芸術家の方と対談するので、こういう事を考えていた。
(西林真紀子さん 「医芸一魂」 studio MOZAN)
Spirituality(たましい)は主観の追求であり、主観にこそ宝があり、主観の延長にこそ、その人オリジナルの人生がある。
「たましい」を客観化してしまうのは男性に多いが、客観化した時点で、「たましい」は失われる。
なぜなら、大事なのは自分と「たましい」との関係性だから。
客観化とは対象を一度切断してしまうこと。
関係性が切断された時点で、「たましい」は失われてしまう。関係性とはそういうものだ。
たましいとは、あくまでも関係性の問題なのだ。
だからこそ自分にとっての関係性と他者にとっての関係性はすべて違う。
「たましい」の中で、Positive thinkingのように上澄み液しか使っていないものは即効性はあるが、すぐに効果はなくなる。
なぜなら、「たましい」は、本来的に成長や成熟を求めるものなので、それは大きい試練や、とんでもない苦痛や苦労を伴うものだから。
そのプロセスは、その渦中ではNegativeと感じられる体験が多く、普通は誰も進んで経験などしたくない、と思うようなものだ。
時が立ち発酵されることで初めて次元転換を起こす。
だが、発酵と腐敗とは表裏一体の関係なので注意が必要でもある。
だから、自分の中のNegativeな蓋をあける強さが必要になる。
「たましい」の領域では、それなりの覚悟が必要とされる。
Negativeなものは、機が熟するまで蓋をされている。
蓋を開けてみて無理だったら見ないことにして、また蓋を閉めてしまう。その繰り返しが、行われている。
内的なNegativeなものを外に表現するとき「苦労する」という形で、外在化して行動に現れてくることがある(acting out)。
だから、苦労しているように見える表面的なものだけではなく、深層では別の事が進行しているところも見る必要がある。
それは病も同じだ。
表面だけではなく深いところも見ないといけない。
そういうプロセスが芸術になることがある。
ミヒャエルエンデは
『音楽に理解はいらない。そこには体験しかない。
シェークスピアの芝居を見に行ったとする、そのときもです。
私は決して利口になって帰るわけではありません。何事かを体験したんです。すべての芸術に言えることです。
本物の芸術では、人は教訓など受けないものです。
前より利口になったわけではない。より豊かになったのです。
私の中の何かが健康になったのだ、秩序をもたらされたのです。
およそ現代文学で見落とされてしまうのは、
芸術が何よりも治癒の課題を負っている、という点です。』
と言っている。
(→○『「モモ」を読む シュタイナーの世界観を地下水として』(2012-11-26))
それはまさにそういう「たましい」のプロセスのことを言っている。
芸術は、そうして自分を癒す力があり、他者を癒す力が派生的に生まれる。
芸術は、「たましい」のプロセスで生まれる<子ども>のような存在。
表現しないと魂が死んでしまうという衝動から、芸術はおのずから生まれる。
「たましい」はそういうNegativeなものも必ず含むものだが、逃避(シェルター)としてもビジネス(欲望)としても利用されてしまいやすい。
ただ、それはその人の人生で向き合う課題の縮図でもあるので、周りのことは気にしなくていい。
「たましい」はそういうNegativeなものを大きく含むものだからこそ、尊い。
そこに病や死という現象も絡んでくる。
逆にいえば、
一見Negativeに思えるものを表現しながら「軽み」の中で生き続けることこそが、「たましい」を生きるということだと、自分は思う。
「軽み」とは、芭蕉が目指した風雅の境地。
だからこそ、芸術も生きることも尊い。
そして、それれはすべて、同価なのだ。
(西林真紀子さん 「医芸一魂」 studio MOZAN)
Spirituality(たましい)は主観の追求であり、主観にこそ宝があり、主観の延長にこそ、その人オリジナルの人生がある。
「たましい」を客観化してしまうのは男性に多いが、客観化した時点で、「たましい」は失われる。
なぜなら、大事なのは自分と「たましい」との関係性だから。
客観化とは対象を一度切断してしまうこと。
関係性が切断された時点で、「たましい」は失われてしまう。関係性とはそういうものだ。
たましいとは、あくまでも関係性の問題なのだ。
だからこそ自分にとっての関係性と他者にとっての関係性はすべて違う。
「たましい」の中で、Positive thinkingのように上澄み液しか使っていないものは即効性はあるが、すぐに効果はなくなる。
なぜなら、「たましい」は、本来的に成長や成熟を求めるものなので、それは大きい試練や、とんでもない苦痛や苦労を伴うものだから。
そのプロセスは、その渦中ではNegativeと感じられる体験が多く、普通は誰も進んで経験などしたくない、と思うようなものだ。
時が立ち発酵されることで初めて次元転換を起こす。
だが、発酵と腐敗とは表裏一体の関係なので注意が必要でもある。
だから、自分の中のNegativeな蓋をあける強さが必要になる。
「たましい」の領域では、それなりの覚悟が必要とされる。
Negativeなものは、機が熟するまで蓋をされている。
蓋を開けてみて無理だったら見ないことにして、また蓋を閉めてしまう。その繰り返しが、行われている。
内的なNegativeなものを外に表現するとき「苦労する」という形で、外在化して行動に現れてくることがある(acting out)。
だから、苦労しているように見える表面的なものだけではなく、深層では別の事が進行しているところも見る必要がある。
それは病も同じだ。
表面だけではなく深いところも見ないといけない。
そういうプロセスが芸術になることがある。
ミヒャエルエンデは
『音楽に理解はいらない。そこには体験しかない。
シェークスピアの芝居を見に行ったとする、そのときもです。
私は決して利口になって帰るわけではありません。何事かを体験したんです。すべての芸術に言えることです。
本物の芸術では、人は教訓など受けないものです。
前より利口になったわけではない。より豊かになったのです。
私の中の何かが健康になったのだ、秩序をもたらされたのです。
およそ現代文学で見落とされてしまうのは、
芸術が何よりも治癒の課題を負っている、という点です。』
と言っている。
(→○『「モモ」を読む シュタイナーの世界観を地下水として』(2012-11-26))
それはまさにそういう「たましい」のプロセスのことを言っている。
芸術は、そうして自分を癒す力があり、他者を癒す力が派生的に生まれる。
芸術は、「たましい」のプロセスで生まれる<子ども>のような存在。
表現しないと魂が死んでしまうという衝動から、芸術はおのずから生まれる。
「たましい」はそういうNegativeなものも必ず含むものだが、逃避(シェルター)としてもビジネス(欲望)としても利用されてしまいやすい。
ただ、それはその人の人生で向き合う課題の縮図でもあるので、周りのことは気にしなくていい。
「たましい」はそういうNegativeなものを大きく含むものだからこそ、尊い。
そこに病や死という現象も絡んでくる。
逆にいえば、
一見Negativeに思えるものを表現しながら「軽み」の中で生き続けることこそが、「たましい」を生きるということだと、自分は思う。
「軽み」とは、芭蕉が目指した風雅の境地。
だからこそ、芸術も生きることも尊い。
そして、それれはすべて、同価なのだ。