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神の山霧島-16 隼人塚

2018年04月11日 | 記紀創世紀

 ハヤトの本拠地は国分府と隼人町、記紀に於いてハヤトの祖は海幸彦とされている。宮崎鵜戸神宮の近くにある潮嶽神社は珍しく海幸彦を祀る。山幸彦に敗れた負け犬を祀る神社は珍しく、他にはないのである。境内の東の山を越潮山、西の山を潮越山という。このような山中に閉じ込められた海幸彦は、この地に海の名を付けるほどに敗北の無念さが伝わってくる。この地の伝承によれば海幸彦は石の船に乗ってここへ到着したという。ちょうど河童が陸にのぼったように、もはや陸翔の連絡を絶たれ、この山間の狭い土地を耕して生きながらえるしかなかったのだろう。この地方には奇妙な風習がある。婦女子は縫い針を決して他人に貸さないらしい。海幸彦が弟に釣り針を貸したばっかりに災いが始まったことの教訓であろう。もうひとつは子供が生まれて初参りするとき額に必ず犬という字を書くこと。犬はこの土地ではハヤトを意味する。日本書紀ではハヤトの叫ぶ声が犬の遠吠えに似ているとしている。

 神武天皇の体には祖母・豊玉姫、母・玉依姫を通じてハヤトの血が流れていることになる。しかも曾祖母・此花咲くや姫は大山祇の娘であるから、ハヤトの血の濃さは7/8となり、天孫族の血は僅かに1/8となる。従ってニニギ王朝は神武の代になって支配の根をしっかりとこの地におろすことができたのであろう。このハヤトはかつては熊襲とも呼ばれ、しばしば大和王朝に対して反乱を起こした。しかし抑えられて僕となって仕えたという印象が強い。従って神武天皇の血がハヤトの血であるというのは困るのである。それでハヤトの祖をワタツミ神から話して、神武の祖父に敗れた海幸彦にしたのである。

 神武とその兄弟の東征にはハヤトの多大な協力があった。即ち、神武が大和を征服すると新たに土地の美人を妃に迎えたいと思った。多くの軍功を挙げたオオクメノミコトがミシマノミゾクイの孫・イスケヨリ姫が美しいと推薦し、神武は結婚を申し込んだ。オオクメノミコトは黥ける利目といって、目の周りに鋭い刺青をしていたことから「ハヤト」であった。つまりハヤトはニニギ王朝の親戚であるとともに家来でもあったのであるが、後の時代には辺境の民として大和王朝から過酷な征伐を受ける立場となる。日本書紀ができあがった720年、ハヤトの大規模な反乱が起こった。これは律令制の根本である租庸調の制度を無理やり押し付けたせいではないかという。この乱に驚いた朝廷は万葉集の歌人として知られる大伴旅人を将軍に任じて約1万の大軍を送り込んだ。鎮圧まで1年数か月を要して、最後には曾於の石城、比売の城を制圧した。斬首された者は1400名といわれ、敗者の強い恨みが残っているという。

隼人の反乱における死者の慰霊のために作られたという隼人塚

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