■Nina simoneの「He Was Too Good To Me」は最高!
最近は日々学ぶことが多くて、ふと外を見ると天気もよく晴れてたりして気持ちよくて、いい気分です。
ふと病院の待合室にあるラジオからSalyu versionの「to U」が偶然流れてきたり、Nina simoneの「He Was Too Good To Me」が偶然流れてみたり。それだけで一日が幸せ感に包まれちゃう。
そして、吾の日常としては、人と会って話したりして影響や刺激を受けるのが常です。
つくづく、自我とか自己ってのは他者との関係性で浮き出てくるものだなぁと思ったりしましてね。今日はそんな話です。
■「2項対立」
音楽、踊り、魅力・・そんなのでふと考えたのが「2項対立」という概念。
テレビとか、瞬間的なわかりやすさが求められるから、そういう瞬間的に情報を伝えるとき、「2項対立」ってのはよく表現手法として多用される。
善と悪、正気と狂気、個人と国家、地方と都市・・・もう限りなくありますね。
■「2項対立」の罠・短所
「2項対立」ってのは頭に入って来やすいがゆえに、理解した!っていう誤解を生みやすいものでもある。何かあるものを理解しようとするとき、「2項対立」の概念を仮に立ててみて、そこから考えていくっていうのはとっかかりとしては取り組みやすい。取っ掛かりとして有用なのは全然否定しない。
だけど、ほとんどの事柄は、結論としてはそういう「2項対立」ではすっきりまとめることができないことばかりだと思う。
「2項対立」は入り口としてはいいんだけど、決して出口ではない。
善と悪に関しても、2項対立で「この人は善100%!」とか、「この人は悪100%!」って言う結論になることはほとんどないんじゃなかろうか。
でも、そういう結論で理解した錯覚に陥る罠があるのが、2項対立の落とし穴だし、欠点だと思う。そこは自覚的で意識的な方がいい。
手塚治虫は、常に善でもあり悪でもある混沌とした世界を描いていて、だからこそ人間味溢れる普遍性を得ていると思うし、手塚が「鉄腕アトムは絶対的なよい子ではない!」と言って、社会から作られたアトムのアイドル的評価に常に苦悩していたように、単純な2項対立の結論になることは皆無と言っていいと思う。
犯罪報道も、死刑制度もそうかもしれんけど、「この人は悪100%!」って2項対立でバッサリ切っちゃうことで大事なことを取りこぼすことって多いし、単に臭いものに蓋をしていたり、対象そのものから逃げているのと同じような気がしちゃうんです。
■奥底にあるリアルなものを、ある表面で包んでいる
食べ物を食べるときに、動物がどう殺されて自分が生きているかって普段考えないのが普通だったり、人体の表面ってすごくキレイだけど、中には生々しくリアルな内蔵がグチャグチャにいっぱい詰まっていたり・・。 生きていく上で嫌悪感や不快感を感じないように表面的に化粧するっていうのも、生活の知恵として大事だと思います。ただ、ある対象の本質に迫るには、表面的には隠された奥深くのものを、丁寧に見ていくっていうプロセスは大事だとも思う。
2項対立ってとこから少し脱線しましたけど、2項対立っていう概念は
「とりあえず表面とか対象全体を大まかに理解するために、取っ掛かりとして有用な手法。でも、それがそのまま最終的な結論になることはほとんどない。入り口としてはいいんだけど、決して出口ではない。」
っていうことをわきまえたい。
それは自分への戒めとしてもよく思います。
■「2項対立」の長所
2項対立の長所って書いたけど、長所というか、こういう風なことにもつながるし、いいとこもあるんじゃないの?ってことですね。ま、長所でいいや(笑
実用的なものと非実用的なもの、意味があるものとないもの、言語的なものと非言語的なもの、目に見えるものと目に見えないもの・・・・2項対立で分割させようとすれば無限に切り口がある。
自分を客観的に見つめた上で、何らかの境界線でこの世界を2つにぶった切って、実験的に2項対立の世界にしちゃうと、自分が一方側にいる場合と、その境界にいる場合があるんだと思う。
■境界・狭間(→また別の機会に)
自分は、どうやらその境界領域が趣味嗜好として好きなんだなぁということに、最近気づいてきた。そしてそれを意識しようと思ってきた。
