互いが大地に深く深く根を張っていれば、ダイアログは常に柔軟でCreativeになる。
なぜなら、大地を介して互いがつながっているから。
違いを、魅力として受け取ることができる。
花瓶同士や花壇同士での対話は、互いが信念体系の土俵から一歩も出る事がない。
お互い学ぼうとしない関係性だ。違いを、敵として受け取る。
その二つの対話は、見た目は似ていても、まったく違うものだ。
医療でも他の業種でも、対話(dialogue)が大事だ。
遠い世界同士ではダイアログを必死にするが、近い世界同士こそダイアログをおろそかにする。
だからこそ、似た世界は互いが互いを否定しやすい。距離が近いから違いが大きく見えるのだろう。
違いを魅力として捉えるか、敵として捉えるかは、価値観や美意識の問題だ。
ダイアログで大事なことは、まず受け取ること。
それを採用するか、同意するかは全く別次元の話だ。
大抵の人はそれを一緒にしている。
だから、異質なものを受け取ろうとしない。話を聞こうともしない。
聞くふりをして受け取っていないのは、相手には必ず伝わっている。
まず受け取ることが大事だ。
あとは時間をかけてゆっくり吟味すればいいだけだ。それは発酵のプロセスに似ている。
いま分からないものは、未来の自分に投げかける。
これは未来からき過ぎて自分にはよくわからないのだ!と。
キャッチボールは受け取ることからはじまる。
それだけで、すでにダイアログは行われている。
プロセスはすでに動き出している。
そのことで、お互いが新しい場所に、別の次元に行ける。
どちらか、ではなく、どちらも。
ダイアログとは、極めてCreativeな行為なのだ。
Artであり、Creationでもある。
そう思うか、思わないかも、自由な選択に委ねられている。
***********
ミヒャエル・エンデ「モモ」
『ほんとうに話を聞くことのできる人は、めったにいないものです。』
***********
ルドルフ・シュタイナー「いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか」
『自分自身の内なるものが完全に沈黙するようになる習慣が身に付かなければいけない。
・・・・
ひとつの練習として、ある期間自分と正反対の考えに耳を傾け、一切の賛成、とくに一切の否定的判断を完全に沈黙させる行をみずから課する。
一切の合理的な判断が静まるばかりではなく、嫌悪、拒絶、いや賛成の気持ちも、いっさい沈黙することが大切である。
特に本当に注意深く自己観察をする必要があるのは、そうした感情がたとえ意識の表面にはのぼらないようでも、自分の心の奥深いところにひそんではしないだろうか、という点である。』
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なぜなら、大地を介して互いがつながっているから。
違いを、魅力として受け取ることができる。
花瓶同士や花壇同士での対話は、互いが信念体系の土俵から一歩も出る事がない。
お互い学ぼうとしない関係性だ。違いを、敵として受け取る。
その二つの対話は、見た目は似ていても、まったく違うものだ。
医療でも他の業種でも、対話(dialogue)が大事だ。
遠い世界同士ではダイアログを必死にするが、近い世界同士こそダイアログをおろそかにする。
だからこそ、似た世界は互いが互いを否定しやすい。距離が近いから違いが大きく見えるのだろう。
違いを魅力として捉えるか、敵として捉えるかは、価値観や美意識の問題だ。
ダイアログで大事なことは、まず受け取ること。
それを採用するか、同意するかは全く別次元の話だ。
大抵の人はそれを一緒にしている。
だから、異質なものを受け取ろうとしない。話を聞こうともしない。
聞くふりをして受け取っていないのは、相手には必ず伝わっている。
まず受け取ることが大事だ。
あとは時間をかけてゆっくり吟味すればいいだけだ。それは発酵のプロセスに似ている。
いま分からないものは、未来の自分に投げかける。
これは未来からき過ぎて自分にはよくわからないのだ!と。
キャッチボールは受け取ることからはじまる。
それだけで、すでにダイアログは行われている。
プロセスはすでに動き出している。
そのことで、お互いが新しい場所に、別の次元に行ける。
どちらか、ではなく、どちらも。
ダイアログとは、極めてCreativeな行為なのだ。
Artであり、Creationでもある。
そう思うか、思わないかも、自由な選択に委ねられている。
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ミヒャエル・エンデ「モモ」
『ほんとうに話を聞くことのできる人は、めったにいないものです。』
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ルドルフ・シュタイナー「いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか」
『自分自身の内なるものが完全に沈黙するようになる習慣が身に付かなければいけない。
・・・・
ひとつの練習として、ある期間自分と正反対の考えに耳を傾け、一切の賛成、とくに一切の否定的判断を完全に沈黙させる行をみずから課する。
一切の合理的な判断が静まるばかりではなく、嫌悪、拒絶、いや賛成の気持ちも、いっさい沈黙することが大切である。
特に本当に注意深く自己観察をする必要があるのは、そうした感情がたとえ意識の表面にはのぼらないようでも、自分の心の奥深いところにひそんではしないだろうか、という点である。』
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「違い」を感じ、「差」ばかりを見てしまうと何だかもう、主導権争い…みたいな^_^;よくある光景かもしれません。
「ダイアログ」するなら、違う部分もジャッジせずにそのまま受け取って、そこからがスタート。
そこから、物事や人間関係が深まったり、拡がったりと動きが出てきますもんね。
仰る通り、近しい関係ほどそう。やっぱり、自分の世界に近い事ほど何かこうコントロールしたくなる感じします。
どれだけしっかりと根を張っているか。とは納得の表現。自分の世界への信頼…ていうのかな。それが違いを受け取るための器になるのかもしれません
河合隼雄先生の、コメントのお返事ありがとうございました(^-^)
いなばさんのブログおもしろいです。文章力も羨ましい限りです。
お返事遅れてすみません。
コメント有難うございます。
そうですね。
受け取る、受け入れるって、可能性を拡げる事ですね。器が大きくなると、可能性が拡大していきますよね。
根を張っているからこそ安定が産まれるし、根を張っているからこそ相手とも見えない土を介してつながっている、そういう気がします。
根は目に見えないからこそ、おろそかになっているような気がしますね。表面ばかりが注目されて。
今後ともよろしくお願いします。(^^