日常

清明心

2012-06-26 20:28:08 | 考え


鏡=かがみ

カガミ-ガ(我)=カミ

神道ではこう考えるらしいです。
鏡に映る自分。そこから我(=自分だけよければよいという心)を引くと、カミになる、と。




「神懸かり」というものに昔から興味を持っています。
宗教家や芸術家に多い。病気とされていることもあります。
沖縄では、「カンダーリ(神垂り,神祟り)」と呼ばれたりします。

カミとは、人間のウチにあるのか、ソトにあるのか・・。

自分は、ウチにあると考えています。誰の中にもある。
あとは、そことのチャンネルや通路やゲートの問題かな、と思います。
それを、ユングは自我(エゴ)に対して自己(セルフ)と呼んだのだと思ってます。





日々、仕事に励んでいます。
一日一日全力で生きていると心身共に充実します。そして力はみなぎります。

神道の中に「清き明(あか)き心」(=清明心)というコトバがあります。
清く明るい心。
くもりなくすがすがしい心。

日本人が美徳とする正直、誠実、思いやりなども同じですね。
そういうものを大切にしたいと、改めて思います。
幼稚園でも習う事ですね。いろいろ小難しいこと勉強していると、結局スタートに戻ります。





大人の世界では「疲れ」ている人が多いですが、なんなのか、と。

子供が外で一日中遊んでいても、大人が言う「疲れ」という状態にはなりません。
自分は、この状態にいろいろ大事なことがあると思っています。

子供のように一心不乱に無時間に遊ぶように仕事に励みさえすれば、きっと「疲れ」というものは生まれないのではなかろうか。
これは、栄養学(カロリー)とか生理学とか・・・小難しい学問を超えたシンプルな事実ではないかと思います。

走り回る子供のようなエネルギー体を目標としながら、日々仕事に励むようにしています。




「笑い」という状態にも、興味を持っています。
ひとはなぜ笑うのか。
おそらく、人が「笑う」とき、そこにはエゴ(自我、我)が介在しない。

エゴが介在しないとき、最初の話に戻りますが

鏡=かがみ
カガミ-ガ(我)=カミ

という式にもあるように、その人のカミ(神性)が現れる。そうすると、疲れは吹っ飛びます。ある意味での自己治癒力が働きます。
ちなみに、嘲笑は「嘲る」+「笑う」状態なので、自分は笑顔に入れていません。それは単なる「嘲る」状態から表情筋が収縮して口角筋がつりあがった形に過ぎませんから。それは笑顔ではないことは直観的に明らかです。


どこにも笑顔が素敵な人がいますよね。老若男女問いません。
そういう人を見ると気持ちが朗らかになり、「清き明(あか)き心」(清明心)が沸々と湧き起こる気がします。
そういう小さいけれども大切な事実にこそ、自分は敏感でありたいと思います。


哲学書とかを読むと小難しいことが小難しい言葉遣いでたくさん書いてあります。
それはそれとして。

自分も含め、99%の人はそんなのを読む時間がないほど必死に働いていたり、必死に生きています。
どんな時も、とにもかくにも「清明心」さえ忘れずやっていけばなんとかなるし、なるようになるようと、感じているわけです。それは、カミさえも呼び起こすような秘密のルートなのだと思います。