境界線上ってすごく不安定で危ういので、あっちに行ったりこっちに行ったり、フラリフラリと揺らぎながら常にバランスとならないといけないんですけどね。危ういから面白いってのもあるし、一定でないから無限性を感じれるってのもある。
ま、これは単に個人の趣味趣向に近いものだし、また別の話なんで置いときますね
(→梨木香歩さんの「ぐるりのこと」っていうのがそういう境界とか狭間の話で、とても素晴らしい本なんですよ。読みやすいしお奨め。これで梨木さんの大ファンになっちゃいました。境界とか狭間なことはいつかブログにも書きたいっては思ってますが・・・いつになるやら)。
■実用-非実用 意味-非意味 言語-非言語
色んな観点で自分を二つにぶった切ったときの、自分が明確にどちらかにいる場合の件をとりあえず書きたい。
男と女で言えば男の領域にいるなぁとか、実用的職業と非実用的職業で言えば実用的職業にいるなぁとか、都市と地方で言えば今は都市にいるなぁとか、そういうことです。
そういう2項対立の一方の領域にいるというとき、それ自体ではやはり完成形ではなくて、もう一方の領域と【相補的】であるときに、やっと一つの完成形になるんじゃなかろうかと最近思うんですよ。
【相補的】というのがキーワードなんだと思う。
(A)実用的職業と(B)非実用的職業とか、(A)意味の世界と(B)意味ではない世界、(A)言語的世界と(B)非言語的世界とか、まあ色々ありますよね。
自分は上の3つで言うと比較的(A)にいる気がしますが、やはり不完全だなーってよく思うんです。かなり偏ってる生き方だと思うし、自分の一度きりの人生を、こんなことに何十年も時間を費やしていっていいのかなぁとかね。不安になる時も間違いなくある。
それに対して、上の3つで言うと(B)にいる人も、不完全だなーって思ったり、ふと不安になったりするときってあるんじゃなかろうか。
結局一方の領域だけだと同じ思いを感じちゃうような気がする。
そうなると、お互いが相補的に存在して初めて一つのモノとして成立して完成していくんじゃなかろうかと思うに至った。
どっちかだけでは駄目で、違う領域の他者と、二つが共存し同居することで初めて成立し、完成するものなんじゃないかと。
■個人だけでは超えられない壁と他者の存在
そこは一人の個人では超えられない壁なんじゃないかと。
そのためには、自分がこの世界でどういう立ち位置にいるかを知ることから始まる。
立ち位置としてイマ、ココというのは、イツ?ドコ?ということを考えることから始まる。
つまり、時間と空間を問い直すこと。
この時間である有難さとか、この空間であることの有難さとかを思うこと。
そして、自分の立ち位置を浮き上がらせるために、いろいろな境界線を自由に引いていく。善と悪、意味と非意味、言語と非言語・・・、なんでもいい。引くことができる境界線が多ければ多いほど、自由であればあるほど、自分の世界の中での立ち位置っていうのは明確におのずからあぶりだされてくる。
それは、ありふれた言葉に変換すると「色んな世界を見なさい」「色んな人と交わりなさい」という教訓じみた言葉に秘められているのかもしれん。
まあそうなると、「2項対立」の「対立」の部分がおかしいんであって、「同居」とか「混在」とか「一体」とか、そういうことなのかもしれんけど。
医学も医学だけでは完成系ではないし、科学も科学だけでは完成系ではない、芸術も芸術だけでは完成系ではない、。
自分が所属している立ち位置で、実際そうやって思い直すと、色々やるべき課題が見えてきた。
【相補的】に【呼応】していくこと。
この辺は、まあこのブログで手を変え品を替え書いていることです。いつも最終的には同じこと書いてますね!笑
ま、実際にどういうことを意味するかは、この現実世界を生きていく上で、実践して体現していきたいとも思っています。
理論だけではなく実践でね。
これは、プロジェクト大山のような踊りをやっている方の表現や、通崎さんのようなマリンバ奏者の音楽をやっている方の表現を見たり、他にも色んな魅力溢れる他者と会って話したりして、改めて自分にとってリアルに感じとったことなんですよ。
「違う世界から学びました!」って言えば簡単なんだけど、細かく記述すると、まあ上に書いたようなことなんだと思ったんです。
なんか、『2項対立の長所と短所』っていうタイトルから微妙にずれとる気もするけど、まあ大して思いつかないんで、このタイトルにしときました(笑
