか。私の何が彼らにそう思わせているのだろう。

おっと、タイムリミット。  続きはまた明日。   
コメント (4)
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