最近は日々学ぶことが多くて、ふと外を見ると天気もよく晴れてたりして気持ちよくて、いい気分です。
ふと病院の待合室にあるラジオからSalyu versionの「to U」が偶然流れてきたり、Nina simoneの「He Was Too Good To Me」が偶然流れてみたり。それだけで一日が幸せ感に包まれちゃう。
そして、吾の日常としては、人と会って話したりして影響や刺激を受けるのが常です。
つくづく、自我とか自己ってのは他者との関係性で浮き出てくるものだなぁと思ったりしましてね。今日はそんな話です。
■「2項対立」
音楽、踊り、魅力・・そんなのでふと考えたのが「2項対立」という概念。
テレビとか、瞬間的なわかりやすさが求められるから、そういう瞬間的に情報を伝えるとき、「2項対立」ってのはよく表現手法として多用される。
善と悪、正気と狂気、個人と国家、地方と都市・・・もう限りなくありますね。
■「2項対立」の罠・短所
「2項対立」ってのは頭に入って来やすいがゆえに、理解した!っていう誤解を生みやすいものでもある。何かあるものを理解しようとするとき、「2項対立」の概念を仮に立ててみて、そこから考えていくっていうのはとっかかりとしては取り組みやすい。取っ掛かりとして有用なのは全然否定しない。
だけど、ほとんどの事柄は、結論としてはそういう「2項対立」ではすっきりまとめることができないことばかりだと思う。
「2項対立」は入り口としてはいいんだけど、決して出口ではない。
善と悪に関しても、2項対立で「この人は善100%!」とか、「この人は悪100%!」って言う結論になることはほとんどないんじゃなかろうか。
でも、そういう結論で理解した錯覚に陥る罠があるのが、2項対立の落とし穴だし、欠点だと思う。そこは自覚的で意識的な方がいい。
手塚治虫は、常に善でもあり悪でもある混沌とした世界を描いていて、だからこそ人間味溢れる普遍性を得ていると思うし、手塚が「鉄腕アトムは絶対的なよい子ではない!」と言って、社会から作られたアトムのアイドル的評価に常に苦悩していたように、単純な2項対立の結論になることは皆無と言っていいと思う。
犯罪報道も、死刑制度もそうかもしれんけど、「この人は悪100%!」って2項対立でバッサリ切っちゃうことで大事なことを取りこぼすことって多いし、単に臭いものに蓋をしていたり、対象そのものから逃げているのと同じような気がしちゃうんです。
■奥底にあるリアルなものを、ある表面で包んでいる
食べ物を食べるときに、動物がどう殺されて自分が生きているかって普段考えないのが普通だったり、人体の表面ってすごくキレイだけど、中には生々しくリアルな内蔵がグチャグチャにいっぱい詰まっていたり・・。 生きていく上で嫌悪感や不快感を感じないように表面的に化粧するっていうのも、生活の知恵として大事だと思います。ただ、ある対象の本質に迫るには、表面的には隠された奥深くのものを、丁寧に見ていくっていうプロセスは大事だとも思う。
2項対立ってとこから少し脱線しましたけど、2項対立っていう概念は
「とりあえず表面とか対象全体を大まかに理解するために、取っ掛かりとして有用な手法。でも、それがそのまま最終的な結論になることはほとんどない。入り口としてはいいんだけど、決して出口ではない。」
っていうことをわきまえたい。
それは自分への戒めとしてもよく思います。
■「2項対立」の長所
2項対立の長所って書いたけど、長所というか、こういう風なことにもつながるし、いいとこもあるんじゃないの?ってことですね。ま、長所でいいや(笑
実用的なものと非実用的なもの、意味があるものとないもの、言語的なものと非言語的なもの、目に見えるものと目に見えないもの・・・・2項対立で分割させようとすれば無限に切り口がある。
自分を客観的に見つめた上で、何らかの境界線でこの世界を2つにぶった切って、実験的に2項対立の世界にしちゃうと、自分が一方側にいる場合と、その境界にいる場合があるんだと思う。
■境界・狭間(→また別の機会に)
自分は、どうやらその境界領域が趣味嗜好として好きなんだなぁということに、最近気づいてきた。そしてそれを意識しようと思ってきた。
境界線上ってすごく不安定で危ういので、あっちに行ったりこっちに行ったり、フラリフラリと揺らぎながら常にバランスとならないといけないんですけどね。危ういから面白いってのもあるし、一定でないから無限性を感じれるってのもある。
ま、これは単に個人の趣味趣向に近いものだし、また別の話なんで置いときますね
(→梨木香歩さんの「ぐるりのこと」っていうのがそういう境界とか狭間の話で、とても素晴らしい本なんですよ。読みやすいしお奨め。これで梨木さんの大ファンになっちゃいました。境界とか狭間なことはいつかブログにも書きたいっては思ってますが・・・いつになるやら)。
■実用-非実用 意味-非意味 言語-非言語
色んな観点で自分を二つにぶった切ったときの、自分が明確にどちらかにいる場合の件をとりあえず書きたい。
男と女で言えば男の領域にいるなぁとか、実用的職業と非実用的職業で言えば実用的職業にいるなぁとか、都市と地方で言えば今は都市にいるなぁとか、そういうことです。
そういう2項対立の一方の領域にいるというとき、それ自体ではやはり完成形ではなくて、もう一方の領域と【相補的】であるときに、やっと一つの完成形になるんじゃなかろうかと最近思うんですよ。
【相補的】というのがキーワードなんだと思う。
(A)実用的職業と(B)非実用的職業とか、(A)意味の世界と(B)意味ではない世界、(A)言語的世界と(B)非言語的世界とか、まあ色々ありますよね。
自分は上の3つで言うと比較的(A)にいる気がしますが、やはり不完全だなーってよく思うんです。かなり偏ってる生き方だと思うし、自分の一度きりの人生を、こんなことに何十年も時間を費やしていっていいのかなぁとかね。不安になる時も間違いなくある。
それに対して、上の3つで言うと(B)にいる人も、不完全だなーって思ったり、ふと不安になったりするときってあるんじゃなかろうか。
結局一方の領域だけだと同じ思いを感じちゃうような気がする。
そうなると、お互いが相補的に存在して初めて一つのモノとして成立して完成していくんじゃなかろうかと思うに至った。
どっちかだけでは駄目で、違う領域の他者と、二つが共存し同居することで初めて成立し、完成するものなんじゃないかと。
■個人だけでは超えられない壁と他者の存在
そこは一人の個人では超えられない壁なんじゃないかと。
そのためには、自分がこの世界でどういう立ち位置にいるかを知ることから始まる。
立ち位置としてイマ、ココというのは、イツ?ドコ?ということを考えることから始まる。
つまり、時間と空間を問い直すこと。
この時間である有難さとか、この空間であることの有難さとかを思うこと。
そして、自分の立ち位置を浮き上がらせるために、いろいろな境界線を自由に引いていく。善と悪、意味と非意味、言語と非言語・・・、なんでもいい。引くことができる境界線が多ければ多いほど、自由であればあるほど、自分の世界の中での立ち位置っていうのは明確におのずからあぶりだされてくる。
それは、ありふれた言葉に変換すると「色んな世界を見なさい」「色んな人と交わりなさい」という教訓じみた言葉に秘められているのかもしれん。
まあそうなると、「2項対立」の「対立」の部分がおかしいんであって、「同居」とか「混在」とか「一体」とか、そういうことなのかもしれんけど。
医学も医学だけでは完成系ではないし、科学も科学だけでは完成系ではない、芸術も芸術だけでは完成系ではない、。
自分が所属している立ち位置で、実際そうやって思い直すと、色々やるべき課題が見えてきた。
【相補的】に【呼応】していくこと。
この辺は、まあこのブログで手を変え品を替え書いていることです。いつも最終的には同じこと書いてますね!笑
ま、実際にどういうことを意味するかは、この現実世界を生きていく上で、実践して体現していきたいとも思っています。
理論だけではなく実践でね。
これは、プロジェクト大山のような踊りをやっている方の表現や、通崎さんのようなマリンバ奏者の音楽をやっている方の表現を見たり、他にも色んな魅力溢れる他者と会って話したりして、改めて自分にとってリアルに感じとったことなんですよ。
「違う世界から学びました!」って言えば簡単なんだけど、細かく記述すると、まあ上に書いたようなことなんだと思ったんです。
なんか、『2項対立の長所と短所』っていうタイトルから微妙にずれとる気もするけど、まあ大して思いつかないんで、このタイトルにしときました(笑